第十四の魔法「祝い」
わたしは、「おめでとう」という言葉が大好きです。そして、「祝う」という営み、特に他人の慶事を祝うということが人類にとって非常に重要なものであると考えています。
なぜなら、祝いの心とは、他人の「喜び」に共感することだからです。それは、他人の「苦しみ」に対して共感する「見舞う」という営みの対極に位置するものですが、じつは両者とも他人の心に共感するという点では同じです。
よく、「他人の不幸は蜜の味」などといわれます。たしかに、そういった部分が人間の心に潜んでいることは否定できません。でも、だからといって居直ってそれを露骨に表現しはじめたら、人間終わりです。社会も成立しなくなります。他人を祝う心とは、まさに人間ならではの、最高にポジティブな心の働きだと思います。
祝い事といえば、誕生、入学、合格、卒業、就職、結婚などが思い浮かびます。それらは、人生でも最も晴れがましい出来事ですね。
しかし、なんといっても「お祝い」といえば、まず、結婚が思い浮かぶのではないでしょうか。多くの人にとっての、お祝いのイメージとは、やはり結婚式だと思います。
わたしたちが人生で出会う「お祝い」は、結婚式だけではありません。三日祝い、お七夜、名づけ祝い、お宮参り、お食い初ぞめ、初誕生、初節句、七五三祝いなど、子どもの成長にあわせて、数多くのお祝いがあります。さらには成人式や長寿祝いも待っています。
長寿祝いといえば、沖縄が有名です。「生年祝い」という名で盛んに行なわれています。生年祝いとは、十千十二支から出たものです。数え年13歳、25歳、37歳、49歳、61歳、73歳、85歳、97歳の人たちを旧暦正月の干支の日に祝います。つまり、戌年なら戌の日に祝うわけですで、自分が生まれた年から12年目毎に行なわれるのです。
また、その翌年には、ハリヤク(晴れ厄)という小さな祝いがやはり正月中に行なわれます。97歳のトシビィは「カジマヤー」といって大きな祝いをしますが、沖縄には77歳の「喜寿祝い」や99歳の「白寿祝い」の慣習は元来ありませんでした。
カジマヤーとは、風に舞う風車のことです。97歳にもなると幼児に戻って風車をまわして遊ぶという純粋無垢な心をたたえたものです。なんと素敵な言葉ではありませんか。
沖縄は「守礼之那(しゅれいのくに)」と呼ばれます。わが社が沖縄でも冠婚葬祭事業を営んでいる関係で、わたしはよく沖縄のお祝い事に出席します。そのたびに思うのですが、本当に沖縄の方々は「礼」すなわち「人間尊重」の精神をしっかり守っておられます。守礼之那とは人間尊重王国ということなのです。沖縄ほど、人生の節目節目をきちんとお祝いする場所は国内にありません。
わたしは思うのですが、人生とは一本の鉄道線路のようなもので、山あり谷あり、そしてその間にはいくつもの駅がある。「ステーション」という英語の語源は「シーズン」から来ています。季節というのは流れる時間に人間がピリオドを打ったものであり、鉄道の線路を時間に例えれば、まさに駅はさまざまな季節ということになります。
そして、儀礼を意味する「セレモニー」も「シーズン」に通じると思います。七五三や成人式、長寿祝いといった通過儀礼とは人生の季節、人生の駅なのです。
それも、20歳の成人式や60歳の還暦などは、セントラル・ステーションのような大きな駅と言えるでしょう。各種の通過儀礼は特急や急行の停車する駅です。では、各駅停車で停まるような駅とは何か。
わたしは、誕生日がそれに当たると思います。老若男女を問わず、誰にでも毎年訪れる誕生日。誕生日を祝うことは、「あなたが生まれてことは正しいですよ」と、その人の存在価値を全面的に肯定することなのです。
別に受賞や合格といった晴れがましいことがなくとも祝う誕生日。それは、「人間尊重」そのものの行為です。
わが社では、全社員の誕生日を毎日お祝いしています。社長であるわたしは、1500名近い社員全員に自らバースデーカードを書き、プレゼントを選んでいます。
そして、毎日の各職場の朝礼において、誕生日を迎えた人にカードとプレゼントをお渡しし、職場の仲間全員で「お誕生日、おめでとうございます!」の声をかけて、拍手で祝うのです。
みなさんの喜んでくれる顔を見て、本当に心の底から喜びが湧いてきます。また、わたし宛ての礼状も社員のみなさんからたくさん届きます。わたしは、何度も何度も、その手紙を読み返します。
わたしは、誕生日を祝うことこそ、人間関係の基本であるという確信を深めています。そして誕生日を祝うことは、人間尊重の思想である「礼」のはじまりだと思っています。
あなたは、家族や恋人はもちろん、周囲の人たちの誕生日を知っていますか。そして、「誕生日、おめでとう」の声をかけていますか。周囲の人たちの誕生日にはぜひ、「おめでとう」の声をかけて下さい。そうすれば、あなたの誕生日にも、「おめでとう」の声がかけられるはずです。そのとき、人間関係を良くする素敵な魔法が作動し始めるのです。
さて、わが社は最近、創立40周年を迎えました。会社の創立記念日というのも人間の誕生日のようなものです。この世に生を受け、ここまで育ってきたことを素直に感謝したいものです。そして、お世話になった方々に感謝の気持ちを表わさなければなりません。
わが社は冠婚葬祭を業としています。わたしは、冠婚葬祭業とは「おめでとう」産業であり、「ありがとう」産業であると、いつも周囲に述べています。
結婚式をはじめ、七五三、成人式、長寿祝いと、人生のあらゆる場面において「おめでとう」「ありがとう」の言葉が発せられる冠婚葬祭。その意味をつきつめて考えたとき、私は「悲しみ」の儀式とされている葬儀もまた、その正体とは「お祝い」であると考えずにはいられません。
約6万年前のネアンデルタール人の墓がトルコにあります。この墓から出土した化石を手がかりにして、考古学者はネアンデルタール人が死者を花の上に寝かせて埋葬していたことをつきとめました。このことから、ネアンデルタール人が「死」を祝い事とみなしていた、つまり、人間が死ぬということは別の世界に移り住むことだと考えていたのがよくわかります。
ですから、葬儀とは「人生の卒業式」であり、「魂の引越し祝い」なのです。日本人は人が亡くなると「不幸があった」などと口にしますが、死なない人間はいません。必ず訪れる「死」が不幸であるなら、どんな生き方をしようが、人の人生そのものも結局は不幸でしかないことになります。ということは、すべての人の人生はしょせん負け戦ですか。そんな馬鹿な話はありません。
もともと古代の日本では、「祝(はぶ)り」も「葬(はぶり)」も同じ意味でした。葬=祝であることを古代の日本人は知っていたのです。その真理をよみがえらせることこそ、現代の「おくりびと」としてのわが社の使命ではないかと思います。
わが社は、さまざまな新時代の旅立ちのセレモニーを提案し続けています。これからも、死が不幸ではなく、葬儀が送魂祝いとなるような時代を拓いていきたいと心から願っています。
人の誕生から死まで、いたるところで「おめでとう」の声が行き交う社会。それは、あらゆる人間関係が良好で、みんなが心ゆたかに生きられる社会ではないでしょうか。
祝いの心が人間関係を良くして、社会を明るくするのです。