「供養には意味がある」
先日、『供養には意味がある』という本を産経新聞出版から刊行いたしました。同書には「日本人が失いつつある大切なもの」というサブタイトルがついています。
タイトルのように「供養」についての本ですが、「終活」についてもたくさん書かれています。なぜかというと、日本初の終活専門誌である『終活読本ソナエ』(産経新聞出版社)に連載した原稿を収録しているからです。
超高齢化国でありながら、「死」をタブーとする傾向の強い日本において、同誌の創刊は非常に画期的であり、その内容はすべて興味深いものばかりでした。その『終活読本ソナエ』で、わたしは複数の連載コラムを担当させていただきました。
終活について考えると、日本人の寿命はついに男女とも80歳代を迎えました。言うまでもなく、現代日本は超高齢社会ですね。いま、年間140万人以上の人が亡くなり、2030年には160万人を超すと言われています。超高齢社会は「多死社会」でもあるわけです。多くの人々が死を意識しながら、延びた寿命を生きていくことになる。そこで終活というわけです。
仏教は「生老病死」の苦悩を説きました。いま、「人生100年時代」とやらを迎え、「老」と「死」の間が長くなってきました。「老」の時間をいかに過ごすか、自分らしい時間を送るか――そのための活動が「終活」です。というわけで、日本に空前の「終活ブーム」が訪れ、『終活読本ソナエ』も創刊された次第ですが、「終活」という言葉を嫌う人も多く存在することを知ってしまいました。
もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。ならば、わたしは「終末」という言葉には違和感を覚えてしまいますね。死は終わりなどではなく、「命には続きがある」と信じているからです。そこで、わたしは「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案しています。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味でもあります。また、供養について考えてみたいと思います。わたしは、供養とはあの世とこの世に橋をかける、死者と生者のコミュニケーションであると考えています。そして、供養においては、まず死者に、現状を理解させることが必要です。僧侶などの宗教者が「あなたは亡くなりましたよ」と死者に伝え、遺族をはじめとした生者が「わたしは元気ですから、心配しないで下さい。あなたのことは忘れませんよ」と死者に伝えることが供養の本質だと思います。
古代から、日本人は、人は死ぬとその霊は肉体から離れてあの世にいくと考えていました。そして、亡くなった人の冥福を祈る追善や供養を営々と続けてきました。盆には仏壇に精進料理を供え、お寺の迎え鐘を突いて精霊を迎え、精霊流しをして帰すといった先祖供養を行ってきました。
夢幻能も、此岸彼岸を往還する霊の話です。昔の日本人はみな、直観的に「人の死後の存続」を信じていたのかもしれません。「人の死後の存続」を信じる心が、今日のような盆などの風習を残しているわけです。
日本人は、古来、先祖の霊によって守られることによって初めて幸福な生活を送ることができると考えていました。その先祖に対する感謝の気持ちが供養という形で表わされたものが「お盆」なのです。
盆行事に代表される供養は、仏教の僧侶によって執り行なわれます。「葬式は、要らない」とか「葬式消滅」などと言った人がいました。その人の言説の効果もあったのか、「葬式仏教」と呼ばれる日本仏教への批判の論調が盛り上がったこともあります。
しかしながら、これまでずっと日本仏教は日本人、それも一般庶民の宗教的欲求を満たしてきたことを忘れてはなりません。そして、その宗教的欲求とは、自身の「死後の安心」であり、先祖をはじめとした「死者の供養」に尽きるでしょう。「葬式仏教」は、一種のグリーフケアの文化装置だったのです。
わたしどもサンレーでは、紫雲閣を中心に日本各地のみなさまの供養のお手伝いをさせていただいております。これからも、心をこめてお手伝いさせていただきたいと願っています。