平成心学塾 社会篇 人は、かならず「心」に向かう #001

開講にあたって

「ネクスト・ソサエティをさぐる」

 

いま、私たちの社会は「心の社会」に向かっている。
「心の社会」とは、あらゆる人々が幸福になろうとし、思いやり、感謝、感動、癒し、そして共感といったものが何よりも価値を持つ社会のことである。
人類はこれまで、農業化、工業化、情報化という三度の大きな社会変革を経験してきた。それらの変革はそれぞれ、農業革命、産業革命、情報革命と呼ばれる。第三の情報革命とは、情報処理と情報通信の分野での科学技術の飛躍が引き金となったもので、変革のスピードはインターネットの登場によってさらに加速する一方である。
私たちの直接の祖先をクロマニョン人など後期石器時代に狩猟中心の生活をしていた人類とすれば、狩猟採集社会は数万年という単位で農業社会に移行したことになる。そして、農業社会は数千年という単位で工業社会に転換し、さらに工業社会は数百年という単位で二〇世紀の中頃に情報社会へ転進したわけだ。それぞれの社会革命ごとに持続する期間が一桁ずつ短縮しているわけで、すでに数十年を経過した情報社会が第四の社会革命を迎えようとしていると考えることは、きわめて自然だと言えるだろう。私は、その第四の社会とは人間の「心」というものが最大の価値を持つ「心の社会」であると考える。現在は、「心の社会」に向けて進みつつある、いわば「ハート化社会」なのではないだろうか。
アメリカのクレアモントに在住し、世界最高の経営学者にして社会生態学者ともいわれるピーター・ドラッカーによれば、西洋の歴史では、数百年に一度、際立った転換が行なわれるという。世界は、「歴史の境界」を越える。そして社会は、数十年をかけて、次の新しい時代のために身繕いする。世界観を変え、価値観を変える。社会構造を変え、政治構造を変える。技術や芸術を変え、機関を変える。やがて五〇年後には、新しい世界が生まれる。
このような転換は、一三世紀にも見られた。当時のヨーロッパ社会は、ほとんど一夜にして都市中心社会となった。ギルド(同業組合)が新しい社会勢力として登場し、遠距離貿易が復活した。新しい建築としてゴシック様式が、新しい画派としてシエナ派が興った。宗教、学問、精神の担い手として、新しい都市型の修道会たるドミニコ会やフランシスコ会が登場した。そして数十年後には、ダンテが「ヨーロッパ」文学を生み、言語はラテン語から地方言語へと重心を移した。
その二〇〇年後、次の転換が、一四五五年のグーテンベルクによる植字印刷や印刷本の発明と、一五一七年のルターによる宗教改革のあいだの六〇年間に起こった。この時期にはまた、一四七〇年から一五〇〇年にかけてフィレンツェとヴェネツィアにおいて絶頂期を迎えたルネッサンスの隆盛があり、古代の再発見があった。さらには、ヨーロッパ人によるアメリカの発見があり、ローマ軍団以降初の常備軍としてのスペイン歩兵軍団の創設があり、解剖学をはじめとする科学的探究の再発見があり、西洋におけるアラビア数字の普及があった。
次の転換期は一七七六年にはじまった。すなわちアメリカの独立があり、ジェームズ・ワットが蒸気機関を完成し、アダム・スミスが『国富論』を書いた年である。その転換期は、四〇年後のワーテルローの戦いで終わり、この四〇年間に産業革命が起こり、資本主義と共産主義が現れ、近代のすべての「主義」が生まれた。一八〇九年には、初の近代的大学としてベルリン大学がつくられるとともに、普通教育がはじまった。ユダヤ人が解放され、一八一五年にはロスチャイルド家が王侯の影を薄くするほどの大きな力を持つ存在となった。結果としてこの四〇年は、ヨーロッパに新しい文明を生み出したのである。
それから二〇〇年後の今日、再び転換のときがやってきた。今回の転換は西洋の社会や歴史に限定されてはいない。それどころか、もはや「西洋」の歴史も、「西洋」の文明も存在しえないということこそ、根本的な変化の一つであるとドラッカーは述べている。もはや存在するものは、西洋化されてはいるが、あくまでも、世界の歴史と世界の文明である。
現在のハート化社会は、「心の社会」のために身繕いをしていると言える。次に社会を根底から変える発明や出来事とは何か。世界初のコンピューターであるENIACが完成したのは一九四六年だが、その五〇年後、インターネットが世界中に普及した。では、いまから五〇年前には何が起こったか。一九五五年にはアメリカでディズニーランドが開業され、五七年にはソ連がスプートニク一号の打ち上げに成功している。これらの出来事は確実に現在の私たちの意識や社会に大きな影響を与えた。そして、現在も、後の社会に影響を与える何かが起こっているのだ。
社会とは何だろうか。ドラッカーは言う。人は生物的存在として生きるために呼吸する空気を必要とするように、社会的存在として生きるために機能する社会を必要とする。私たちは社会を定義することはできなくとも、その機能の面から社会を理解することはできる。社会は、一人ひとりの人間に「位置づけ」と「役割」を与え、そこにある権力が「正統性」を持つとき、はじめて機能する。
一人ひとりの人間が社会的な位置づけと役割を持つことは、その個人にとって重要なだけでなく、社会にとっても重要である。彼ら一人ひとりの目的、目標、行動、動機が社会のそれと調和しないかぎり、社会は彼らを理解することも自らの一員とすることもできない。
個人と社会との関係のあり方は、人間の本質と目的について、その社会がどう考えるかという基本的な理念によって定まると言えよう。人間の本質は、自由な存在とも、自由ならざる存在とも見ることができるし、平等なものとも、そうでないものとも見ることができる。あるいは善良なもの、邪悪なるもの、完全なるもの、完全たりうるもの、完全たりえないものとすることもできるのである。
また、人間存在の目的は、この世にあるとも、あの世にあるとも見ることができる。不滅と見ることもできるし、仏教の教えのように輪廻すると見ることもできる。あるいは戦いにあるとも、経済的な完成にあるとも、大家族にあるとも見ることができるのだ。それら人間の本質についての理念が、社会としての目的を定める。そして、それら人間存在の目的についての理念が、その目的を追求すべき領域を定める。このような人間の本質とその存在の目的についての理念、すなわち人間観が、社会の性格を定め、個人と社会の基本的な関係を定めるのである。
古代中国において、孔子の流れをくむ孟子は人間の本性を善なるものとする「性善説」を唱え、荀子は人間を本性を悪なるものとする「性悪説」を唱えた。私は人間の本性は善でもあり悪でもあると考える。そして来るべき「心の社会」においては、人間の持つ善も悪もそれぞれ巨大に増幅されてその姿を現すだろう。ブッダやイエスのごとき存在も、ヒトラーやスターリンのような存在も、さらなるスケールの大きさをもって出現してくる土壌が「心の社会」にはあるのである。「心の社会」は、ハートフル・ソサエティにもハートレス・ソサエティにもなりうるのだ。
フランスの文化相も務めた作家のアンドレ・マルローは「二一世紀は精神性(スピリチュアリティ)の時代である」と述べたが、これまで多くの人々が未来社会について予測した。ジョン・ガルブレイスは「ゆたかな社会」を、ダニエル・ベルは「脱工業化社会」の到来を予告した。アルヴイン・トフラーは、起りつつある変化を「第三の波」と呼び、社会の根本的変化の近いことを予告した。マリリン・ファーガソンは、あらゆる分野に起りつつある変化が結合して、社会規範を変化させる「アクエリアン革命」になろうとしていることを指摘した。日本の堺屋太一は、知恵の値打ちが経済の成長と資本の蓄積の主要な源泉となる「知価社会」をつくり出す技術、資源環境および人口の変化と、それによって生じる人々の倫理観と美意識の急激な変化全体がもたらす「知価革命」を主張した。
そして、社会生態学者としてのドラッカーは二一世紀のはじまりとともに「ネクスト・ソサエティ」を発表した。ネクスト・ソサエティの特質は「知識社会」および「少子高齢化社会」の二つに集約されるといってよいだろう。特に日本では「高齢化」が最大のテーマになっている。私は前著『老福論』で「人は老いるほど豊かになる」と訴え、「老い」に価値を置く「好老社会」の重要性を説いた。「老い」は心の社会にとっても大問題なのである。
そして、「老い」の先には「死」がある。近代工業社会はひたすら「若さ」を讃美し、「生」の繁栄を謳歌してきたが、忍び寄る超高齢社会の足音は、私たちに「老い」と「死」に正面から向き合わなければならない時代の訪れを告げている。そして、そこで何より求められているのは生老病死の幸福なデザインだと言えるだろう。特に核心となるのは「死」のデザインである。日本人は人が死ぬと「不幸があった」と言うが、私たちはみな「死」を未来として生きている存在だ。どんな生き方をするにしろ、最後のゴールが「不幸」であれば、日本人の幸福などはじめからありえないことになる。「心の社会」においては「死」を「不幸」から解放させなければならず、それにはまず、「死」をどうとらえるかが非常に重要になってくる。その意味で、「心の社会」では哲学・芸術・宗教の存在が大きくなる。なぜなら、哲学も芸術も宗教も、「死」をとらえて精神を純化させる営みに他ならないからである。
「死」の問題を突き詰めて考えた哲学者にキルケゴールがいる。一八四九年に彼が書いた『死に至る病』は、後にくる実存哲学への道を開いた歴史的著作だが、ちょうど一〇〇年後の一九四九年にある人物がキルケゴールについてのすぐれた論文を書いた。その人物とは、なんとドラッカーであり、論文のタイトルは「もう一人のキルケゴール  人間の実存はいかにして可能か」である。ここでドラッカーは、人間の社会にとって最大の問題とは「死」であると断言し、人間が社会においてのみ生きることを社会が望むのであれば、その社会は、人間が絶望を持たずに死ねるようにしなければならないと述べている。そして、思考の極限まで究めたこの驚くべき論文の最後に、こう記しているのである。
「キルケゴールの信仰もまた、人に死ぬ覚悟を与える。だがそれは同時に、生きる覚悟を与える。」(上田惇生訳)
「心の社会」は、「死」を見つめる社会であり、人々に「死ぬ覚悟」と「生きる覚悟」を与える社会である。それは「死」という人類最大の不安から人々が解放され、真の意味で心がゆたかになれる、大いなる「ハートフル・ソサエティ」なのだ。
私は、ドラッカー・チルドレンである。ドラッカーの経営理論を愚直なまでにそのまま導入して会社の経営に当っている。一九世紀を代表する思想家がマルクスなら、二〇世紀最大の思想家こそドラッカーであると信じている。もともと私は、一九世紀の「知」はダーウィンとニーチェとマルクスに代表され、二〇世紀のそれはアインシュタインとハイデガーとドラッカーに代表されると思っていた。でも、マルクスとドラッカーは世界を解釈するだけでなく変革してきた。マルクスは、レーニンをはじめとした世界中の革命家を通じて。そして、ドラッカーは、ウェルチをはじめとした世界中の経営者を通じて。
数多く翻訳出版されているドラッカーの著書はもちろん全部読んだ。そのなかでも、『ネクスト・ソサエティ』のインパクトは、二一世紀の社会像について漠然と考えていた私にはきわめて大きなものであった。私は同書をドラッカー教授から私への問題集であると勝手にとらえ、「あなたなら、ネクスト・ソサエティとはどのような社会であると考えるか」という質問に対する提出レポートとしてのアンサーブックを書きたいと思い至った。それが本書『ハートフル・ソサエティ』である。
私は、次なる社会とは「心の社会」だと確信している。「心の社会」の全体像を少しでも描き出したいと努力はしたが、「群盲象を撫でる」の言葉どおり、それは到底かなわないことだ。せめて、いくつもの「まなざし」によって、次なる社会を透視し、その全体像をホログラフィーのように浮かびあがらせることしかできない。私は、科学や技術や哲学・芸術・宗教、あるいは生老病死、花鳥風月、相互扶助、ホスピタリティといったさまざまな「まなざし」を総動員して、次なる社会の覗き見をたくらんだ。そこで重要な鍵となってくるのが、脳と月である。人間の「心」は脳と月によって、その本質をとらえることができると私は考えており、人の心の集合体である「心の社会」もまた当然、脳と月によって語られるべきだと信じている。詳しくは、本書をお読みいただきたい。
本書のはじまりは、現在における社会のネガティブな側面を見つめるものだが、基本的にはポジティブに未来をとらえるものとなっている。なぜなら、どんな社会予測の中にも著者の考え方が反映されており、まったく客観的なデータ予測のようなものはありえないからだ。逆に、天気予報ではないのだから、社会予測には「このような社会にしたい」という著者の意志、あるいは希望が結局は不可欠なのだと思う。キルケゴールのいう「死に至る病」とは「絶望」のことであったが、私は人類の未来に対する大きな「希望」を心に抱いて本書を書いた。
さあ、それではクレアモントからの風に吹かれながら、一緒にネクスト・ソサエティをさぐる冒険の旅へと出発しよう!