ハートフル・メッセージ サンレー会員様へのメッセージ『ハートライフ』連載 第30信

「『鬼滅の刃』と日本人」

「鬼滅の刃」の勢いが止まりません。
二〇二五年七月一八日、「鬼滅の刃」シリーズの最新映画である「劇場版『鬼滅の刃』無限城編 第一章 猗窩座再来」が公開されました。同作は世界総興行収入が一〇〇〇億円に達し、日本映画の歴代興行収入一位を記録しました。五年前の二〇二〇年に公開された前作「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」も興行収入国内歴代一位に輝きましたが、今回はそれを超えたわけです。
五年前、原作コミックも、アニメも、映画も、そして関連グッズも、すべてが信じられないほどヒットするブームは「『鬼滅の刃』現象」などと呼ばれました。
「鬼滅の刃」については、わたしは「週刊少年ジャンプ」連載中に注目していたわけではありません。ある出来事がきっかけでアニメを全話観て、続いて劇場版を観て、それからコミックを読破しました。結果、経済効果という視点からでは見えてこない、社会現象にまでなった大ヒットの本質を発見しました。その本質について、わたしは前作『「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林)を上梓し、かなりの話題となりました。
前回のブームには、漫画の神様である手塚治虫の存在や、現代日本人が意識していない神道や儒教や仏教の影響を見ることができました。日本人の「こころ」は神道・儒教・仏教の三つの宗教によって支えられています。
神道・儒教・仏教の三大宗教を平和的に編集し、「和」の国家構想を描いたのは聖徳太子ですが、江戸時代に「神仏儒正味一粒丸」を唱えたのは二宮尊徳でした。「鬼滅の刃」の主人公・炭治郎には明らかに尊徳の幼少期である二宮金次郎の面影が宿っています。
このたび、わたしは『「鬼滅の刃」に学ぶ』を大幅にアップデートした新作『「鬼滅の刃」と日本人』を産経新聞出版から上梓しました。
わたしは、前回と同じく今回のブームも単なる経済的な効果を論じるだけではない、大きな転換点を感じています。五年前は、新型コロナウイルスの感染におびえ、祭礼や年中行事を行うことができなかった日本人にとっての精神的免疫とでもいうべき存在が「鬼滅の刃」でした。
「鬼滅の刃」は、家族・共同体・儀礼といった炭治郎が喪ったものを、一つ一つ再構築していく物語です。言い換えれば、それは彼自身にとっての「精神的故郷」を再建する物語であるのです。物語の冒頭で炭治郎は一家を喪い、帰るべき家を失いました。
しかし鬼殺隊に入り、擬制的な親族関係を築き、死者と交感し、共同体に加入し、さらに儀礼を継承することで、失われた家族は別のかたちで再生されていきます。
「鬼滅の刃」が描いているのは、炭治郎個人の精神的故郷にとどまりません。その物語構造は『古事記』『日本書紀』をはじめとする神話伝承と深く重なっています。「鬼滅の刃」は、こうした神話的構造を現代に再演した物語であり、だからこそ世代を超えて「懐かしい」と感じさせる力を持ちます。
すなわち同作は現代神話として、日本人にとっての精神的故郷を映し出しているのです。
令和二年、コロナ禍で祭礼や参詣が失われ、人々の「こころ」は不安に揺れ動きました。そして令和七年は、政治不信や米不足、外国人増加による文化的動揺、さらには熊による人的被害の増加などが深刻化しています。山奥にいた熊が里に下りて人間を喰うというのは、熊が「鬼」と化したということです。
二つの不安な時代に、同作の劇場版が空前のヒットを遂げた事実は象徴的です。同作は人々の不安を和らげ、秩序を回復する象徴として機能し、いわば大衆的な祭礼として受容されました。
人間の不安な「こころ」を安定させるものといえば、なんといっても「かたち」としての儀式です。人生の節目に起こる「不安」のたびに冠婚葬祭があるのも、そのためです。そして、「鬼滅の刃」という物語は日本人にとって儀式と同じ機能を持っているといえます。相変わらず国内も国外も政治が不透明で、社会全体がストレスフルな現在、ささやかなこの本が多くの日本人にとって未来を生きていくヒントとなることを願っています。