平成心学塾 社会篇 人は、かならず「心」に向かう #012

閉講にあたって

「ハートフル・ソサエティに向かって」

 

心のゆたかさとは何だろうか。
最近、私は印象に残る二つのエピソードを耳にした。
一つ目は、航空会社の客室乗務員の話である。ある国際線の乗務員がフライトの際、ビジネスクラスで不思議な光景を目にした。一人の中高年の紳士が席に座っていたのだが、隣の席には写真の額が立てかけてあったのである。聞いてみると、それは亡くなった奥さんの遺影だった。元気な頃、子供たちが無事に巣立ったら夫婦二人で海外旅行に出かける約束をしていた。しかしやっとその約束が果たせる時が来たら、妻が病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。亡き妻との約束を果たすため一人で海外旅行に出たが、一生に一度のことだからとずっと貯金してきたお金を使い、二人分のビジネスクラスの席を購入したとのことだった。
そのお客さんは亡き奥さんのために、往復で七〇万円もの高額のチケットを買ったのである。本当に奥さんと二人で旅行する気なのだ。話を聞いて胸が熱くなったスチュワーデスは、心からこのお客さんのために何かお役に立ちたいと思ったそうだ。彼女はまず、遺影を見ながら微笑みを浮かべて、
「きれいな奥様ですね」
と言った。そしてその次に、
「奥様は何のお飲物がお好きだったでしょうか?」
お客さんは、こう答えたという。
「家内はふだん酒など飲みませんでしたが、もしこういう特別な時なら、きっと赤ワインか何かを飲んだと思います」
それを聞いた乗務員は、写真が立ててある席にテーブルをセットし、そこに赤ワインのグラスをそっと置いた。そしてその後の食事のコースも、すべてご主人と同じように一人前を出し続けたのである。
それだけではない。もっと何かこのお客さんのお役に立ちたいと強く思った乗務員は、他の乗務員にも声をかけて、洗面室など機内にある花をすべて集めて、ささやかな花束を作った。それに「客室乗務員一同からでございます。どうぞ、奥様とすてきなご旅行をお続け下さい」と書いたカードを添えて、写真の前にその花束を置いたというのだ。その紳士が心の底から喜んだことは言うまでもない。
もう一つのエピソードは、こうだ。結婚二十年目を迎えたご夫婦がいた。結婚記念日に二十年前の結婚式のアルバムを二人でなつかしく眺めているうちに、当時参列してくれた人全員に感謝の気持ちを綴った手紙を出そうということになった。「私たち二人は二十年前に結婚いたしましたが、ここまで無事に来ることができました。これも皆様のおかげです。本当にありがとうございます」というメッセージを送りたいというのである。感謝の心というものを持った素晴らしいご夫婦だが、ふとご主人が奥さんにこう尋ねた。
「本当に多くの方々にお世話になったけど、お前はこの中で誰に一番感謝している?」
すると奥さんはすかさず、こう答えた。
「それはもちろん、あなたのご両親ですよ」
自分の両親の名を挙げられて、ご主人は大変よろこんだ。でも、その時には両親ともに亡くなって、この世にはいなかったのである。ご主人は、言った。
「今のお前の言葉を聞いたら、俺の両親はどんなに嬉しく思うだろう!届かなくてもいいから、ぜひ、お前の気持ちを手紙に書いておくれ」
奥さんは実際に夫の両親に手紙を書き、切手を貼ってポストに投函した。住所は両親が眠っている霊園の住所、宛名は両親の戒名を書いたそうである。そして、しばらく日数が経ってからお墓参りをしたとき、その夫婦はとても驚いた。なんと、両親のお墓に例の手紙が置かれていたのである。しかも雨に濡れてもいいように、しっかりとビニールに包まれて。ご夫婦は霊園を管理している寺の社務所を訪れ、お礼を述べようとした。しかし、そこで意外な事実を知ったのである。手紙をビニールにくるんでお墓まで届けたのは、寺ではなく郵便局の配達員だった。その配達員は宛名を一見して事情を推察したのだった。感動したご夫婦は、このことを新聞に投稿したそうである。
以上二つのエピソードはあるお寺の住職よりお聞きしたものだが、もう一つ私が最近聞いた感動的な実話をぜひお伝えしたいと思う。
小倉にある富野インターの近くで数ヶ月前、悲惨な交通事故があった。帰校途中の小学五年生と二年生の二人が、何トンもある大型トラックに巻き込まれたのである。すぐ救急車で近くの病院に運び込まれたが、二人とも即死状態だった。遺体はとても傷んでおり、足などもバラバラで、とても遺族には見せられないほどひどい状態だったそうである。
病院の医師たちは、手術室に入ったとたんに、二人はもう助からないことがわかった。でも、手術室の外では、母親たちが涙を流しながら、
「先生、どうか、どうか、子どもの命を助けて下さい!」
と懇願している。何人かいた医師たちには、みな同じ年頃の子がいた。それで誰が声をかけたわけでもないのに無言で遺体の縫合をはじめたのである。バラバラになった足を付けながら、「足がなかったら、天国に行っても走れないし、歩けもしない。それでは、あまりにもかわいそうだ」と思ったそうだ。
そうして、あうんの呼吸で何時間も縫合を続けた。命を助けるための手術ではないから、無償である。一銭にもならない。それでも、医師たちは一言も言わずに、黙々と二人の子供の体を元通りに修復したのである。
私はこの話を病院の知り合いの医師から聞き、本当に魂のふるえるような感動をおぼえた。医師たちのやったことは完全に医療の範ちゅうを超えている。何の得にもならない。でも、人間として心の命ずるままに行動したのである。
このような客室乗務員、郵便局員、医師のような方々を私は「心のプロフェッショナル」として深く尊敬する。二十一世紀は、こういった心ある人々がたくさん活躍する、そして社会もそういった人々を認める、それでこそ「心の社会」ではないだろうか。
人はなぜこの世に生まれてくるのだろう。この疑問は、幼いころからいつも私の頭のなかにあった。長じて幸福論といわれるジャンルの本を読みまくった。数百冊におよぶ古今東西の幸福論を読んであらためて思ったのは、政治・経済・法律・科学・医学・哲学・芸術・宗教といった人類の偉大な営みが何のために生まれ、発展してきたかというと、それはすべて「人間を幸福にするため」という一点に集約されることだった。そして、人間の幸福について考えて考えて考え抜いたとき、その根底には「死」という問題が厳然として在ることを思い知るのである。「死」の問題を抜きにして、人間の幸福は絶対にありえない。この三つのエピソードも、いずれもが「死」に関わっている。
本書は、ピーター・ドラッカーに拝げられるものだ。あのジャック・ウェルチさえ、GEのCEO就任と同時に会いに行ったというドラッカーにしてみれば、極東の変な若い奴が勝手にアンサーブックを書いたりして、おそらく困惑しているだろう。迷惑な話だと思うかもしれない。でも、私は多くのものをドラッカーから与えられてきた。二〇〇一年に社長に就任して、まず手に取ったのは『ネクスト・ソサエティ』だった。さまざまなマネジメントの手法から社会の見方まで、本当に多くのものを彼から与えられてきたのだ。だから、その感謝の気持ちを形にする意味でも、たとえ私の一方的なラブレターであっても、私はどうしても本書を書きたかった。
私が日頃心からリスペクトするのは、孔子とドラッカーである。「いかにも」といったあざとさを感じる方がおられるかもしれないが、本当だから仕方がない。孔子とドラッカーには「知」の重視や「人間尊重」の精神など共通点は多いと思うが、何より私が注目するのは両者の「死」のとらえ方である。いや、「不死」のとらえ方と言った方がよいかもしれない。
それは、こういうことだ。人間は一個の生物として必ず死ぬ。しかし生物的に死ぬとしても、精神的に死なないことは可能である。すなわち「心」は残すことができるのだ。
儒教における「孝」は、「生命の連続」という観念を生み出した。「遺体」という言葉の元来の意味は、死んだ体ではなくて、文字通り「のこ遺した体」である。つまり本当の遺体とは死体ではなく、自分がこの世に遺していった身体、すなわち「子」なのだ。親から子へ、先祖から子孫へ。「孝」というコンセプトは、DNAにも通じる壮大な生命の連続ということなのである。孔子は、このことに気づいていた。
ドラッカーには『企業とは何か』という初期の名著があるが、まさにこの「企業」という概念も「生命の連続」に通じる。世界中の超一流のエクセレント・カンパニー、ビジョナリー・カンパニー、そしてミッショナリー・カンパニーには創業者の精神というものが生きている。エディソンやマリオットやディズニーの身体はなくなっても、彼らの心は会社のなかに綿々と生き続けているのである。逆に超一流企業とは創業者の心をいまも培養して保存に成功しているからこそ繁栄し続け、名声を得ているのではないだろうか。
「孝」も「企業」も、人間が本当の意味で死なないために、その心を残す器として発明されたものではなかったかと私は思っている。ここで孔子とドラッカーはくっきりと一本の糸でつながってくるが、このテーマはいずれ本書の続編とでもいうべき『ハートフル・マネジメント』の中で論じてみたい。
最後に、本書は内海準二氏との再会により生まれた。内海氏は私の東急エージェンシー時代の先輩であり、私の処女作『ハートフルに遊ぶ』のエデイターでもある。「ハートフル」という言葉はこの本によって初めて世に出たが、その後、かなりの流行語になった。そのせいで少々手垢がつきすぎた感があったので、もう一度、私の手で「ハートフル」をタイトルとする本が出したいと思っていた。内海氏にはその後、『遊びの神話』『ゆとり発見』などを編集していただいたが、一緒にやった最後の仕事は、『ハートビジネス宣言』という本だった。
その後、私が東京から九州に居を移したこともあって連絡が絶えていたが、あることからふと内海氏を思い出し、十年ぶりに電話をしてみると、なんとその日が偶然にも内海氏の東急エージェンシー退職の日だったのである。本当に縁というのは摩訶不思議だが、その電話がきっかけで数日後に東京で再会し、今回の出版に至った次第である。内海氏への電話はまさにユングのいうシンクロニシティー共時性だと思うが、共時性とは個人の運命を変える鍵であり、世界によって使命が与えられた印であるとユングは述べている。ならば、本書には何らかのミッションがあるのかもしれない。
思えば、十年以上も前に書いた『ハートビジネス宣言』は、ユングの思想などを通して「心の社会」を予見するものだった。私はもう十年間も同じテーマをあたためてきたのである。そして正直に告白すれば、『ネクスト・ソサエティ』を初めて読んだとき、私は不遜ながらも『ハートビジネス宣言』との強い共通性に驚いたのである。『ハートビジネス宣言』はハングルに翻訳され、韓国でも多くの人々に読まれたが、私は十年後のいま、この本を書き直したような気がしてならない。
ライト兄弟の飛行実験からちょうど百年目にあたる昨年、つまり二〇〇三年に宇宙の年齢が一三七億年と判明し、ヒトゲノムが解読された。マクロとミクロの両方における究極の秘密を解き明かす、この二つの途方もない驚異を前にしたとき、人類社会が確実に大きな節目にあることが実感され、再び「心の社会」について書きたいという強い想いが私の心の奥底から湧いてきたのである。
本書の刊行に当たっては、多くの方々にお世話になった。まず、私が限りなくリスペクトし、本書を書くきっかけとなったピーター・ドラッカー教授。ドラッカー理論に基づいて会社も経営している私にとって、その受けた恩は言葉では言い表せないくらいにあまりにも大きい。
三五館の星山佳須也社長。出版という営みに限りない誇りと志を抱いている方である。三つの大洋と五つの大陸、つまり地球を意味する壮大なスケールの社名!私は三五館から、わが志の書を出版することができ、大きな喜びと安堵感を感じている。
前述の内海準二氏。本書を世に問うにあたり、東京は紀尾井町にあるホテルニューオータニのティーラウンジで何十回という打ち合わせを重ねた。私にとって本当に有意義かつ楽しい時間であった。幻冬舎文庫から出た『ロマンティック・デス~月を見よ、死を想え』に続いて、本書の編集作業もやっていただいた。別に内海氏と私は衆道の関係でも何でもないが、本書は二人の間に授かった子に他ならないと思っている。
また、本書の原稿を入念に読み、各章ごとに私を「ハッ!」とさせるアドバイスと多くのインスピレーションを与えてくれた前村敦子氏。あらゆる面で日々の私をサポートしてくれたサンレー秘書室の織田祐子氏。そして私と志を共にして、ハートフル・ソサエティの創造をめざすサンレーグループのみなさん。以上の方々に心より御礼を申し上げたい。ありがとうございました。
ネクスト・ソサエティとは、ハートフル・ソサエティである。私は確信をもって言える。そして、ハートフル・ソサエティとは何か。
それは、科学が神化し、技術が人類を超人化する一方で、人間の脳から生まれた「心」が最大の価値を持つ社会である。
インターネットに代表されるコンピュータ・ネットワークが地球中に張りめぐらされることでグローバル・ブレイン、さらにはグローバル・ハートが生まれる社会である。
相互扶助の精神とホスピタリティ・マインドにあふれた、人間の、人間による、人間のための社会である。
花鳥風月をセンス・オブ・ワンダーとして感じ、人間が宇宙や自然の一部であることを自覚する社会である。
これまでネガティブだった生老病死をポジティブにデザインし直し、人々に生きる覚悟、老いる覚悟、そして死ぬ覚悟を与える社会である。
衣食足りて礼節を知り、哲学・芸術・宗教が人々の大きな関心事となって、大いなる「宗遊」が生まれる社会である。
ともに会話し、社交し、旅することによって人間同士が共感しあい、平和な心の共同体を生み出す社会である。
そして、内海さんと私の心が響き合って不思議な偶然から再会し、それが本書という形になるような素敵な出来事がたくさん起こる社会である。
次なる社会は、心ゆたかな社会。
私たちは、ハートフル・ソサエティに向かっているのだ。
二〇〇五年七月七日  七夕の夜に

一条真也

上の「あとがき」を書き終えて、何気なくテレビのスイッチを入れた私の目に信じられない光景が飛び込んできた。二〇一二年のオリンピック開催地に決定した翌日のロンドンで大規模な同時爆発テロが発生したのだ。走行中のバスや地下鉄で複数の爆発が起き、ロンドン警視庁などによると、少なくとも三十三人が死亡、重軽傷者も三百五十人近いという。完全に私は虚をつかれた。
前日つまり二〇〇五年七月六日 は、人類の歴史に残る記念すべき日になると言われていた。この地球上では、想像を絶する貧困により、救えるはずの子どもたちの命が毎日三万も失われている。
この悲惨な数字を止める機会がようやく七月六日に訪れたのだ。スコットランドにて行なわれたG8サミットで、世界を動かせる八名の首脳陣が顔を合わせ、そこで途上国支援の拠出額を倍増すること、債務を帳消しにすること、そして公正なルールをもたらすことの実現可能なプランが話し合われた。この合意により、私たちは貧困を過去のものにできる世代になるわけである。
その合意を訴えるイベントとして「ライブ・8」が七月二日に開催された。これは、東京、ロンドン、ベルリン、フィラデルフィア、ローマ、トロント、ヨハネスブルグ、パリ、エディンバラの世界九ヵ所で同時に行なわれる史上最高大のコンサートだ。仕掛け人は、あの「ライブ・エイド」をかつて実現したボブ・ゲルドフ。
アフリカの飢餓問題に何らかのアクションを起こすという目的で、一九八五年七月十三日、「現代の神々」と言われる世界の有名なロックスターが集い、ロンドンとフィラデルフィアを結んでユニークな「ライブ・エイド」なるコンサートを開催し、世界の注目を浴びた。結果、一億ドルの基金を集めた。それにもかかわらず、二十年経過した今でも、アフリカは、貧困、飢餓、そして病気などの大きな問題を抱えている。人々はやっと、重要なのは各国の政府が行動を起こすことなのだと認識しはじめ、ボブ・ゲルドフは二十年ぶりに動いた。
ゲルドフは七月二日、世界規模のジュークボックスをもう一度回転させたのである。かつて「ライブ・エイド」にも参加したU2やマドンナの出演をはじめ、特別に再結成を果たしたピンク・フロイドや、ビートルズの名曲「Sgt.Pepper,s Lonely Hearts Club Band」の史上初のライブ・パフォーマンスなどの強力なラインアップが次々に実現していった。世界の九都市で同日開催となったこのコンサート・イベントは、各都市で何百万人もの観客によって目撃され、さらに推定十億人以上が、音楽史上に残るこのイベントを生中継を通じて視聴した。
「ライブ・8」が掲げた「君のお金ではなく、君が欲しい」と、「三秒」という二つのメッセージは、この日、不可避のものだった。「三秒」が意味するのは、アフリカで極度の貧困により子どもが死亡する頻度だという。ウィル・スミスはこの事実を三秒ごとに指を鳴らすことで、ドラマティックに表現した。「世界のリーダーたちに伝えよう」と、フィラデルフィア公演に集結した百万人以上の観客に同じように指を鳴らすよう呼びかけ、会場には悲しい現実を表す不気味な音が響きわたり、巨大な共感の場と化した。
この日は、これ以外にもG8サミットに影響を与えるべく、各地で象徴的な言葉やエネルギッシュなパフォーマンスが披露された。しかし、最大のハイライトは、「Like a Prayer」を衝撃的にパフォーマンスした、「ライブ・エイド」の卒業生でもあるマドンナのステージだった。コンサートの主催者であるゲルドフは、二十年前のコンサートのインスピレーションとなったアフリカの飢餓についてのドキュメンタリーにフィーチャーされた、当時「余命十分間」だった女性を紹介した。彼女の衰弱しきった顔写真がステージ上の巨大スクリーンに映し出されると、ゲルドフはすっかり成長した女性を観客に紹介した。「ライブ・エイド」の寄付金によって生き延びることができ、教育も受けることができたというこの女性は、長いあいだ続いた大喝采の最中、大きな笑顔を見せ、観客に支援を続けるように主張した。ゲルドフは「このような試みが無駄だなどと、やつらに言わせないでくれ」と呼びかけた後、「ロック界の女王」とマドンナを紹介した。マドンナはステージ上の彼女にキスをすると、数分間にわたって彼女の手を握っていた。会場が観客を含めたさらに大きな共感の場となったことは言うまでもない
六日には、人類最大の共感の祭典であるオリンピックの未来の会場にロンドンが選ばれ、世界は束の間のハートフル・エナジーに包まれた。そして、あのテロが起こったのである。「やはり、われわれはハートレス・ソサエティに向かっているのか」と私の心を憂鬱が独占しはじめ、事件を報じる新聞の一面から「お前は、どうしようもなく甘ちゃんの理想主義者にすぎない」という声が聞こえてくるような気がした。どうやら、人類は簡単に「心ゆたかな社会」を迎えさせてもらえないようだ。もしかすると、私が生きているあいだにハートフル・ソサエティは到来しないかもしれない。
私がこよなくリスペクトする吉田松陰や坂本龍馬といった幕末の志士たちは、その目で「明治」という新時代を見ずに、この世を去っていった。だが彼らの心の中には自由と希望に満ちたゆたかな新社会の姿が確実に存在したし、それを建設するという青雲の志があった。そして、そして彼らが志半ばにして世を去ろうとも、彼らの志を受け継ぐ者たちが続々と出現し、結果として「明治」は現実に到来したのである。
私の心の中にもハートフル・ソサエティは実在する。それを呼び込みたいという志もあるつもりだ。たとえこの身が朽ちようとも、私は今後もハートフル・ソサエティの到来を、死ぬまで、また死んだ後も訴えていきたいと思う。
吉田松陰は「留魂録」の冒頭に、こんな辞世を書きつけた。
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」
これにならって私は次のように詠みたい。
「身はたとひガイア地球の土に還るとも月に留めん心の社会」
一つの月の下に、一つの地球。私は信じている。だから、私はもう一度、言う。
次なる社会は、心ゆたかな社会。
私たちは、ハートフル・ソサエティに向かっているのだ。
二〇〇五年七月二十日  満月をながめながら