平成心学塾 社会篇 人は、かならず「心」に向かう #010

第九講「哲学・芸術・宗教の時代」

第九講「哲学・芸術・宗教の時代」

 

二一世紀は、哲学・芸術・宗教の時代である。フランスの文化相も務めた作家アンドレ・マルローは「二一世紀はスピリチュアリティ(精神性)の時代である」と述べたが、私はより具体的に、哲学・芸術・宗教が人々の主要な関心事になる時代と表現したい。
そもそも哲学とは何だろうか。また、芸術とは、宗教とは何か。一言で語るならば、それらは人間が言語を持ち、それを操り、意識を発生させ、抽象的を持つようになったことと引き換えに得たものである。私たちが知っているような話し言葉の誕生が、人類の先史時代を特徴づける一つの出来事だったことに疑問の余地はない。あるいは、それこそが実際に先史時代を特徴づけた決定的な出来事だったのかもしれない。言語を身につけた人類は、自然界に新たな世界をつくり出すことができた。つまり、内省的な意識の世界と、他者とともにつくりあげて共有する世界、私たちが「文化」と呼ぶものである。ハワイの言語学者デリック・ビッカートンは、「言語こそが、人間以外のあらゆる生物を拘束する直接体験という監獄を打ちこわし、時間や空間に縛られない無限の自由へとわれわれを解き放ったのである」と述べている。
人間は言葉というものを所有することによって、現実の世界で見聞したり体験したことのない、もしくは現実の世界には存在しない抽象的イメージを、それぞれの意識のなかに形づくることができるのである。そして、そのイメージを具現化するために自らの肉体を用いて自然を操作することができるのだ。まさしく、その能力を発揮することが文明だった。それによって人間はこの自然の上に、田や畑や建造物などの人工的世界を建設し、地球上で最も繁栄する生物となったのである。
抽象的なイメージ形成力を持ち、自然を操作する力を持ち、自らの生存力を高めてきた人間だが、その反面で言語を持ったことにより大きな原罪、あるいは反対給付を背負うことになった。人間はもともと宇宙や自然の一部であると自己認識していた。しかし、意識を持ったことで、自分がこの宇宙で分離され、孤立した存在であることを知り、意識のなかに不安を宿してしまったのである。実存主義の哲学者たちは、それを「分離の不安」と言う。しかし、不安を抱えたままでは人間は生きにくいので、それを除去する努力をせざるを得なかった。この営みこそが文化の原点であり、それは大きく哲学・芸術・宗教と分類することができる。したがって、文明と文化は相互補完の対概念であると言える。
「分離の不安」が言語を宿すことによって生じたのであれば、その言語を操る理性や知性からもう一度「感性」のレベルに状態を戻し、不安を昇華させようとする営み、それが芸術であると言えるだろう。
さらに、麻薬を麻薬で制するがごとくに、言語で悩みが生じたのであれば、それを十分に使いこなすことによって真理を求め、悟りを開こうとしたのが哲学であった。
そして宗教とは、その教義の解読とともに、祈り、瞑想、座禅などの行為を通して絶対者、神、仏、ブラフマンといったこの世の創造者であり支配者であろうと人間が考える存在に帰依し、悟ろうとしたり、心の安らぎを得ようとする営みだった。
このように、哲学・芸術・宗教は同根であり、人間が言語を操って抽象的イメージを形成し、文明を築いていく代償として「分離の不安」を宿したことへのリアクションだと言える。インターネットに象徴されるさまざまなテクノロジーや、グローバルな資本主義によって、人類はますます文明化していく。その結果として、二一世紀はまた、哲学・芸術・宗教のルネッサンスの世紀となるのである。それぞれについて、さらに深く見ていきたい。
哲学・芸術・宗教と聞いて、おそらく最も近寄りがたいイメージを持たれるのは哲学だろう。「哲学ほど面白いものはない」と言う人もいるが、ほとんどの人々は本気にしないだろう。それほど、哲学は難解で無用の長物であると見なす考え方が一般化している。しかし、他方で、それぞれの思いによって「哲学を求める」人々が後を絶たないのも、また事実である。
特に経営者の多くは「哲学」とか「フィロソフィー」という言葉を語りはじめている。ドラッカーなどが、二一世紀の社会は知識集約型社会であり、そこでは知識産業が主役になると主張している。知識集約型社会において、企業が「売れるもの」は、知識ワーカーとしての社員に体現された組織の知識や能力、製品やサービスに埋め込まれた知識、顧客の問題を解決するための体系的知識だとされている。顧客は、提供された知識とサービスの価値に対して評価し、支払うことになるのである。
一方、企業が質の高い知を創造するのは、事業を高い次元から眺めること、知とは何かを問うこと、つまり、哲学が求められる。それは「志の高さ」にもつながるもので、当然トップの課題でもある。マーケットはそこまで見て企業を評価するようになると言われている。ビジョンやミッションはもちろん、フィロソフィーまで求められるのが二一世紀の企業像なのだ。
私の最も尊敬する経営者の一人である京セラ名誉会長の稲盛和夫氏は、日本人にいま求められていることは、「人間は何のために生きるのか」という、最も根本的な問いに真正面から向かい合い、哲学を確立することだと述べている。
政治にしても、経営にしても、倫理や道徳を含めた首尾一貫した思想、哲学が必要であることは言うまでもない。しかし、政治家にしても経営者にしても、その大半は哲学を持っていない。そのような現状で、『稲盛和夫の哲学』という著書もある稲盛氏は、経営における倫理・道徳というものを本気で考え、かつ実行している稀有な経営者であると言える。
「人間は価値ある存在なのか」「この世に生を受け、生きていく意味とはどこにあるのか」
そのように「人間」というものに対して核心をつくような問いを受けたとき、稲盛氏は次のように答えるそうである。
「地球上・・・・・・いや全宇宙に存在するものすべてが、存在する必要性があって存在している。どんな微小なものであっても、不必要なものはない。人間はもちろんのこと、森羅万象、あらゆるものに存在する理由がある。たとえ道端に生えている雑草一本にしても、あるいは転がっている石ころ一つにしても、そこに存在する必然性があったから存在している。どんなに小さな存在であっても、その存在がなかりせば、この地球や宇宙も成り立たない。存在ということ自体に、そのくらい大きな意味がある」
宇宙のなかで「存在する」ということは、あるものが自立的に存在するのではなく、すべてが相対的な関係のなかで存在するということになる。さらに考えを進めていけば、他が存在しているから自分が存在するし、自分が存在するから他が存在するという、相対的なつながりにおいて存在というものが成り立っている、ということができよう。
釈迦ことゴータマ・ブッダはこれを「縁があって存在する」というふうに表現したが、つまるところ哲学的思考とは、宇宙のなかにおける人間の位置や、自然の秩序や人生の意味などについて深く考えをめぐらせることだと言える。
その意味で、人間が最初に考え出した最古の哲学とは「神話」である。どんな領域のことであれ、人間ははじめにしか本当に偉大なものは創造しないとされている。中沢新一氏が著書『人類最古の哲学』で述べているように、私たちが今日「哲学」という名前で知っているものは、神話がはじめて切り開き、その後に展開されることになるいっさいのことを先取りしておいた領土で、自然児の大胆さを失った慎重な足取りで進められていった後追いの試みにすぎないのかも知れない。神話はそれほどに大胆なやり方で、宇宙と自然の中における人間の位置や人生の意味について、考え抜いてこようとした。人間の哲学的思考のもっとも偉大なものとは、まさに神話のなかに隠されているのである。
ところが今日の学校教育は、神話についてほとんど語ろうとしない。神話は幼稚で、非合理的で、非科学的で、遅れた世界観を示しているものとされているから、それについて学んだところで、今日のように科学技術が発達した時代においては、まるで価値がないと考えられている。それに日本では戦後、教育のやり方が大きく変わり、『古事記』や『日本書記』に語られている神話を教えたがらなくなった。。これは本当に惜しいことだと思う。
『記紀』は八世紀に、政治的意図をもってへんさん編纂されたものではあるが、その中にはきわめて古い来歴をもつ普遍的な神話が、たくさん保存されているのである。これは世界の諸文明の中でも、あまり例のないことだ。北米インディアンやアマゾン河流域の原住民が語りつづけてきた神話とそっくりの内容をもった神話が、『記紀』には語られているのである。人類最古の哲学的思考の破片が、そこでキラキラと光っているのが見えるのだ。そんなに魅力的なものを子どもたちに教えないというのは、なんともったいないことだろうか。
学校教育が与えようとしている知識のほとんどは、せいぜいこの一〇〇年から一五〇年間の「モダン」の時代に集積された知識にすぎない。「哲学」といっても、ギリシアで創り出されて以来二五〇〇年ほどの歴史しか持っていない。ところが「はじまりの哲学」である神話は、三万数千年にもわたる、とてつもなく長い歴史を持っており、その間に人間が蓄積してきた知性と知恵が、神話には保存されているのだ。神話もたえず変化や変形をとげてきましたが、その核の部分には、最初に燃え上がった哲学的思考のマグマの火が今も燃えつづけているのである。
さて、「神話」の子である「哲学」は古代ギリシアで生まれた。ソクラテスは「哲学とは死の学び」と語り、その弟子であるプラトンは「死」についての哲学的思考を大著『国家』のなかの「エルの物語」にまとめている。なぜ、「哲学」と「死」の問題が分かちがたく結びついているのだろうか。
現代日本を代表する哲学者の中村雄二郎氏によれば、哲学をするうえにまずもって大事なことは、経験上でも書物のうえでも、積極的に色々なことと出会って、未知なものやそれまで気づかなかったことを新鮮に受け取り、驚くという、好奇心を持ちつづけることであるという。したがって、「哲学は好奇心である」と言える。
哲学とは好奇心であり、知ることへの情熱であるならば、そのまなざしは当然、「謎」や「不思議」に向かう。アニメ映画「千と千尋の神隠し」の主題歌にも出てくるように、生きている不思議、死んでいく不思議・・・・・・この世は不思議に満ちている。まったく赤の他人の男女が知り会って、恋をして、結婚するというのも、考えてみれば実に不思議な話である。
でも、人類にとって最大の謎はやはり「死」であると言えよう。なぜなら、宇宙と自然の中における人間の位置、人生の意味を考える哲学的思考にとって、その存在の意味が明らかになっていないのは未来だけだからであり、その未来には確実に「死」があるからである。
誕生によってこの世界に投げ出された人間は、さまざまな世界との関わりのなかで存在の意味を開示しながら、過去と現在を生きてきた。そして、これからも世界と関わり、新たな意味を見出していくのだが、最終的には死ぬしかないのである。その事実がもたらす不安をやわらげるには、できるだけ「死」について考えず、忘れることに人々は努めてきた。
しかし、哲学者は違う。これまで数えきれないほど多くの哲学者たちが「死」について考えてきた。古代ギリシアのエピクロスは、人間にとって「死」など無関係なものだと述べた。人間が生きているあいだは、死んでいるわけではないから、「死」とは関係ない。また、死んでしまえば人間として存在してはいないわけだから、やはり「死」は関係のないものである。以上が、エピクロスの主張だ。
しかし、生身の人間としてはこれほど達観することはできない。忘れようとしてもどこかで「死」を想い、考えまいとしても、どうしても「死」の影がちらつくのが現実である。ならば、逃げ隠れせず、「死」と正面から向き合ってしまえ、引き受けてしまえと言ったのが、二〇世紀最大の哲学者といわれるドイツのマルティン・ハイデッガーである。
「死」は「生」に限られた時間をもたらす。明日死ぬかもしれないという可能性を受け入れれば、時間は価値あるものとなる。もう、意味のないおしゃべりや気晴らしで時間を浪費することなく、未来の可能性に自分自身を投じることができる。新たな存在の意味を見出すために、世界とどう関わっていくかの道筋も見えてくる。そして、そのときはじめて、「良心」からの声が聞こえてくるとハイデッガーは言う。この良心は倫理観や道徳心といったものとは少し違う。自分がよりよく生きることができる、という自信や確信といったほうが近い。
このハイデッガーの思想は、「葉穏」の武士道にも通じるものだと思うが、一般には不安や恐怖をもたらすものと考えられている「死」を引き受けることによってこそ、人間は本来的な存在の意味を明らかにできるというのである。ここにきて、ようやく「哲学とは死の学び」という言葉の意味がわかってくる。哲学とは、牢獄としての肉体を超えて精神を純化させること。つまり、哲学とは意識的に死ぬ道なのである。
それでは、芸術とは何か。芸術にはさまざまなジャンルがあるが、「芸術」という言葉を聞いて、多くの人がまず連想するのは美術、それも絵画ではないだろうか。どうも芸術家イコール画家というイメージが一般にはある。
哲学とは自分が不思議と向かい合って驚くことであるなら、芸術とは表現をもって他人を驚かせること。これまで数えきれないほど多くの画家たちが、鑑賞者たちを驚かせてきた。人間が精神と肉体からなっていると言われるように、美術作品もテーマ主題とその表現からなっていると言われる。美術作品は表現だけが重要で、主題は副次的なものにすぎないという考え方もないわけではない。事実、造形的な冒険の連続といってもよい二十世紀美術においては、まず表現の可能性が追求されたのである。それに対して、ヨーロッパ中世の写本やキリスト教会に描かれた壁画では、逆に主題の方が重要であった。
そして最も重大な主題は、人生における四つの終事、すなわち「四終」とされた。「四終」とは、死、最後の審判、天国、地獄をさすが、これについてはキリスト教に限らず、仏教でも、死生、極楽浄土、地獄に関する仏教説話集や、その説話にもとづく絵画・彫刻が多く残されている。
このように芸術と宗教は深く結びついている。偉大な芸術作品は宗教に最高の光を与えてくれるので、世界中の教会の礼拝堂をはじめ、神社、仏閣には絵画や彫刻を収めるのである。
宗教のみならず、哲学も芸術と深く結びついている。絵画芸術は神話画、歴史画、宗教画、戦争画、風景画、静物画、人物画のすべてにおいて、哲学的思想を内包させている。一見して静物画と思われるセザンヌの『どくろ髑髏のある静物』にしても、不死の象徴でもある月桂冠や、生命の糧となる果実とともに髑髏が描かれている。それは生と死をもて遊んでいるのではなく、ヨーロッパの中世末期に流行した「メメント・モリ(死を想え)」という哲学的思考に立ち返る精神を要請しているのだ。デューラーやホルバインと同じく、私たちはしんし真摯な姿勢で芸術に心を向けなければなりません。また、プーサンのように神話世界を風景の中に取り込んで理想郷を美しく描いた「アルカディアの牧人たち」も死の謎に満ちあふれているし、さらにはミケランジェロの「最後の審判」にしろボスの天国図にしろボッティチェルリの「ヴィーナスの誕生」や「春」にしろ、あらゆる名画は「死」の問題を主に扱っている。
絵画だけではない。ヨーロッパのルネッサンス期の建築家の存在意義は、教会の建立と墓をつくることの二つだけだった。また、ルネッサンス期、バロック期に生まれた彫刻の半数は、葬儀のためにつくられたという事実がある。
先に紹介した「四終」の特質は実存的な「死」への思考である。つまり、芸術の究極のテーマとは「死」なのだ。もともと哲学・芸術・宗教は同根であり、その根は「死」という人類最大の問題にからみついている。そう、哲学・芸術・宗教のいずれもが、結局は「死」の問題をとらえて、心を純化させていく営みに他ならないのである。
死の儀式を最初に行なった者は、約一〇万年前に生きていたネアンデルタール人だとされている。この種族は発達した脳と言語を持っていたらしく、しかも、発掘された彼らの洞窟の中の遺骨の周囲に花の種子が発見されたので、死者たちに花をたむけたと考えられている。そして、約三万年前のクロマニョン人のラスコー洞窟には壁画が発見されていることからもわかるように、人類と絵画表現の歴史は前期旧石器時代にはじまるのである。こうした洞窟壁画には多くの日常生活の中にみられる死が描かれており、クロマニョン人たちの「死」に対する関心の高さがよくわかる。
しかし、人類が最初に発明した芸術とは、絵画ではなく、おそらく音楽であったとされている。人類がこの地球上に誕生してから現在に至るまで、人間が追い求めてきたものは「私とはいったい何者か」という自己の存在確認と意味の追求だったということもできよう。そして、それは近代文明の発達とともに「私の幸福とはいったい何か」という自己の存在の目的を追求することに少しずつ変わっていったのである。
有史以前の音楽には、豊かな意味性があったという。自分たちの集落の音楽と他の集落の音楽を区別して、戦闘のときにそれを自分たちの戦意を鼓舞するために使った。あるいは、誕生の祝いの歌、死者を弔う歌というふうに、目的に合わせて音楽に意味を持たせていたのだろう。
人類最古の楽器が何だったのかということを調べていくと、それは人間の身体だったのではないかという説に行き着く。なにしろ、身近に音を出すモノといえば、自分の身体が一番手っ取り早い。手を叩くだけで十分リズムは出せる。音の高さは変わらないが、音の強弱は十分つく。これだけでもう立派な楽器だ。実際、この「楽器」は、現在でもハンドクラップ(まさに手拍子である)として、フラメンコなどの民族音楽、ラテン音楽、そしてヒップホップ音楽などを中心に世界中の音楽のなかで日常的に使われている。
そして、人間の身体のなかで手の次に使えるのは骨だ。人間の身体はたくさんの堅い骨から出来ている。この堅い物質が最古の楽器として音楽に利用されたことは想像に難くない。自分の手で胸を叩きながら、足を踏みならしながら、リズムを作り、歌を歌う。おそらく、こうしたことが人類にとっての音楽の発生の起源なのだと思われる。
そして、人類が最初に楽器を作ろうとした動機は、自然の音のコピー模倣だったのではないだろうか。赤ん坊が言葉を覚えるために周りの音をすべて模倣しようとするのと同様に、古代人たちが、波の音を、風の音を、小鳥たちの声を、その意味をさぐるために、あらゆる道具を使ってそれらを模倣しようとしたはずである。彼らは、自然界に聞こえてくるさまざまな音の「複雑さ」に何らかの「意味」を見出していたのではないだろうか。だからこそ、その「音」を作り出そうと、楽器を作りはじめたのだと思う。
楽器が自然界の音の模倣のために作られたとすれば、そうした楽器を使って作る音楽とは、まさしく、自然との同化、自然への畏敬、そして目に見えぬ神や霊への恐れだったに違いない。そして、その楽器が現在のような西洋音楽のルールのなかで高度に洗練された楽器へと変化しはじめたのは、まさしく人間が「文明」というものを作り出した時期からなのである。
さて、音楽とは人間にとって何だろうか。音楽は、ある意味で、匂いと同じような存在であるのかもしれない。人間が匂いを感じるということの最大の目的は「腐った」ものを感知すること、そして「敵」の匂いを感じ取ることである。「腐敗したもの=食べられないもの」を排除するためにも、「敵」の所在を感知するためにも「匂い」は最大の武器になる。つまり、人間が「生」を全うするために「匂い」という存在は絶対的に必要な条件であるにもかかわらず、ふだん人間はこの感覚の意味をすっかり忘れている。人間は「死」を匂いから的確に察知するにもかかわらず。
私たちは、音楽で感動したときに「心の琴線に触れた」というような言い方をする。それは、脳細胞のなかでβエンドルフィンだとかセロトニンだとかの私たちの心を興奮させる化学物質が出ていることのサインであるだろうし、何よりもまず、私たちが「生きている」ということの確認をさせてくれるサインでもある。私たちは「感動できる自分」「生きている自分」にまず感動するのだ。「匂い」にもまったく同じことが言える。「いい匂い」を嗅ぐとき、私たちの脳細胞には、快楽ホルモンであるβエンドルフィンが多量に発生する。逆に、「腐った」モノの匂いを嗅ぐとき、脳細胞のなかではストレス・ホルモンのコルチゾールが発生するのだ。
音楽の感動や匂いの感動が、人間の五感のなかで何よりも直接「記憶」と結びついているのも、こうした今ある「生」と「死」の時空を容易に行き来させる何かを持っているからではないだろうか。仏教において「生」と「死」を結ぶ匂いが線香の香りだとすれば、梵鐘の音は、こうした「生」と「死」を行き来するための音楽なのかもしれない。花の匂いに感動すること、音楽を聴いて感動すること、それはとりもなおさず、「生きている」ことの実感に他ならないのである。
音楽の感動は、人間が自然とのバランスの中で生きるすべを、そして「生きていることの幸せ」を実感させてくれる。それは、個体としてのバランス、自然とのバランス、そして「異空間」とのバランスを保つための情報が「音楽」の中には入っているからである。
人間には二つの「異空間」がある。一つは、人間にとって「ハレ」の舞台となる異次元の空間。もう一つは、「ケガレ」の匂いのする、そこに行ってはいけない恐れを持つ空間。そして、そのどちらの空間へも音楽は、時間を超えて人間を導いていくことができるのだ。二つの異空間とは、平たく言えば、天国と地獄である。ヘヴィ・メタリックなどの音楽が聴く者の心を地獄へと誘うごとく、その反対にモーツァルトのように天国へと誘う音楽というものも存在する。「天国」と「地獄」は絵画における「四終」にも登場するが、この二つほど文学や音楽のモチーフとなったものもない。
ここで一気に芸術の本質について考えてみたいと思うが、私にとってそのヒントとなる言葉に地球を意味する「アースEARTH」がある。「EARTH」は三つに分解される。「E」と「アートART」と「H」だ。その意味について考えると、おそらく「E」とは「エデンEDEN」で、「H」は「ヘヴンHEAVEN」であろう。エデンの園から天国へ、地上の楽園から天上の楽園へ、人間の魂を導く手段が「ART」なのだと思う。 そして、宗教とは何か。オウム真理教事件などは例外中の例外として、日本人は一般に「無宗教」だと言われる。イラクの地でアメリカに徹底抗戦するイスラム教スンニ派の人々には燃えるような宗教心が宿っているが、日本人の心の底に横たわっているのはむしろゆるやかな宗教心ではないだろうか。だから、排他的な態度で特定の宗派に属して厳しい修行をするというような人間を何となく警戒する。宗派とか、教義とか、修行とか、そういうものにあまり重きを置かない。もっとゆるやかで穏やかな、おっとりした宗教心を好んできたように思う。なぜ日本人が「無宗教」であるとされるのか。宗教学者の山折哲雄氏によれば、その原因は大きく二つあるという。
第一にそれは、明治以降の日本人の生き方に深い関係がある。明治国家は日本を近代化するために西洋文明を取り入れて、富国強兵・殖産興業という文明開化路線をまっすぐに突き進んだ。ヨーロッパの近代文明はキリスト教と切っても切れない関係があるから、その文明を取り入れる以上、キリスト教を受け入れるのは自然なことだったはずである。しかし、当時の指導者たちはキリスト教の根本的精神を受け入れることは回避した。それにもかかわらず、キリスト教的なものの考え方は水が流れ入るように日本に入ってきた。ここで注意しなければならないのは、入ってきたのは「キリスト教の信仰」ではなく、「キリスト教的な考え方」だったという点である。
そのキリスト教的なものの考え方のなかで一番大きな問題が、宗教に対する考え方だった。どういうことかというと、キリスト教世界で「あなたの宗教は何ですか」と問うことは、キリスト教徒であるか、ユダヤ教徒であるか、あるいはイスラム教徒であるかを問うことである。一神教世界だから、キリスト教徒であると同時にユダヤ教徒であるということはあり得ない。ただ一つの宗教を主体的に選びとることが一神教世界における宗教に対する基本的な態度であり、そこに一神教的な信仰の本当のあり方がある。つまり、「あれか、これか」なのであって、どちらかを選択しなければならない。それが西洋近代における宗教に対する根本的な立場である。
第二が、日本の伝統的な宗教、あるいは宗教心というのはそのような二者択一によるのではなく、「あれも、これも」という対し方だったということだ。神と仏を同時に信仰してきたのが伝統的な日本人であり、正月には初詣に神社にお参りし、人が亡くなって葬式をする時にはお寺でやる。家には神棚があり、仏壇が飾ってある。そもそも「宗教」とか「信仰」という言葉は日本にはなかったのであり、明治以前の日本人には意識もされなかったことだった。私たち日本人は、そういう生き方を神信心、仏信心で済ましてきたのである。
しかし、明治になって「宗教」「信仰」という一神教の色で染めあげられた言葉をキリスト教から借りて使用するようになった。その結果、その時代の日本人はキリスト教徒でないにもかかわらず、自分自身の内面をキリスト教徒のまなざしで眺めようとした。つまり、本当の宗教というのは「あれか、これか」の宗教、一つを選びとる宗教だと考えるようになった。その結果、それまでの日本の伝統的な宗教、すなわち「あれも、これも」の宗教を、迷信とか俗言とかあるいは低次元の宗教と考えるようになってしまったのである。
といっても、むろん日本人は「あれも、これも」の信仰を捨てなかった。家には神棚と仏壇を祀り、信者でなくても平気でキリスト教会で結婚式をやってきたのだ。「あれか、これか」と宗教の建前を受け入れながら、しかし地方で、その実態を覆いかくしてきたと言えるだろう。ところがそのうちに、一つの信仰を主体的に選びとって自分の宗教にしてはいないという意識が強くなり、いつのまにか「そもそも自分には信仰がないのかもしれない」というふうに解釈して反省するようになり、「お前の宗教は何か」と尋ねられると、つい条件反射のように「無宗教である」とか「無神論者である」と答えるようになったと山折氏は言う。
明治時代に、こういう日本人の生き方を批判した人が内村鑑三である。彼は、日本人はヨーロッパ文明は受け入れたけれども、そのヨーロッパ文明の「魂」であるキリスト教を受け入れなかった、宗教抜きの文明だけを追求したとして日本の行き方を批判している。事態はまさに彼の批判通りに進行した。その後、日本は文明のみを追求し、その基盤となる精神原理をなおざりにしたまま百年の歳月が流れ去ったからである。
宗教抜きであったおかげで、日本は効率よく近代化を進め、経済大国になることに成功したということも言える。では、なぜそれほどまでに明治の日本社会で宗教が力を持たず、社会が世俗化していたのか。時代はさかのぼるが、織田信長がやった仕事の影響が非常に大きかったためである。
宗教の面で、信長は二つの大仕事をやった。一つは比叡山を焼き討ちにして、たくさんの僧侶を殺し、寺院と仏像を破壊したことである。それによった旧来の仏教が持っていた伝統的な権威を地上に引きずりおろした。というより、ほとんど息の根を止めたと言えるだろう。もう一つの大仕事は、日本各地で燃えさかっていた一向一揆の民衆のエネルギーを一つ一つ潰していったことである。そして、最後に大坂の石山本願寺に結集した一揆勢力を正面から攻め、陥落に追い込んだ。まさに「魔王」ともいえる信長は民衆の宗教エネルギーをそこで根絶やしにしたのである。この二つの大仕事によって、日本の社会は急速に世俗的な社会に変容していった。
山折氏は、日本人は「宗教嫌いのお墓好き」「信仰嫌いの遺骨好き」と述べているが、そういったお墓信仰と遺骨信仰が一般的な日本人の信仰になるのは徳川時代以後のことである。その徳川時代に今日まで続く檀家制度が出来あがった。それが宗教の世俗化を促進した決定的な要因だが、その地ならしをしたのが信長だったのである。
さて、お墓信仰や遺骨信仰と言ったが、それらは仏教ではなく、「招魂再生」を掲げる儒教の影響を強く受けている。儒教はよく、古臭い倫理道徳の話と誤解され、宗教ではないと思われているようだ。しかし、本当は儒教ほど宗教らしい宗教はない。宗教とは何か。私は、宗教はその人にとって必要ということがあって、はじめてその姿が現れるものだと思う。宗教とはそのように「自分にとって」という実存的なものであり、必要としない人には宗教は無縁だ。まさに「馬の耳に念仏」といったところだろう。
それでは、いつどういうときに宗教を意識し、求め、必要とするのかということになる。もちろん人それぞれだろうが、大半の人において宗教が意識にのぼってくる大きな機会がある。それは「死」だ。もちろん死の前に「老い」や「病い」もあり、そのときに宗教を意識する場合も多いが、自らの死を前にするとき、ほとんどの人は確実に宗教を意識するものではないだろうか。
宗教とは、「死ならびに死後の説明者」に他ならない。ふだん死は不安であるにすぎないが、それが近いという現実になると恐怖となる。とすれば、その恐怖や不安を取り除くために「死とは何か」と考えるのが人間だが、大半の人間は心弱く、ただうろたえるばかりである。そして行きつくところ、誰かにすがって説明を求めるようになる。
それでは、いったい何が死について語りうるのだろうか。人々は死から逃れるために医学にすがりつく。でも、生物である人間は必ず死ぬ。医学は人が死ぬまでを説明することができても、死んだ後はまったく無力である。そのとき、死後について説明している、あるいは説明できるものは、ただ宗教だけなのだ。
葬儀は、まさに死と死後についての説明を儀式という「かたち」にしたものであるが、日本の葬儀には実は儒教の影響が色濃く見られる。『老福論』に詳しく書いたが、葬儀だけでなく、お墓もお盆の行事もすべてそうである。つまり、日本仏教そのものが儒教の影響を強く受けているのだ。
神道や仏教のみならず、儒教までをもその体内に取り入れている日本人の精神風土を私は全面的に肯定する。別に無宗教とか宗教の世俗化ということで卑屈になる必要はまったくない。一神教の世界では戦争が絶えないが、日本人はあらゆる宗教を寛容に受け入れる。その広い心の源流をたどれば、はるか聖徳太子に行き着く。憲法十七条には、神道も仏教も儒教も、そして道教の思想までもが全部込められている。「あれも、これも」が「ええとこ取り」に昇華されて、多様な宗教思想が仲良く共存している。まさに「和をもって貴しとなす」という太子の思想の核心をそこに見ることができるのだ。
最後に冠婚葬祭を日本最大の宗教だと言う人がいる。宗教嫌いの人でも、信仰心の全くない人でも、身内や知人の結婚式、葬式には必ず出る。「冠婚葬祭」の四文字こそは、神道も仏教もキリスト教も超越した日本最大の宗教なのだというのである。しかし私は、冠婚葬祭は「宗教」そのものというより「宗遊」とでも呼ぶべきものだと思っている。
宗教の「宗」という文字は「もとのもと」という意味で、私たち人間が言語で表現できるレベルを超えた世界である。いわば、宇宙の真理のようなものだ。その「もとのもと」を具体的な言語とし、習慣として継承して人々に伝えることが「教え」なのである。だとすれば、明確な言語体系として固まっていない「もとのもと」の表現もありうるはずで、それが儀礼であり、広い意味での「遊び」だと言える。「遊び」についての不朽の名著『ホモ・ルーデンス』を書いたオランダの文化史家ヨハン・ホイジンガは、「遊びは文化よりも古い」と述べた。私は『ロマンティック・デス』のなかで「葬儀は遊びよりも古い」と記した。実際、世界的に見ても相撲・競馬・オリンピックなどの来歴の古い「遊び」の起源はいずれも葬儀と深い関係がある。古代の日本では、天皇の葬儀にたずさわる人々を「あそびべ遊部」と呼んでいた。葬儀と「遊び」とのつながりをこれほど明らかにする言葉はない。
そもそも、はるか十万年前、ネアンデルタール人が最初に死者に花をたむけた瞬間から、あらゆる精神的営為ははじまった。二一世紀において、葬儀のもとに、「死」を見つめ、魂を純化する営みである哲学・芸術・宗教は統合されるのかもしれない。そして、その大いなる精神の営みはもはや葬儀とは呼ばれず、「宗遊」という新しい名を得るだろう。
二一世紀は「宗遊」の時代である。