有縁社会のつくり方
「独居老人」と「一人親」の結合――難問解決の方程式
2010年の夏に大阪市西区で幼い姉弟が自宅に置き去りにされて死亡した事件では、23歳の母親が死体遺棄容疑で逮捕されました。
その直後、現場マンション前には連日100人以上の人が訪れたそうです。そして、花束をはじめ、ジュース、お菓子、おにぎり、おもちゃ、絵本、子ども服、手紙などを献花台に置いて帰ったといいます。
飲み物にはストローが挿され、お菓子の箱やふたは開けられています。幼い子がすぐに飲み、食べれるようにとの思いからでしょう。
手紙には「気付かずにごめんなさい」などと書かれていたそうです。
わたしは、この事実を新聞の記事で知り、もちろん亡くなった桜子ちゃんと楓ちゃんの悲惨な死を悼む方々の心に感銘を受けたのですが、それと同時にマンション住人の方々が気の毒だなとも思いました。
はっきり言って、今回の事件で、マンションの住人たちは大きな心の傷を負ったはずです。特に、亡くなった子どもたちの泣き声などを耳にしていた人のトラウマは計り知れません。
その中には、警察や行政にちゃんと通報した人もいたのです。でも、残念ながら、このたびの悲劇を防ぐことはできませんでした。
その人たちが、マンション前の献花台を見たら、どう思うでしょうか。いつまでも消えない悪夢に、自らの心を責めるのではないでしょうか。
いま、このマンションがすべきことは献花台の設置よりも「隣人祭り」の開催ではないかと、わたしは思います。
この機会に、マンションの住人が一堂に集まって、亡くなった幼い姉弟へ黙祷を捧げるとともに、同じ屋根の下に暮らす人々がきちんと顔合わせをしたほうがいいと思います。
そして、このマンションだけでなく、日本中のマンションやアパートや団地で、「隣人祭り」を開催するというムーブメントが起こればいいと思います。
大阪の幼児置き去り事件について、育児放棄の原因となった母子家庭などの「一人親」を孤立させてはならないといった意見をよく聞きます。まったく、その通りだと思います。
わたしは日本が抱える深刻な2つの問題である「独居老人の孤立」と「一人親の孤立」をドッキングさせることで、意外と解決案のヒントがあるのではないかと思っています。
まず、「孤立」が問題ならば、孤立しているもの同士を「結合」するというのは常識的な考え方だと思います。わが社がサポートしている「隣人祭り」の目的の1つに、「相互扶助の関係をつくる(子どもが急に病気になったが仕事で休めないとき、預かってもらう環境をつくるなど)」というものがあります。
わたしは、じつは独居老人と一人親の縁組みができないかと考えています。
というのは、独居老人にとっては一人親の母親あるいは父親に安否確認してもらう、一人親家庭にとっては子どもをいざという時に預かってもらう、そういう相互扶助の関係を作るのです。血縁に限らず、広く隣人間においても相互扶助の関係を築き上げるのです。
もちろん、独居老人といっても100歳以上のような高齢者に他人の子どもを預かることは困難でしょうし、現実的には他にも難問が山積みしていることはわかります。
しかし、このまま「困った、困った」とつぶやいていても、事態は何も好転しません。
可能性の1つとして行政が取り組んでみる価値は大いにあると思います。
「となりびと」が地域の子を育てる
さらに、「となりびと」は地域の子どもたちの社会力を育てることができます。
わが国を代表する教育社会学者である門脇厚司氏は、現代社会における地域社会の役割として「子どもの社会力を育てる」ことをあげています。多くの人は、子どもの社会力が形成される場として学校の存在をあげるでしょう。しかし、「地域の子を地域で育てる」必要性を強調する門脇氏は、著書『子どもの社会力』(岩波新書)で次のように述べています。
「さまざまな個性をもったクラスメイトとのさまざまな場面での付き合いが、子どもたちの他者認識や他者への共感を育てるのに何ほどかの貢献をするのは間違いない。それはそうであるが、だからといって、学齢期にある子どもたちの社会力形成の主要な場が学校であるというのは当たらない。この時期の子どもたちにとっても、彼らの社会力を育むもっとも重要な場は地域社会である。」
その理由を門脇氏は2つあげています。1つめの理由は、地域は子どもたちにとっての全生活領域だからです。そこには多くの家があり、さまざまな店があり、工場があり、駅があり、郵便局や児童館や公園があり、川や林がある。というわけで、学校も地域社会の中のひとつの場所でしかありません。
2つめの理由は、地域社会には多彩な人々が住んでいるからです。
学校には同じ世代の子どもしかいませんが、地域社会には高齢者も幼児もいるし、男もいれば女もいる。仕事をしている人だって、おまわりさん、駅員さん、商店の人たち、役所の職員、病院の看護婦さんもいる。というわけで、人間の多彩さは学校などの比ではありません。学齢期以降の子どもたちにとって、社会力形成の場は地域社会をおいて他にはないのです。
わが社では、「隣人祭り」のサポートに力を入れてきました。その理由としては高齢者の孤独死を防止する意味が強かったのですが、最近では、子どもたちの社会力形成という面からも「隣人祭り」は重要であると思っています。子どもの社会力を育てるのに地域ほど適したところはありません。
子どもの社会力を育ててくれるのは地域の隣人たちなのです。
忘れられない事件
わたしには忘れられない事件があります。わたしの住む北九州市で、52歳の男性が生活保護を申請したにもかかわらず断られ、「おにぎりが食べたい」と書き残して亡くなったという悲しい事件です。
この男性は2007年7月10日に発見されました。ここ数年は肝臓をわずらい、弟さんが亡くなってからは様子もおかしくなっていたそうですが、市の職員は「働くように」というアドバイスをするだけで、生活保護の申請を却下、男性の自宅では最後は水道も止められていたそうです。
当時、わたしの長女が中学3年生でしたが、テレビのニュースでこの事件を知り、たいへんなショックを受けていました。長女は、事件を報道した新聞記事の前に自分で握ったおにぎりを置き、手を合わせて祈りを捧げていました。自分なりに亡くなった方の供養をしたようです。
「おにぎりが食べたい」という亡くなった男性の最後の言葉はあまりにも気の毒でやりきれませんが、わたしは「おにぎり」には何か意味が込められているように感じました。
なぜ、ラーメンやハンバーガーではなく、おにぎりだったのか。
おにぎりは、人間の手で直接握られる食べ物です。もしかすると、その男性は単なる食料だけではなく、人の手の温もりが欲しかったのかもしれません。
考えてみれば、災害の時も、葬儀の時も、何かあったら近所の人が集まってきて、おにぎりを作って、みんなに配る。おにぎりとは、助け合いのシンボルではないでしょうか。
また、おにぎりは「おむすび」とも呼ばれます。おにぎりによって、多くの人々、いわば隣人たちの「こころ」が結ばれていくことを昔の人たちは知っていたのかもしれません。
「おむすび」のお年玉
「おむすび」といえば、北九州の事件とは対照的に「隣人の時代」の到来を感じさせるエピソードが、まさに2011年に元日に起こっていました。
「朝日新聞」にも「豪雪 人情のお年玉」として取り上げられた記事です。
年末年始の大雪で国道9号では1000台の車が立ち往生し、多くの人々が寒さをこらえ、トイレを我慢し、お腹を空かせていました。
元日の朝、日本海を望む鳥取県の琴浦町で看板公房を営む祗園和康さん(79歳)の仕事場を「トントントン」とノックする音がしました。開けると、50歳くらいの女性が真っ青な顔をして、「すみませんが、トイレを貸してもらえませんか」と言いました。路地の50メートルほど先の国道に目をやると見たこともない長い車列です。
驚いた祗園さんは、「こらぁたいへんだ」と、仕事場のトイレを開放することにしました。それから、お得意の看板を作りました。1メートル四方ほどの白いベニヤ板に赤いテープで「トイレ→」と書いた看板を作って、国道脇と自宅前に立てかけました。そこに次々と人がやって来ました。その中には、赤ちゃんを連れた若いお母さんもいました。小さなポットを持ってきて、ミルク用のお湯が欲しいと言いました。
祗園さんの長男である忠志さん(50歳)は、お湯と一緒に毛布を手渡したそうです。女性は、「ありがとうございます」と何度も頭を下げて車に戻っていきました。
看板業を営む祗園さんは、トイレの場所を示す看板を作って人々を救いました。自分の得意なことで社会に貢献する。これぞ正真正銘の職業奉仕です。
ほかにも、まんじゅう店を営む山本浩一さん(53歳)は、1200個のまんじゅうを自ら配りました。
また、パン屋さんを営む小谷裕之さん(35歳)は、お腹を空かせた子どもたちにパンを配ろうと思いましたが、パンが足りませんでした。それで、小谷さんは母の美登里さん(59歳)に「ありったけの米を炊いてくれ」と頼みました。公民館から大きな釜を2つ借りて、小谷さんの自宅にあった一俵半の米を全部炊きました。近所の女性が集まって、みんなでおにぎりを作りました。疲れを取ってもらうため、塩を多めにして。
おにぎりを配り歩くと、大雪にもかかわらず、みんな汗だくになりました。一度着替えてから、また配りました。配り終えたときには、もう夕方になっていたそうです。
「目の前に困っている人がいたから……。お互い様じゃけね」というのが美登里さんの言葉です。
あんたもわしもおんなじいのち
先だってNHKで放映された「無縁社会をどう乗り越えるか」という討論番組に、NPO法人北九州ホームレス支援機構の奥田和志理事長が出演されました。
奥田理事長は、同じNHKの「プロフェッショナル~仕事の流儀」にも出演されたことがあるそうです。その縁からか、同番組のパーソナリティである茂木健一郎氏も北九州ホームレス支援機構の活動に関心を寄せているそうです。
「無縁社会」とホームレスの問題は切っても切り離せません。ホームレス支援では、弁当や物資の配布による「出会い」が支援の基礎だそうです。
わたしは、わが社でも何かホームレス支援のお手伝いができないかと思いました。そこで、わが社の担当者がNPO法人北九州ホームレス支援機構に連絡を取り、先方の担当者と面談しました。
すると、亡くなったホームレスの方々の葬儀をあげる葬儀社が少なくて困っているというのです。ホームレスの方が亡くなった場合、行政からいくばくかの葬儀費用が出るのですが、小額のため大手の葬儀社や互助会は引き受けたがらないというのです。
それを聞いて、まさにわが社の出番というか、お役に立たねばならないと思いました。そして早速、役員会を開き、ホームレスの方の葬儀を無料で提供させていただくことを決定しました。
わが社では、「死は最大の平等である」との理念を大事にしています。死のセレモニー、すなわち葬儀も平等に提供されなければなりません。青臭い理想と言われるかもしれませんが、現代の社会や企業にもっとも必要なのは、まさに「青臭い理想」ではないでしょうか。
北九州ホームレス支援機構のホームページの扉には、「あんたもわしもおんなじいのち」というコピーが躍っていますが、その言葉がわたしの心に突き刺さったままです。
8月27日、そのNPO法人北九州ホームレス支援機構との提携の第一弾として、わが社のスタッフが北九州市小倉北区の勝山公園で行なわれた炊き出しに参加させていただきました。
ホームレスの方々にお弁当などを配るスタッフの中には、高校3年生になった長女の姿もありました。「おにぎりが食べたい」と言って亡くなった方の霊前におにぎりを捧げてから3年の時が流れたわけです。
医学的見地から「格差社会」を検証する
人間と人間がつながりあえば、そこには「平等」というキーワードが立ち上ってきます。
「平等」という大きな問題を考える上で、リチャード・ウィルキンソン&ケイト・ビケットの著書『平等社会』酒井泰介訳(東洋経済新報社)が参考になります。
さまざまなデータを駆使して、「格差社会」よりも「平等社会」のほうが人々が幸せになれることを力説している本です。
『平等社会』では、国際社会やアメリカ各州の状態を表すさまざまな社会指標を検証して、所得格差が小さいほど好ましい結果、つまり、より良い社会となっていることを示します。
格差が大きい社会は、格差が小さい社会に比べて低所得層のみならず中間層や高所得層でも健康が衰える傾向にあります。その理由としては、次のような可能性が考えられます。
社会の「きずな」が薄まることによってストレスが高じ、自律神経やホルモンの働きが慢性的に乱されて免疫機能が低下する。それによって血圧や血糖値が非常に高くなるからではないかというものです。
この研究結果は、イギリスの医師会誌に報告されたそうです。なんと、「格差社会」が医学的見地から否定されたわけです!
人々が幸せに生きられるかどうかは、言うまでもなく、「こころ」の問題に関わっています。精神分析学者アルフレッド・アドラーは、「人間であるということは劣等感を覚えること」と語りました。著者は、アドラーは「人間であるということは、見くびられることにとても敏感であること」と言うべきだったと述べていますが、いずれにしろ、人にどう見られているかということが問題なわけです。
また、「肉体的健康と平均余命」という問題も興味深いものがあります。友人がいること、結婚していること、宗教の信者であること、その他の団体に加盟していることなど、社会的ネットワークに関わっているかどうかは、いずれも健康を守る働きがあるそうです。
友人が多ければ多いほど風邪を引きにくく、さらに親しい人と良好な関係を保っている人ほど傷が早く治るという実験結果もあるのだとか。
格差社会で虐げられている人々は、自分たちを見下げる人々がいないときのほうがリラックスできることを明かした調査もあります。
差別と偏見が人々の幸福にいかに深く関わっているかがわかります。
民族的少数派の人々は、いくら貧しくとも同胞に囲まれて暮らすほうが、より豊かでも多数派に囲まれて暮らすときよりも健康状態が良いのです。
人々が幸せに暮らすためのポイント
ウィルキンソンとビケットは、人々が幸せに暮らすための最大のポイントが2つあることを示しています。
それは、「社会的地位」と「友情」です。この2つは明らかな一対をなすものです。
根本的に権力と強制にもとづく「社会的地位」の対極にある人間関係こそ「友情」です。
友情とは、互恵性であり、分かち合いであり、社会的義務であり、互いのニーズを認め合うことです。
贈り物は友情のしるしであるとされますが、それは贈り手と受け取り手が資源を争わずに、互いのニーズを理解し合って行動している証しだからなのです。
文化人類学者マーシャル・デヴィッド・サーリンズは「贈り物は友人を生み、友人は贈り物をする」という名言を吐いています。
著者によれば、食事をともにすることも同じシンボリックな意味を持ちます。
食べ物は、人間が生きていく上でもっとも根本的に必要なものです。資源が欠乏しているとき、食料をめぐる競争が社会を荒廃させるのも当然でしょう。
「社会的地位と友情は非常に重要である」と前置きして、著者は次のように述べます。
「なぜなら、人間でも動物でも動物でも社会組織と政治的生活について、おそらく最も根本的な問題に関わるものだからだ。同じ種であればニーズも同じ。だから、互いに最悪のライバルになりかねず、食料、住みか、生殖相手、快適な居場所、よき巣作りの場所など、ありとあらゆるものを奪い合う可能性がある。その結果、実に多くの種において、争いが最も起きやすいのは、外敵の脅威があるにもかかわらず、同じ種の間である」
17世紀、トマス・ホッブスは自身の政治哲学の基礎に希少資源をめぐる争いの危険をおき、政府の強制力なくしては、世の中は「孤立、貧困、悪意、暴力、欠乏」の巣窟になってしまうと論じました。
そして、有名な「万人の万人に対する闘争」という言葉を吐きました。しかし、著者は「おそらくホッブスは、ある重要な側面を見逃していた」として、次のように述べるのです。
「人間は争いごとを起こしかねない一方で、協調、学習、愛情、あらゆる助け合いを生み出せるのだ。ダチョウやカワウソは互いに傷つけ合う以外にさして能がないが、人間は違う。助け合えることに加え、人間の能力の大半は学び取ったものだから、スキルを持ち寄ることができる。同様に、専門家や分業という人間の特質は、人間には協調による比類なき潜在能力が秘められていることを意味している。だから人間は互いに最悪の敵になりかねない一方で、互いに何よりの安心と安全の源にもなれるのである」
「お互いさま」の社会
なぜ、人間は友情や社会的地位に敏感になったのか。それは、社会的関係の質が常に幸福と深く関わっているからです。また、他者を危険な競争相手か安心をもたらしてくれる味方かを判別する上で重要だったからです。
社会生活のこうした側面がとても重要だったので、友人がいないことや、低い社会的地位などが、現代の豊かな人々の健康を左右するのですね。
人に拒まれること、敵視されることは社会的痛みです。逆に、人に何かをしてあげて、それを感謝されたときには充実感を感じます。
ウィルキンソンとビケットは、次のように述べます。
「友情を基盤に栄え、協調と信頼を生み出せる種として、ヒトの社会が格差、社会的拒絶、偏見などに基づいたものになっていたら、大きな痛みを生じることは言うまでもない。この点を考えると、格差社会がうまく機能しない理由だけではなく、より人間的な社会のほうが、今多くの人々が生きている格差社会よりも、ずっとうまくいくことにも自信が持てるだろう」
わたしは、人間の幸福とは良い人間関係にあると信じています。「友情」を元にして「協調」や「信頼」を生む社会とは、まさにハートフル・ソサエティです。
現在の日本社会は「少子高齢社会」であり、かつ「無縁社会」です。そんな中、もっとも必要とされているのは「社会的連帯」です。わかりやすくいえば、「お互いさまの社会」の形成です。
一人親と独居老人を組み合わせるという相互扶助のアイデアもまさに「お互いさまの社会」ならではの考えです。「お互いさまの社会」に向けて、多くの人々がさまざまな知恵を出し合い、助け合ってゆくことが大切なのです。
ユイ・モヤイ・テツダイ
わたしたちの互助会事業というのは、まさに「助け合う」ことが仕事です。経済的な余裕がなくて結婚式や葬儀があげられずに困っている方をはじめ、結婚相手がいなくて困っている方、年を取って余った時間を持て余して困っている方……ぜひ、いろいろな方々をお助けすることができる会社でありたいと願っています。そうすれば、大いなる互助のシステムが社会的に発動し、結局は自分自身を助けることにもなるように思います。
わたしは、よく「互助会から互助社会へ」ということを語るのですが、まさに「互助社会」というコンセプトが求められる時代になってきました。
「互助社会とは何か」を考えるうえで、社会学者である恩田守雄氏の著書『互助社会論』(世界思想社)が参考になります。互助行為にはさまざまな種類がありますが恩田氏は、それらを「ユイ」「モヤイ」「テツダイ」という言葉に集約しています。
「ユイ」とは、互助行為の行為者が特定の相手と互酬的な関係にあり、主体と客体が双方で入れ替わる「互酬的行為」のことです。一般には、田植え、稲刈りの農作業や屋根の葺き替えなどの「交換労働」をさします。
「モヤイ」とは、行為者間で資源の配分を公平に行なって、その成果を順次成員間で再分配するように、主体と客体が特定の行為者関係に限定されない「再分配的行為」のことです。一般には、道普請などの村仕事や共有地(コモンズ)を維持管理する「協同労働」をさします。
「ユイ」も「モヤイ」も双方向の互助行為ですが、「テツダイ」という一方向の行為も存在します。「テツダイ」とは「手伝い」のことですね。地域によっては、「スケ」とか「カセイ」とも呼ばれてきました。
テツダイという「片助行為」は、共同体が前提にしている成員間の対等なヨコの社会関係に基づく「支援的行為」と、行為者間に「助力」格差が存在するタテの社会関係に基づく「援助的行為」に大別されます。恩田氏は次のように述べます。
「冠婚葬祭に見られる手伝いは、このテツダイのうちヨコの社会関係を反映した互助行為である。それはユイやモヤイが労力提供の依頼を前提にするのに対して、相手からの要請が少ない自発的な『支援的行為』でもある。このような一方向の行為は労働力や物品の提供を返礼として相手に求めず、その好意を受けとることに相手が負担を感じることが少ない行為である。この種の行為は村落内のツキアイであり、『社会の潤滑油』として機能してきた」
経済人類学者のカール・ポランニーは、社会背景をもつ経済的行為として、「互酬」「再分配」「交換」という3つのパターンを示しましたが、恩田氏によれば、そこにはテツダイという片務的な「支援」が抜け落ちているわけです。
ナナメの社会関係
恩田氏によれば、互助行為は多様な「助縁」に基づく社会関係を構成します。
もっとも普通に見られるのは親戚関係(血族、姻族)の行為です。
これは、祖先からつながっているタテの血縁関係に基づく互助行為が中心でした。しかし血縁だけでは不十分なとき、非血縁関係にある他者からの協力を必要とします。
これが地縁関係に基づくヨコの互助行為です。
都市化とともに、タテの社会関係から、しだいにヨコの地域住民による互助行為が多くなりました。
わたしは、つねづね血縁という「タテ糸」と地縁という「ヨコ糸」を張らなければならないと主張しています。しかし、著者はさらに、従来の血縁や地縁とは異なる第3の「助縁」関係をきっかけに、ナナメの社会関係とも呼べる新しいボランティアの「縁」に基づく互助行為を生み出していると指摘します。
これは、タテの親戚とヨコの地域住民だけではない、広く、一般市民による第3の社会関係といえるでしょう。もちろん血縁と地縁の他にも「縁」はあります。
わが社では、「学縁」とか「職縁」といった言葉とともに「道縁」という言葉を使っています。趣味を同じくする人々や志を同じくしてボランティアなどに励む人々の絆が「道縁」です。
この「道縁」と、著者がいう第3の「助縁」関係は同じものだと思いますが、これが「ナナメ」の糸であることに気づきました。
「道縁」にしろ第3の「助縁」にしろ、インターネットなどを通して自由な互助ネットワークを拡大してゆく可能性を持っています。
また、恩田氏は「組」や「講」といった互助活動の単位も取り上げています。
村落生活では、地主神や産土神などの土着信仰が相互扶助の精神的な支えになっています。そこで、そういった信仰面での組織が早くから生まれました。家族とともに、信仰組織が誕生したといってもよいでしょう。
村民の「こころ」の絆は寺社への信仰基盤が強固なところほど強く、信仰組織が互助ネットワークの基礎となっていました。そこでは血縁よりも地縁的な社会結合が発達していましたが、だんだん協同の村仕事のようなものが必要になってくると、「組」あるいは「講」と呼ばれる小集団が重要な役割を担ってきました。
面白いのは、「組」や「講」は、非常にバラエティ豊かであることです。たとえば、「組」では行政組織としての「5人組」や「隣組」、経済組織としての「ユイ(田植)組」、社会組織としての「葬式組」や「子供組」「若者組」「娘組」「嫁組」「主婦組」「年寄組」など。
「講」にいたっては、経済組織としての「頼母子講」や「無尽講」、社会組織としての「屋根葺講」「茅講」「無縁講」、さらには多様な文化組織としての「講」があります。
文化組織にもいくつかの種類があり、教養互助組織あるいは宗教講としての「伊勢講」や「富士講」や「念仏講」「観音講」「大師講」「稲荷講」、趣味娯楽組織としての「茶講」や「汁講」……この他にも多くの種類の「講」が存在し、まさにテーマ別互助サークルの観さえあります。
わたしたち日本人は、このように何かと目的を見つけては集い、仲間で楽しみ、助け合うという素晴らしい文化を持っていたのです。
新しい互助行為の提案
しかし、現在の日本社会における互助活動はどうなっているでしょうか。恩田氏は次のように述べます。
「今や互助行為の『原風景』が失われつつある。行政の対応では馴染まない領域では民間の私企業が市場で互助サービスを提供している。それはツキアイに縛られることがない個人生活を尊重する傾向と軌を一にしているようである。これらは葬儀社やブライダル産業など冠婚葬祭のビジネスに典型的に見られる。個人がバラバラになり連帯が薄れているとき、この種のビジネスは煩わしい近隣関係にとらわれることなく、ビジネスライクに処理できる点は一面便利ではある。『互助会』という名称をつけたビジネスが隆盛をきわめているのは、互助行為があまりにも希薄化した現代社会への警鐘と受け取れる皮肉な名称である。必要なときに貨幣と引き替えでないとサービスが受けられないのは、社会関係を冷淡なものにしないだろうか。こうした過度な市場志向の互助行為が地域社会の互助ネットワークを切断してきたと言えよう。この種のサービス業が都市から村落に浸透するにつれ、ムラ社会のヨコの社会関係に代替することで自生的な『共生互助組織』も衰退してきたのである」
これは、恩田氏のいう「『互助会』という名称をつけたビジネス」の当事者としては、言いたいことがあります。
冠婚葬祭互助会のルーツは「結(ユイ)」や「講」です。互助会が成長したから、自主的な「共生互助組織」が衰退したのではなく、その逆で、敗戦により日本社会における互助ネットワークが崩壊したので、それらに代わる新しいシステムとして互助会が誕生したのです。
いわば、戦後の日本社会の要請によって互助会は生まれ、国民のニーズに合致したため発展してきたのです。また、「必要なときに貨幣と引き替えでないとサービスが受けられないのは、社会関係を冷淡なものにしないだろうか」などというのは、まったくの言いがかりにすぎません。
互助会というのは純粋な会社組織であり、そのほとんどは株式会社です。恩田氏がいうような「必要なときに貨幣と引き替えなくてもサービスが受けられる」というのは行政の話です。逆にいえば、互助会は行政がなすべきサービスを民間の側から補完していると言えるでしょう。
しかし、恩田氏は本講の最終部分で次のようにも述べています。
「冠婚葬祭、特に葬儀は地域社会の重要な儀式であり、近隣の人たちが総出で手伝ってきた。葬儀ビジネスがこれにとって代わり、社会関係はますます希薄化しているのが実態であろう。この種の互助ビジネスの存在意義を否定するわけではないが、互助行為と互助ビジネスを融和させることで、たとえば地域住民の運営によるコミュニティ・ビジネスも考えられる。行政に依存し過ぎることなく、また企業の市場に飲み込まれることなく、ユイやモヤイ、テツダイの伝統的な互助行為を見直したい」
これには、わたしも同感です。現状の冠婚葬祭のサービス提供だけでなく、わが社では「隣人祭り」「婚活セミナー」「グリーフケア・サポート」などの新しい互助行為の提案を試みているわけですが、さらに新時代の互助会を創造するためには「ユイ」「モヤイ」「テツダイ」の中から多くのヒントを求められると思っています。
ソーシャル・ネットワークとは何か
最近、「ソーシャル・ネットワーク」という映画が話題になりました。
「フェイスブック」誕生の物語です。フェイスブックは、世界最大のソーシャル・ネットワーキング・サービスです。ユーザーは全世界で5億人を超え、時価総額は2兆円を超えます。
わたしは、この映画を観る前からフェイスブックというものに大変興味を抱いていました。
自分は利用していませんが、聞くところによると、フェイスブックは「実名主義」だとか。この「実名主義」というところが画期的であると感じました。匿名で個人や企業などを誹謗中傷する行為は卑怯千万であり、ネットの最も暗い部分です。その悪しき「匿名主義」をフェイスブックが駆逐してくれるのではないかと期待したのです。
実際、フェイスブックの躍進で、グーグルが存亡の危機にあるという人もいます。実名に基づく情報は当然ながら信用性が高く、怪しい匿名ブログの類まで検索で拾ってしまうグーグルの信用性は低いからです。
ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)は、誰でも簡単に利用できて、親密な人間関係を築く手伝いをしてくれるということで急成長したウェブサービスです。「フェイスブック」をはじめ、海外では「フレンドスター」、「マイスペース」などが、日本では「mixi」、「GREE」、「モバゲータウン」などが有名です。
映画パンフレットで、メディア評論家の荻上チキ氏は次のように述べています。
「人々がインターネットに求めていた最大のコンテンツは、コミュニケーションそのものだった。昨今のtwitterの流行も、ますます『つながることへの欲望』に拍車をかけている。賢しげに『人間関係の希薄化』を危ぶむ声とは裏腹に、インターネットがつなげてきた人々の数は底知れない。インターネットはわずか数年の間に、『現実ではない仮想世界』ではなく『現実を補完する拡張世界』の地位を獲得した。つながりを可視化し、補強してくれる道具としてのインターネットは、これからもこの社会を絶えず拡張していくのだ」
しかし、わたしは「インターネットがつなげてきた人々の数は底知れない」のも事実でしょうが、それに過剰に期待することもまた危険であると思います。というのは、「隣人祭り」が起こる直前のフランスでは、SNSが国家的事業として推進されていたそうです。このサービスがフランスで大流行した反動で、リアルな対人コミュニケーションが激減しました。そして、孤独死が爆発的に増えたため、社会的要請において隣人祭りが生まれたという歴史的事実があるのです。
「冠婚葬祭とはひと言でいって何ですか?」
わたしは、ITが進歩するばかりでは人類の心は悲鳴をあげて狂ってしまうと思っています。
そんなことを痛感する事件が、日本でも起きました。
2010年4月17日の午前2時すぎに愛知県豊川市に住む30歳の無職男性が、寝ている両親および弟家族のあわせて5人を包丁で刺した上に放火しました。焼け跡から、父親と1歳の女児の2人の遺体が見つかりました。母親と弟夫婦もけがをしましたが、1人は重症でした。
何より衝撃的だったのは、調べに対して容疑者の男性が、「インターネットの契約を家族に解約された」と思い込んで5人を刺したと供述したことです。
まさか、インターネットのために家族を殺そうとするとは!
この容疑者は、何を目的にインターネットの契約をしていたのでしょうか。彼はいわゆる「引きこもり」状態だったようですが、SNSやブログやツイッターで誰かとつながっていたのでしょうか。いくらウェブでつながっても、それはしょせんバーチャルな人間関係でしかありません。そして、リアルな人間関係の最たるものが「家族」です。
バーチャルのためにリアルを消そうとするとは!
まったく空恐ろしい時代になったものだと感じますが、それ以上にこの事件はバーチャルな世界が肥大化する現代社会を浮き彫りにする象徴的な事件であると思います。
SNSのサービスがフランスで大流行した反動で、リアルな対人コミュニケーションが激減しました。そして、孤独死が爆発的に増えたため、社会的要請において「隣人祭り」が生まれたというのです。まさに、日本の現状そのものですね。
いくらウェブでつながっても、それはしょせんバーチャルな人間関係でしかありません。
わたしの本業である冠婚葬祭はバーチャルを超えたリアルな営みです。
「冠婚葬祭とはひと言でいって何ですか?」と尋ねられたとき、わたしはいつも「人が集まることです」と答えています。結婚式にしろ、葬儀にしろ、冠婚葬祭とは生身の人間が実際に集まってきて、喜びや悲しみの感情を持ち、祝意や弔意を示すことに他なりません。
ITとは、インフォメーション・テクノロジーの略です。ITで重要なのは、I(情報)であって、T(技術)ではありません。
経営学者のドラッカーは、IT革命の本当の主役はまだ現われていないと述べました。
その情報にしても、技術、つまりコンピュータから出てくるものは、過去のもの、組織の内部についてのものにすぎないといいます。
本当の主役、本当の情報が登場するのはこれからなのです。そして、真の主役こそ、「思いやり」「感謝」「感動」「癒し」といったポジティブな心の働きだと、わたしは信じています。
ITの進歩とともに、人が会う機会がたくさんある社会でなければなりません。そして、多くの人が会う機会の最たるものこそ冠婚葬祭です。結婚式や葬儀に限らず、七五三、成人式、長寿祝、法事、さらには隣人祭り、婚活セミナー……わたしは、これからも、ありとあらゆる人が集まる「理由」や「目的」を作っていきたいと思います。
でも、SNSと冠婚葬祭や隣人祭りはけっして対立するものではありません。ともに、めざすものは「人と人とのつながり」のはずです。 つまり、SNSも冠婚葬祭や隣人祭りも相互補完の関係になるべきでしょう。 ITによって生まれる縁、いわば「電縁」はたしかに存在しますし、今後その存在はますます大きくなる一方です。あの手この手の作戦で、「有縁社会」を作っていく必要があるのではないでしょうか。
「霊能力」から「礼能力」へ
「GNH」という言葉をご存知でしょうか。グロス・ナショナル・ハピネス、つまり、「国民総幸福量」という意味です。ブータンの前国王が提唱した国民全体の幸福度を示す尺度で、世界的に注目されている考え方です。
「GNP(国民総生産)」で示されるような「物質的豊かさ」を求めるのではなく、「精神的豊かさ」、すなわち「幸福」を求めるべきであるという考えから生まれたものです。
ブータンは経済的、物質的には世界でももっとも貧しい国の1つですが、国民のなんと9割以上が「自分は幸福だ」と感じているといいます。
ブータンは世界で唯一のチベット仏教を国教とする国であり、葬儀を中心とした宗教儀礼が非常に盛んなことで知られます。そのせいか、ブータンの人々は良い人間関係に恵まれているようです。人間関係の良好さが幸福感に寄与しているのです。
わたしは、どんなにお金や社会的地位や健康に恵まれていても、人間関係に恵まれなければ、その人はやはり不幸だと思います。
世界は深刻な問題にあふれています。まるでハートレス・ソサエティという「心なき社会」に向かっているようにも見えます。わたしたちは、それをハートフル・ソサエティという「心ゆたかな社会」へと進路変更させなければなりません。
かつて、フランスの文化相も務めた作家のアンドレ・マルローは「21世紀はスピリチュアリティの時代である」と述べました。多くの識者もその見方に賛同しています。
「スピリチュアリティ」とは「精神性」とでも訳すべきでしょうが、最近の日本では「スピリチュアル」というよく似た言葉が流行しています。その言葉も、本来は「精神的な」といったふうな意味なのでしょうが、どうも「スピリチュアルカウンセラー」などと自称する一部の人間の影響で、霊能力と関連づけられることがほとんどです。
わたしは、心ゆたかな社会とは、決して霊能力に関心が集まる社会ではないと思います。それどころか、安易なオカルト・ブームは、健全な社会にとってきわめて危険であるとさえ思っています。孔子が「怪力乱神を語らず」と述べたことを忘れてはなりません。
本当に大切なのは、「霊能力」ではなくて、「礼能力」ではないでしょうか。これは、宗教哲学者の鎌田東二氏の造語ですが、他者を大切に思える能力、つまり、仁や慈悲や愛の力のことです。わが社の大ミッションである「人間尊重」とは「礼」のことです。「礼」は他者を尊重する心を形に表わすことです。それは、ホスピタリティでもあります。
「となりびとの光」を観る
それから、「礼能力」とともに、わたしは「観光力」というものも大切だと思います。
「観光力」と聞くと、おそらく観光地における集客力とか人気のことだと思われるでしょう。しかし、わたしがお話しようとしている観光力は、観光する側の問題です。
「観光」とは、もともと古代中国の書物である『書経』に出てくる「観國光」という言葉に由来します。「國光」とは、その地域の「より良き文物」や「より良き礼節」と「住み良さ」を指します。すなわち観光とは、日常から離れた異なる景色、風景、街並みなどに対するまなざしに他なりません。どんな土地にも、その土地なりの光り輝く魅力があります。そして、観光とは文字どおり、その光を観ることなのです。
わたしは、土地の光を観る精神は人間の光を観る精神にもつながるのではないかと思います。つまり、その人の良いところを観るということです。わたしの仲人でもあった元・東急エージェンシー社長の前野徹さんは、いつも「美点凝視」ということをおっしゃっていました。
「美点凝視」とは、相手の短所ではなく、長所を見ることです。そして、それを相手に指摘してあげることです。 つまり、相手の優れた部分を取り出し、魅力として自覚させ、さらには勇気づけるというものなのです。 欠点ばかり指摘されていたのでは、だれでも嫌気がさして、人間関係も良くならないことは言うまでもありませんね。
「美点凝視」は、ピーター・ドラッカーの「強み」の思想にも通じます。ドラッカーは、上司は部下の「強み」を生かさなければならないと唱えました。それこそがマネジメントの真髄だというのです。そして、部下もまた上司をマネジメントするのです。その方法とは、上司の「強み」を生かすことです。お互いに「強み」を生かしあうことからくる信頼関係の前提として、「真摯(しんし)さ」の存在があげられます。「真摯さ」さえあれば、相手の「強み」を生かすことができる、つまり、相手が放つ「光」を観ることができるのです。
『論語』にも「君子は人の美を成す。人の悪を成さず。小人は是れに反す」という言葉があります。「君子は人の美点を伸ばし、悪い点は出さないようにするものだ。小人はその反対だ」という意味です。ドラッカーのみならず、孔子もまた「観光力」の必要性を知っていました。
「光」を観るべきは、上司や部下といった会社の人間だけではありません。わたしたちは、隣人の放つ光を観なければなりません。世の中にはさまざまな人がいます。陽気な人に陰気な人、豊かな人に貧しい人、気安い人に気難しい人……しかし、みんな隣人なのです。どんな人にも長所もあれば短所もあります。ならば、その人の長所、すなわち、「となりびとの光」を観ることが人間関係を良くする秘訣だと言えるでしょう。
それは、「何事も陽にとらえる」というわが社の経営理念にもそのまま通じるものです。
結局、幸福な社会をつくる最大のカギこそ、わたしたちの礼能力や観光力であり、その結果としての良き人間関係なのです。
沖縄力――いちゃりばちょーでい
現代人は、さまざまなストレスを抱えて生きています。ちょうど、空中に漂う凧のようなものです。そして、安定して空に浮かぶためには縦糸と横糸が必要だということはすでに申しあげました。
縦糸とは時間軸で自分を支えてくれるもの、すなわち「先祖」。また、横糸とは空間軸から支えてくれる「隣人」です。
ブータンの人々は宗教儀礼によって先祖を大切にし、隣人を大切にして人間関係を良くしている。だから、しっかりとした縦糸と横糸に守られて、世界一幸福なのです。
ブータンの人々が世界一幸福な人々なら、日本一幸福な人々とはだれでしょうか。わたしは、沖縄の人々ではないかと思います。先の戦争では、沖縄の人々は本当に苦労され、経済力や生活レベルといった視点では、必ずしも恵まれているとは言えない現状があります。
しかし、「あなたは幸せですか」といった幸福感調査のアンケートなどを全国の都道府県を対象に行なうと、いつも沖縄県が一番になるというのは有名です。
わが社は、沖縄県において結婚式も葬儀も最大件数をお世話させていただいています。沖縄の結婚式も葬儀も、日本でもっとも多くの人々が参列します。沖縄では、人間関係というものが何よりも優先され、冠婚葬祭でのつきあいが最重視されるのです。
また沖縄の人々は、日本中のどこよりも先祖と隣人を大切にします。
いま、日本は「無縁社会」と呼ばれています。かつての日本社会には「血縁」という家族や親族との絆があり、「地縁」という地域との絆がありました。日本人は、それらを急速に失っています。では、わたしたちが幸せに生きるためには、どうすべきか。わたしは、何よりも、先祖と隣人を大切にすることが求められると思います。
まず、死者を忘れないということが大切です。わたしたちは、いつでも死者とともに生きているのです。死者を忘れて生者の幸福など絶対にありえません。もっとも身近な死者とは、多くの人にとって先祖でしょう。先祖をいつも意識して暮らすということが必要です。
もちろん、わたしたちは生きているわけですから、死者だけと暮らすわけにはいきません。
ならば、だれとともに暮らすのか。まずは、家族であり、それから隣人ですね。
考えてみれば、祖父母や両親とは生ける「先祖」です。そして、配偶者や子どもとは最大の「隣人」です。
沖縄の人々は、ブータンの人々と同じく、その「こころ」に血縁の縦糸と地縁の横糸をしっかりと張っているのです。だから、「こころ」が安定して、幸福感を感じながら生きることができるのでしょう。
しかも、沖縄がすごいのはそれだけではありません。沖縄の人々がよく使う「いちゃりばちょーでい」という言葉は、「一度会ったら兄弟」という意味です。
沖縄では、あらゆる縁が生かされるのですね。まさに「袖すり合うも多生の縁」は沖縄にあり!「守礼之邦」は、大いなる「有縁社会」なのです。
すべての日本人が幸せに暮らすためのヒントが沖縄にはたくさんあります。今こそ、すべての日本人は「沖縄復帰」するべきです。そして、幸福力としての「沖縄力」を身につけなければならないと思います。ぜひ、沖縄力で有縁社会をつくり、隣人の時代を拓きましょう!