第八の魔法「笑い」
笑顔は世界共通のコミュニケーションの「かたち」です。また、人間関係を良くする、魔法の1つです。
わが社には経営理念の1つとして、「スマイル・トゥー・マンカインド~すべての人に笑顔を」というものがあります。
わが社のような「ホスピタリティ」すなわち「親切な思いやり」を提供する接客サービス業においては、笑顔・挨拶・お辞儀といったスキルが非常に大切です。中でも特に笑顔が必要であるといえるでしょう。サービスだけではありません。営業においても、明るい笑顔でお客様に接するのと暗い無表情で接するのとでは雲泥の差があり、それは確実に成果の差となって出てきます。
マンカインドとは、すなわち人類であり、すべての人という意味です。すべての人は、わたしたちのお客様になりえます。ぜひ、お客様のみならず、取引業者の方や社内の人たち、部下や後輩にも笑顔で接していただきたいと社員のみなさんにお願いしています。
かつて、クレイジーキャッツの「日本全国ゴマスリ行進曲」という歌で、ゴマスリは手間もかからないし元手もいらないので、「大いにゴマをすろう!」というような内容で、亡くなった植木等さんが歌っていました。笑顔もまた、手間もかからず、元手もいりません。ゴマスリなどする必要はありませんが、そのかわりに笑顔を心がけたいものです。これほど安上がりで効果が高いサービス業のスキルは他に存在しません。まさに最高のコスト・パフォーマンスと言えるでしょう。
植木等さんといえば、一度だけお会いしたことがあります。そのとき、「人生における本当の成功者とは、お金持ちとか社会的地位の高い人じゃない。たくさん笑った人が真の人生の成功者だ」とおっしゃっていたことが印象的でした。
笑顔は、サービス業においてだけでなく、ありとあらゆるすべての人間関係に大きな好影響を与えます。国籍も民族も超えた、まさに世界共通語、それが笑顔です。また、性別や年齢や職業など、人間を区別するすべてのものを超越します。
「すべての人に笑顔を」は、「人間尊重」そのものなのです。笑顔のない組織に潤いはなく、殺伐とした非人間的な集団にすぎません。そんな会社は、ハートレス・カンパニーであり、ハートフル・カンパニーには笑顔が溢れています。笑顔のもとに人は集まることは不変の真理であるといえるでしょう。
笑顔など見せる気にならないときは、無理にでも笑ってみせることです。アメリカの心理学者ウイリアム・ジェイムズによれば、動作は感情に従って起こるように見えるが、実際は、動作と感情は並行するものであるといいます。ですから、快活さを失った場合には、いかにも快活そうにふるまうことが、それを取り戻す最高の方法なのです。不愉快なときにこそ、愉快そうに笑ってみて下さい。
「笑う門には福来たる」という言葉があるように、「笑い」は「幸福」に通じます。笑いとは一種の気の転換技術であり、笑うことによって陰気を陽気に、弱気を強気に、そして絶望を希望に変えるのです。
他人の笑いからもプラスの気を与えられます。特に元気な子どもの笑い声など、人間の精神の糧になるだけでなく、肉体にも滋養になるそうです。「童(わらべ)」の「わら」と「笑い」の「わら」とは通じているのです。笑うとは、子どものように純粋で素直な心になることなのです。
さらに、「笑い」とは、この世に心の理想郷をつくる仕掛けであると思います。地上を喜びの笑いに満たすことが政治や経済や宗教の究極の理想ではないでしょうか。
「笑い」のない生命には、活気も飛躍も創造もありません。「笑い」のない宗教も哲学もどこかいびつで、かたよっているということです。実際、ソクラテスはよく笑いましたし、老子もよく笑いました。如来もそうですし、ブッダもしかりです。
わが社の経営理念の1つに「スマイル・トゥー・マンカインド」を入れたとき、営業や冠婚部門に笑顔が必要なのは当然だが、葬祭部門には関係ないのではと思った方がいたようです。しかし、それは誤った認識です。仏像は、みな穏やかに微笑んでいます。これは優しい穏やかな微笑みが、人間の苦悩や悲しみを癒す力を持っていることを表しています。葬儀だからといって、暗いしかめ面をする必要などまったくないのです。
わが会社が運営するセレモニーホールの「お客様アンケート」を読むと、「担当の方の笑顔に癒されました」とか、「担当者のスマイルに救われた」などの感想が非常に増えてきています。これは大変嬉しいことです。もちろん、葬儀の場で大声で笑ったり、ニタニタすることは非常識ですが、おだやかな微笑は必要ではないかと思います。
会社内においても、笑いは必要です。特に、ユーモアは組織の雰囲気を和ませます。「ユーモア」の語源であるラテン語の「フモール」という言葉は、元来、液体とか液汁、流動体を意味するものであり、みずみずしさ、快活さ、精神的喜びなどを連想させます。
まことに意外ですが、「謹厳実直」のイメージそのものである吉田松陰という人はユーモアのセンスにあふれていたそうです。たとえば、野山獄に投じられた松陰に、兄から熊の敷皮が差し入れられたことがあります。その礼状に、「熊が寅のものになった」と松陰は書いています。松陰の通称は「寅次郎」だったからです。
また、同じく兄が果物を差し入れてくれたことがあったそうです。兄の添え状には、その数が九個と書かれていましたが、実際に数えてみたら10個ありました。そこで松陰は「その実十あり、道にて子を生みにしか」と返事に記しました。途中で果物が子どもを生んだのではないかというユーモアですね。
さらに、松下村塾の増築工事が行なわれた時のことです。弟子の品川弥二郎が梯子に上り、壁土を塗っていましたが、あやまって土を落とし、それが松陰の顔面を直撃するというアクシデントがありました。
当然ながら、弥二郎は恐縮して謝りました。そのとき松陰は、「弥二よ、師の顔にあまり泥を塗るものでない」と呼びかけて、周囲のみんなを笑わせたそうです。
ときには議論が白熱する松下村塾にあって、ユーモアは欠かせなかったのでしょう。議論がヒートアップしていくと、どうしても意見の異なる者同士は対立し、雰囲気が険悪になってゆきます。そんなとき、さりげない冗談が発せられると、雰囲気は和みます。そういうガス抜きの意味で、松陰はユーモアにあふれた冗談をいったのだと思います。
わたしも、常に周囲の環境を笑い声と笑顔で満たしたいと願っています。そこで、よくダジャレをかまします。自分でいうのも何ですが、わたしのダジャレは笑い死にするほど面白いらしいです(?)一例をあげると、料理やデザートで洋梨が出されると、必ず「ヨウナシ?オレのことか!」といいます。こういう自虐的なギャグは必ず受けますね。
いわゆる「おやじギャグ」にも2種類あるといいます。1つは、受けようが受けまいがお構いなしの強引なものです。もう1つは、スパッと決まって場を和ませるものです。前者は迷惑以外の何ものでもありませんが、後者は落ち込んだ気分などを見事に変えてくれます。わたしは、もちろん後者を心がけていますが、大切なのはギャグそのものよりも、場を和ませようという気遣いではないでしょうか。その気遣いを察して、必ず笑ってあげる人というのは思いやりのある人であり、みんなから愛される人です。
わたしは、言葉だけでなく、行動でも示します。ワインのテイスティングをするときは、いつもワインを一口含んでから、「ん?」と考えるような顔をした後で、鬼のような険しい形相をします。当然ながらソムリエは驚く。その後で、笑顔を見せながら、「いやあ、冗談、冗談、おいしいですよ」というのです。
とにかく、わたしは、つねに明るい笑い声の絶えない職場にしたいと願っているのです。職場のみならず、家庭も地域も笑い声と笑顔で満たし、人間関係を良くしたいものですね。