「終活を考える」
日本人の寿命はついに男女とも80歳代を迎えました。仏教は「生老病死」をいかに考えるかを説いたものです。そして今、80年代を迎え、「老」と「死」の間が長くなっているといえます。長くなった「老」の時間をいかに過ごすか、自分らしい時間を送るか―そのための活動が「終活」です。
ぜひ次のことをイメージしてみてください。これからの「老」に起こることばかりです。
1.億劫になる自分
外出が億劫になる、家事がおろそかになるなど、それはふつうのことです。老化によって人は体力が衰えます。目の衰えに始まり、体の不調が増えます。嘆くことはありません。しっかりあなたが年をとっている証です。
2.寝たきりになる
老化が進むと、病気になったり、転んだりして、寝たきりになることもあります。介護を受けることも十分に考えられます。
3.認知症になる
物忘れが始まり、もしかすると認知症になるかもしれません。
こうしたことは、決して特別なことではありません。「老」の時間の中では起こりうることです。「わたしはピンピンコロリで死ぬ」と願っても、そうなるかもしれないし、ならないかもしれません。希望することと備えることは違います。「ならない」と考えるより、「なったときにどうするか」を考えることが重要なのです。
次に訪れるのが、「死」です。「老」の次には「死」がやってきます。死を考えないのではなく、「死の準備」をしましょう。
4.葬儀を考える
自分はどんな葬儀をしてほしいのか。これも終活の重要なポイントです。人生最期のセレモニーである「葬式」を考えることは、あなたの人生のフィナーレの幕引きをどうするのか、という本当に大切な問題です。葬式を考えることで、人は死を考え、生の大切さを思うのではないでしょうか。
5.死んだ後を考える
最後は、自分が死んだ後のことを考えます。
「老」の時間の中で、「死」までを考えることこそ終活なのです。残りの人生をしっかり考えること―つまり自分らしくいかに生きるかを考えることこそが、終活なのです。
いま、世の中は大変な「終活ブーム」です。多くの犠牲者を出した東日本大震災の後、老若男女を問わず、「生が永遠ではないこと」を悟り、「人生の終わり」を考える機会が増えたようですね。
高まるブームの中で、気になることもあります。「終活」という言葉に違和感を抱いている方が多いことです。特に「終」の字が気に入らないという方に何人もお会いしました。
もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。ならば、わたしも「終末」という言葉には違和感を覚えてしまいます。死は終わりなどではなく、「命には続きがある」と信じているからです。
そこで、わたしは「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案したいと思います。
「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。考えてみれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」ではないかと思います。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活なのです。そして、人生の集大成としての「修生活動」があるのではないでしょうか。
かつての日本は美しい国でした。しかし、いまの日本人は「礼節」という美徳を置き去りにし、人間の尊厳や栄辱の何たるかも忘れているように思えます。
それは、戦後の日本人が「修業」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」という覚悟を忘れてしまったからではないでしょうか。
老いない人間、死なない人間はいません。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」なのです。
老い支度、死に支度をして自らの人生を修める…この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないでしょうか。