平成心学塾 社交篇 人間関係を良くする17の魔法 #014

第十三の魔法「見舞い」

「看礼」という言葉をご存知でしょうか。これは、病気やケガの人をお見舞いする礼法です。

高齢化社会を迎え、高齢者が病院に入っている家庭が多くなりました。高齢者に限らず、病気やケガで苦しんでいる患者さん、お見舞いの方々、そして医師や看護婦をはじめとする病院関係者、さらには付き添いの方々など多くの人たちがいます。ここでも1つの社会が形成されているのです。決して身内の方ばかりではありません。

お見舞いで気をつけることは何でしょうか。自宅療養の場合もありますが、病院を訪れる場合は、医師、看護婦、付き添いの人にはお世話になっていることの感謝の気持ちを言葉と態度で表わしましょう。

同室の人には同じく、感謝と元気づけの言葉をかけるようにしたいものです。「いかがですか」とか「お大事に」といった愛語がよいでしょう。結局は、社会人として良好な人間関係作りを心がけることが大切なのです。

絶対にやってはいけないことは、病気で入院している人への忠告です。哲学者のニーチェは、著書『人間的なあまりに人間的な』で、次のように述べています。

「病人の忠告者――病人に忠告を与える者は、受けいれられても聞き捨てられても、相手に対する一種の優越感を覚える。だから、怒りっぽくて誇りの高い病人は忠告者を自分の病気そのものよりももっと嫌うものだ」

たしかに、病気にならないための健康的な生活、体によい食事や運動、ストレスをためないことの大切さなどを延々と病人に説く見舞い客を見かけることがあります。ニーチェの言葉を知れば、いかにこれが愚の骨頂であるかがわかりますね。「健康はすばらしい」ことなど、当の病人が一番よく熟知しているのですから。

見舞いという行為は、人間関係を良くもしますが、逆に悪くする危険性も持っています。見舞いとは非常に難しいものなのです。

入院患者の多くは、品物よりもむしろ人が来ることを楽しみにしています。そうかといって、むやみな訪問もかえって色々な気遣いをさせてしまいがちです。また、女性の患者さんなどは、病気でやつれた姿を見られたくなくて訪問を嫌うこともあります。

時、場合、状況に応じては「行かないことがかえってよい見舞い」という言葉もあるのです。見舞いに行くか行かないか、相手の気持ちをよく想像して、しっかりと判断したいものです。訪問する場合は、関係者それぞれへの気遣いとたしなみ、つつしみ、うやまいの心を持つ必要があります。それらがなくては、思わぬ不快感を与えたり、元気づけることが、かえって仇(あだ)になるということもあるのです。

ここでは、神経を使い、機転を働かせることが大事になります。すなわち、「気づき、気配り、気働き」ということがポイントになるといえるでしょう。

何気ない言葉でも、病気の人には心に突き刺さるようなものかもしれません。また、他人に聞こえないようにヒソヒソ話などをすると、当人だけでなく、他の人たちの神経もイラ立たせるでしょうし、逆に、声高でも迷惑になります。

そして、お見舞いの言葉や話題の選び方にも充分に気をつけ、同室者への気配りを欠かさないことが大切です。言葉遣い、話題の選択いかんでは、同室の人から「なんだ、あの人は!」と思われることにもなりかねません。せっかくの好意がかえってその人の人格を下げてしまうケースも見られます。くれぐれも、相手を思いやり、自分を慎み、周囲に気を使い、自己抑制を働かせることが必要です。

お見舞いの品は、やはり花が多いようです。

なぜ、病人に花を贈るのでしょうか。それは、花が「いのち」そのもののシンボルだからです。冬に枯死していた大地を復活させるのは、桜の花をはじめとした春の花々です。古代の日本人は、花の活霊が大地の復活をうながすと信じていました。

花は活霊、すなわち「いのち」そのものなのです。ですから、病人には花を贈るのです。「いのち」を贈って、早く元気になってほしいというメッセージなのです。

しかし、気をつけなければならないことがあります。まず匂いの強烈な花を病人に贈ることは非常識です。また、胡蝶蘭などの鉢花は、病院に「根を張る」ことを連想させることからタブーとされています。ゆえに、見舞いでは、籠(かご)花のフラワーバスケットや花束が多くなります。

でも、バスケットにしろ、花束を収める花瓶にしろ、基本的に場所を取るものです。病室が個室や広い場合は何も問題ないでしょうが、狭い病室に大きな物を持ち込まれると非常に迷惑になる場合があります。同室の場合は、他の人のスペースにまで侵入するので、さらに迷惑です。

このことは果物がたくさん入ったフルーツバスケットの場合でも同じです。花や果物などを贈るときには、必ず病室の状況を確認してからにして下さい。病人に余計なストレスを与えてはなりません。

とにかく想像力を働かせて相手の心を読むことが大切です。わたしは、少し前に、網膜剥離(もうまくはくり)の手術をした社員を見舞いました。そのとき、「目が見えないから、本も読めず、テレビも観れずに、さぞ退屈だろうな」と想像し、トランジスタラジオを買って持っていったところ、たいへん喜ばれました。

さて、「看礼」とは、見舞いだけではありません。病人を看護する礼も含まれます。看護する場合は、「手当」という言葉があるように、接触ということが重要な要素となります。これは、何も体をくっつけるということではありません。その人を勇気づけ、安心させるという心理効果を指しているのです。

具合が悪いときに、手を添えられて、言葉をかけられ、気持ちが落ち着いたという経験をお持ちの方は多いと思います。まさに、その状態に相手をしてあげることが求められます。これも、相手をいたわり、自分を慎み、自己抑制を働かせていることなのです。

見舞いにしろ、看護にしろ、いずれの場合にも、せめて少しでも相手の快適な環境づくりに気配りしてあげましょう。病室の行動スペースは少ないので、便利さに気遣いし、整理・整頓、清潔に自他ともにつとめましょう。言葉遣い、所作にそれが表われます。病院生活での不自由さの中に一筋の光明。これこそが喜ばれ、力づけにもなるのです。

「ホスピタリティ」という言葉は「ホスピタル」と語源が同じです。心ある「もてなし」とは、いわゆる「かゆいところに手の届くような看取り」ができるように心がけることなのです。

最後に、あなた自身が病人となり、入院する場合もあるでしょう。病気は辛く苦しいものですが、決して絶望してはいけません。

スイスの哲学者であり法学者であったカール・ヒルティは、名著『幸福論』で、病気が与えてくれる「恵み」について語っています。

ヒルティはいいます。あまりにも多忙な多くの人々にとってはきわめて重要な、暇な時間、完全な休養、過去や未来を落ち着いて見渡すこと、人生の真の宝についての正しい認識、数々の良き思想、自分のまわりの一切のものに対する感謝などは、ただ病気のときのみ与えられると。

これらの恵みは、ちゃんとした立派な人でも、まったく病気をしないでつねに健康であると、ともすれば失いがちなのです。また病気のおかげで、人生最大の喜びの1つである病気の快癒と、生命の新しい充実の満足感とを味わうことができるのです。

あなたが病気になって入院しても、ぜひこれらの病気が与えてくれる恵みのことを忘れないで下さい。そして、あなたの看護をしてくれる人、お見舞いに来てくれる人に対して、心からの感謝の気持ちを忘れないでいただきたいと思います。

考えてみれば、病気のときこそ人間関係を良くする絶好の機会かもしれません。