平成心学塾 社交篇 人間関係を良くする17の魔法 #018

第十七の魔法「志」

最後に、人間関係を良くするどころか、この世界そのものを良くする究極の魔法についてお話したいと思います。それは「志」という名の魔法です。

あなたが幸福になるためには、自分の親に感謝することから感謝モードに入ることが大切です。しかし、あなた1人が幸せになれば、それで「すべて良し」ではありません。人間は1人だけでは生きていけません。社会と関わる必要があります。社会の中において、あなたが良い人間関係を築き、かつ、すべての人が幸福になれる道とは何でしょうか。

わたしは、「志」というものが何よりも必要であると思います。結局、最も大切なものは「志」であると、わたしは確信しています。

「志」とは何か。それは、心がめざす方向、つまり心のベクトルです。「志」に生きる者を「志士」と呼びます。幕末の志士たちはみな、「青雲の志」を抱いていました。

かの吉田松陰は、「人生において最も基本となる大切なものは、志を立てることだ」と日頃から門下生たちに強調しました。そして、「志」の何たるかについて、こう説きました。

「志というものは、国家国民のことを憂いて、一点の私心もないものである。その志に誤りがないことを自ら確信すれば、天地、祖先に対して少しもおそれることはない。天下後世に対しても恥じるところはない」

また、松陰はこう考えました。「志」を持ったら、その志すところを身をもって行動に現わさなければならない。その実践者こそ志士である。志士の在りよう、覚悟というものについては、松陰はこう述べました。

「志士とは、高い理想を持ち、いかなる場面に出遭おうとも、その節操を変えない人物をいう。節操を守る人物は、困窮に陥ることはもとより覚悟の前で、いつ死んでもよいとの覚悟もできているものである」

最近の経営書などを読むと、「志」の重要性について言及しているものが多くなってきました。「志」の条件についても、「長期の視野に立つこと」、「社会に貢献すること」、「幼少の頃の夢を思い起こすこと」、「内部からの願い」など、さまざまな示唆があります。

どれも完全な間違いではありませんが、いずれも「志」の核心はついていないと思います。また、わたしには、「夢」と「志」を混同しているものが多いのが気になります。

わたしは、「志」というのは何よりも「無私」であってこそ、その呼び名に値すると思っています。「志なき者は、虫(無志)である」というのは松陰の言葉ですが、これをもじれば、「志ある者は、無私である」といえるでしょう。

簡単にいえば、「自分が幸せになりたい」というのは夢であり、「世の多くの人々を幸せにしたい」というのが志です。夢は私、志は公に通じているのです。自分ではなく、世の多くの人々。「幸せになりたい」ではなく「幸せにしたい」、この違いが重要なのです。

社会的に大きな事を成した偉人や成功者の言葉などに触れると、「幸せになりたい」ではなく「幸せにしたい」という想いが強く感じられます。つまり、彼らには「夢」ではなく「志」があったのです。

「夢」を持つことの大切さを、いろんな人が説いています。たしかに志望する学校に入ったり、仕事で成功したりする「夢」を持つことは悪くありません。でも、それはあくまでも途中の通過点であるはずです。真の成功者はみな、世のため人のためという「志」という名の最終目標を持っていました。

いま、「引き寄せの法則」というものが大きな関心を集めています。別の言葉を使うなら、「思考は現実化する」あるいは「願いはかなう」ということです。

わたしは、「引き寄せの法則」とは「万有引力の法則」と同じで、単なる自然現象だと思います。単なる自然現象に善悪はありません。だから、「引き寄せの法則」そのものは決して悪くありません。でも、引き寄せる対象が「富」とか「成功」などの利己的なものだと、「呪い」に発展しやすくなります。そうではなくて、「祈り」に発展しやすい利他的な対象を引き寄せればよいのです。

すなわち、「志」を引き寄せればよいのではないでしょうか。そのためには「引き寄せの法則」で重要な役割を果たす「視覚化」も大いに活用するといいでしょう。

ずばり、自分の葬義をイメージしてみてはいかがでしょうか。そこで、友人や会社の上司や同僚があなたの霊前で弔辞を読む場面を想像するのです。さらに、その弔辞の内容を具体的に想像するのです。そこには、あなたがどのように世のため人のために生きてきたかが克明に述べられているはずです。

葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれも想像して下さい。みんなが「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれる。配偶者からは「最高の連れ合いだった。あの世でも夫婦になりたい」といわれ、子どもたちからは「心から尊敬していました」といわれる。

いかがですか、自分の葬儀の場面というのは、「このような人生を歩みたい」というイメージを見事に凝縮して視覚化したものなのです。その場面に、「志」を投影してしまえばよいのです。

「志」のある人物ほど、真の成功を収めやすいのは事実です。なぜか。「夢」だと、その本人だけの問題です。はっきりいって、他の人々は無関係です。でも、「志」とは他人を幸せにしたいというわけですから、無関係ではすみません。自然と周囲は応援者にならざるをえないわけです。

もはや、人間関係を修復するとか、人間関係を良くするとか、そういったレベルを超えています。なぜなら、相手があなたの応援者になること以上の良い人間関係が存在するでしょうか。

いったん「志」を立てれば、それは必ず周囲に伝わり、社会を巻き込んでいき、結果としての成功につながるのではないでしょうか。「これが欲しい」「早く寄こせ」といって神や宇宙に宣戦布告してもムダです。絶対に神や宇宙には勝てません。それよりも、すべてを肯定し、現状に感謝するのです。その上で、この社会を良くするべく、さらに一歩踏み込んでいくわけです。

哲人経営者として知られる稲盛和夫氏は、「志」のことを「善き思い」と呼び、善き思いは善き結果をもたらすと、著書『「成功」と「失敗」の法則』(致知出版社)で述べています。その理由については、稲盛氏は次のように説いています。

「それは、この宇宙が、善き思いに満ちているからです。宇宙を満たす善き思いとは、生きとし生けるものすべてを生かそうとする、優しい思いやりにあふれた思いです。私たちが、この優しい思いやりに満ちた思いを抱けば、愛に満ちた宇宙の意志と同調し、必ず同じものが返ってくるのです」

企業も同じことだと思います。志を立てて、宇宙の善き思いとリンクした企業は必ず発展します。経営者や社員が、「もっとこの商品を買ってほしい」とか、「もっと売上げを伸ばしたい」とか、「株式を上場したい」などと、いくら唱えても企業は発展しません。それらは、すべて私的利益に向いた「夢」にすぎません。そこに公的利益はないのです。

では、「社員の給料を上げたい」とか、「待遇を良くしたい」というのはどうでしょうか。これらの願いは一見、志のようですが、やはり身内の幸福を願う夢だと思います。

真の「志」とは、あくまで世のため人のために立てるものではないでしょうか。そのとき、消費者という周囲の人々がその「志」に共鳴して、事を成せるように応援してくれて、結果としての企業の繁栄があるのでしょう。

あなたは、何か大いなる事を成したいと考えていますか。考えているのなら、ぜひ世のため人のために「志」を立てられるとよいでしょう。あなたの心の焦点が「私」から「公」に移行し、それを宣言したときから、あなた1人の問題ではなくなり、周囲の人々も巻き込まれてゆくのです。そして、ひとたび立てられた「志」は、宇宙の善き思いにつながって、立てられた瞬間から一時も休まず実現に向かって進んでゆくのです。

志が実現すれば、世界は良い方向に変化します。そして、あなたの周囲の人々はみな、あなたの応援者になってくれます。もちろん、あなたの人間関係は最高に良くなります。人間関係を良くした上で、さらに社会まで良くする最高級の魔法。志を立てることほど、すごい魔法がどこにあるでしょうか。