一条真也のこころの世界遺産 『朝日新聞』連載 2016.04.20

『般若心経』

前回は、上座仏教における代表的な経典である『慈経』を紹介した。

 今回は、日本などで盛んな大乗仏教を代表する経典を紹介したい。
 仏教には啓典や根本経典のようなものは存在しないとされる。
 しかし、あえていえば、『般若心経』が「経典の中の経典」と表現されることが多い。古代よりアジア全土で広く親しまれてきた。
 日本においても、戦時中に仏教各派が合同法要を営もうとしたとき、一緒に読める唯一の経典として『般若心経』の名前があがったことがある。しかし、浄土真宗が強硬に反対して、この企画自体が立ち消えになったという。
 なぜ、浄土真宗が反対したか。
 それは、『般若心経』が「空」の思想を説いているからである。浄土真宗は、阿弥陀如来は絶対的な存在であるという考えに立つ。それが、絶対的な存在など何もないという「空」の思想と矛盾するわけだ。もともと仏教そのものが「空」を根本原理とする宗教であるはずだが、浄土真宗の中では、阿弥陀如来によって浄土を約束されるという信仰に変容しているのでだろう。
 それはさておき、『般若心経』における「空」の思想は中国仏教思想、特に禅宗教学の形成に大きな影響を及ぼした。玄奘(げんじょう)による漢訳『般若心経』が日本に伝えられたのは8世紀、奈良時代のことだ。遣唐使に同行した僧が持ち帰ったという。以来、1200年以上の歳月が流れ、日本における最も有名な経典となった。
 仏教思想の核心である「空」がきわめてシンプルに語られている『般若心経』とは、多くの日本人にとってブッダのメッセージそのものであるかもしれない。
 『慈経』を自由訳したわたしは、いつの日か、『般若心経』の自由訳も手掛けてみたいと思う。