平成心学塾 隣人篇 有縁社会のつくり方 #003

わたしを憶えておいてください

五人の女性の物語――『赤い鯨と白い蛇』

『赤い鯨と白い蛇』冨川元文著(クリーク・アンド・リバー社)という本があります。

2006年11月に公開された日本映画「赤い鯨と白い蛇」の脚本家・富川元文による原作小説です。わたしは、この映画を東京は神保町の岩波ホールで観ました。

この物語には、5人の女性が登場します。なぜか、男性はまったく出てきません。老境を迎えた保江は、認知症が進行したこともあり、息子の家に引き取られることになります。孫娘の明美が付き添ってくれることになり、保江は息子の家に向かいます。

その途中、保江はまるで引き寄せられるかのように、千葉県の館山にある茅茸きの家を訪れます。そこは保江が戦時中に疎開していた家でした。

何十年ぶりに懐かしい家を訪れてみると、そこでは家の持ち主である光子が、家を取り壊そうとしていました。

光子は、家を出てしまった夫を待ち疲れてしまい、新しい生活を考えはじめていたのです。彼女には、里香という小学生の娘がいました。里香は、思うようにならない人生に思い悩む母の姿を見守るしかありません。

そこに、同じくかつての住人だった美土里も現れます。美土里は、詐欺まがいのセールスでトラブルを抱え、ここへ逃げ込んできたのでした。

不思議な縁で海辺の古い家に集まった5世代の女たちは、互いの人生を交差させていきます。そして、互いの人生を横目で見ながら、自分の胸の中の本当の想いを見つめ直していくのです。

明美と光子、美土里の3人はそれぞれ女性としての悩みやトラウマを抱えていますが、この物語の核となっているのは、保江の戦争体験です。

古家の近くの山の斜面には洞窟があり、それは戦争中に掘られた防空壕でした。館山や三浦半島は東京湾の入り口に位置しています。

そのため、アメリカ艦隊を攻撃するための重要な基地がたくさんありました。

戦艦を迎え撃つ航空隊も配備されていましたし、そうした兵器や兵士を隠すために入り江には無数の防空壕が掘られていたのです。

その中の1つの洞窟に保江は入って行きます。奥で頭上をロウソクで照らすと、白い龍神の浮き彫りがありました。そして、その龍神の下に木箱が埋まっていたのです。

保江の心は、60年前の終戦直前の頃に戻ってゆきます。当時、15歳の少女だった保江は、この地で特別攻撃隊の若い兵隊に出会います。その兵隊の名は、森島鶴彦といいました。保江と森島は、ある約束を交わします。

森島は学徒兵でした。文学部の学生だったようで、ホイットマンやワーズワースを愛読していました。もちろん戦時中は敵国である英米の文学書など絶対に読めません。

それで、木箱に入れて龍神の浮き彫りのある洞窟に隠しました。

館山近辺、そして東京湾を挟んで油壺あたりの入り江には、敵艦を攻撃するための特殊兵器が密かに配備されていました。そのうちの1つに「海龍」という17メートルほどの小型潜航艇がありました。

2本の魚雷を積み、その頭部には600キロの爆薬を積んでいました。2名から5名ほどの乗員で敵艦に近づき、魚雷を発射する特殊兵器として開発されたものです。

一般に人間魚雷として知られている「回天」は、この「海龍」をさらに改良して1人乗りにしたものです。いずれにしても自殺兵器であることに変わりはありませんが、森島鶴彦はこの「海龍」の乗員だったのです。

さて、森島の木箱を洞窟から古家に運んだ後、保江は森島のことを一同に話します。

美土里が保江に「その兵隊さんと何か約束をしたわけ?」と尋ね、保江は遠い日の記憶を語り出します。(以下、引用)

「自分のことを忘れないでくれ、そう言われたの」
保江は縁側に並べた本を見て答えた。
「自分のことを忘れないでくれ、そう言われたの」
ホイットマンやワーズワースの本を1つ1つ手にとって保江は続けた。
「森島さんの家族、それに親戚の人も全員が3月10日に亡くなっていたの。……だから戦争で死んだら自分のことを憶えていてくれる人は誰もいなくなるって」
「3月10日って、東京で10万人が死んだとかいう東京大空襲のこと?」
美土里だけが3月10日を知っていた。保江は森島の話を続けた。
「だから、森島鶴彦という人間がこの世にいたことを憶えていてほしい。鶴彦さんにそう言われたんです。……だから、忘れないように釦をいただいて、いつまでも忘れないって答えたんです」
「それが約束?」
明美が保江に確かめた。保江は小さく頷いて話した。
「病院で認知症の兆しがあるって言われたとき思ったの、そのうち約束が守れなくなるかもしれないって」
保江は振り返って遠くの空を見て言った。
「だから謝りに来たんです。もう思い出してあげられないかもしれない。約束を守れなくなるかもしれない、だから、ごめんなさいって謝りたかったんです」
遠くの空には白い片雲が浮かんでいる。保江はその雲の向こうを眺めて繰り返した。
「ごめんなさい」
保江が眺める雲の向こうには森島が居た。もちろん美土里と明美、そして光子と里香には森島の姿は見えない。しかし何故か4人は保江と同じように雲の向こうを眺めた。
(冨川元文『赤い鯨と白い蛇』より)
タイトルの「白い蛇」は洞窟の中の龍神の浮き彫りということがわかりましたが、では「赤い鯨」とは何か。それは、森島が訓練で乗っていた潜水艦でした。森島と保江が一緒に海を眺めていたとき、ちょうど海に小さな潜水艦が見えました。

「あれは何だろう?」と尋ねる保江に、森島は「赤い鯨だ」と答えます。潜水艦は秘密訓練だったので、本当のことは言えなかったのです。

館山の海は昔から海が平らで夕焼けが綺麗でした。夕方、潜水艦を見ると、ちょうど赤い鯨に見えたのです。地元の漁師たちは特殊潜航艇のことを鉄鯨と呼んでいたそうです。夕陽を浴びた赤い鯨のことを思い出しながら、保江は涙を流します。

そして、「私が忘れたら……、私が忘れたら、森島さんは二度死ぬことになるのよね」とつぶやくのです。

映画では、保江のセリフは「私が忘れたら、あの人は二度死ぬことになる」となっていました。それを聞いたとたん、わたしの目からも涙が溢れ出して止まらなくなりました。

死者がもう一度死ぬとき

アフリカのある部族では、死者を2通りに分ける風習があるそうです。人が死んでも、生前について知る人が生きているうちは、死んだことにはなりません。生き残った者が心の中に呼び起こすことができるからです。

しかし、記憶する人が死に絶えてしまったとき、死者は本当の死者になってしまうというのです。だれからも忘れ去られたとき、死者はもう一度死ぬのです。

わたしたちは、亡くなった人を二度も死なせてはなりません。いつも、亡くなった人を思い出さなければなりません。

では、わたしたちが、日常的に死者を思い出すのは、いつでしょうか。お盆やお彼岸、それに命日ぐらいですか。お墓や仏壇の前で手を合わせるときだけですか。

それでは、亡くなった人はあの世でさぞ寂しい思いをしていることでしょう。

亡くなった人は、何よりも愛するあなたから思い出してもらうことを願っているのです。もうこれ以上、死にたくないのです。

では、日常的に死者をどう思い出せばよいのでしょうか。わたしは、夜空の月を見上げながら、いまは亡き懐かしい人々を偲んでいます。月を見ながら死者を想うと、本当に故人の面影がありありとよみがえる気がします。

わたしは月こそ「あの世」であり、死者は月へ向かって旅立ってゆくと考えています。

最近、スタートさせたグリーフケア・サポートの会を「月あかりの会」と名づけました。

そして、「亡き人の面影浮かぶ月あかり 集ひて語る心の絆」という短歌を詠みました。

いずれにせよ、わたしたちは死者のことを忘れてはなりません。死者を忘れて、生者の幸福など絶対にありえません。

わたしは、この物語に出てくる森島の「自分のことを忘れないでくれ」という言葉が、あまりにも哀しくて泣きました。

わたしは、いろんな葬儀に立ち会います。中には参列者が1人もいないという孤独な葬儀も存在します。そんな葬儀を見ると、わたしは本当に故人が気の毒で仕方がありません。

亡くなられた方には家族もいたでしょうし、友人や仕事仲間もいたことでしょう。なのに、どうしてこの人は1人で旅立たなければならないのかと思うのです。

もちろん死ぬとき、だれだって1人で死んでゆきます。でも、だれにも見送られずに1人で旅立つのは、あまりにも寂しいではありませんか。

故人のことをだれも記憶しなかったとしたら、その人は最初からこの世に存在しなかったのと同じではないでしょうか?

アカデミー外国語映画賞を受賞した「おくりびと」が話題になりました。人はだれでも「おくりびと」です。そして最後には、「おくられびと」になります。1人でも多くの「おくりびと」を得ることが、その人の人間関係の豊かさを示すのです。

「ヒト」は生物です。「人間」は社会的存在です。「ヒト」は、他者から送られて、そして他者から記憶されて、初めて「人間」になるのではないかと、わたしは思います。

「隣人」とは何か――「秋深き隣は何をする人ぞ」

人間はみな平等です。そして、死は最大の平等です。その人がこの世に存在したということをだれかが憶えておいてあげなくてはなりません。親族がいなくて血縁が絶えた人ならば、地縁のある地域の隣人が憶えておいてあげればいいと思います。

わたしは、参列者のいない孤独葬などのお世話をさせていただくとき、いつも「もしだれも故人を憶えておく人がいないのなら、われわれが憶えておこうよ」と葬祭スタッフに呼びかけます。でも、本当は同じ土地や町内で暮らして生前のあった近所の方々が故人を思い出してあげるのがよいと思います。故人はどんなに喜んでくれることでしょうか!

「俳聖」と呼ばれた松尾芭蕉に「秋深き隣は何をする人ぞ」という有名な句があります。

多くの人は「秋の夜、隣の家の住人たちは何をしているのかなあ」というような意味にとらえているでしょうが、じつはこの句には深い意味があります。

芭蕉は、51歳のときにこの句を詠みました。1694年(元禄7年)9月29日のことでしたが、この日の夜は芭蕉最後の俳句会が芝柏亭で開かれることになっていました。しかし、芭蕉は体調が悪いため句会には、参加できないと考えました。そこで、この俳句を書いて送ったそうです。結局これが芭蕉が起きて詠んだ生涯最後の俳句となりました。彼はこの日から命日となる10月12日まで病床に伏せ、ついに一度も起きあがることなく死んでいきました。

さて、「秋深き隣は何をする人ぞ」には「隣」という字が出てきます。

「隣」の字の左にある「こざとへん」は人々の住む「村」を表します。右には「米」「夕」「井」の文字があります。3つとも、人間にとって最重要なものばかりです。それぞれ、「米」は食べ物を、「夕」は人の骨を、「井」は水を中心とした生活の場を表しています。

すなわち、「隣」という字は、同じ村に住む人々が衣食住によって生活を営み、その営みを終えた後は仲間たちによって弔われ、死者となるという意味なのです。そこから、「死者を弔うのは隣人の務めである」といったようなメッセージさえ読み取れます。

ということは、「隣」の真の意味を考えれば、くだんの句は次のように解釈できます。

「いよいよ秋も深まりましたね。紅葉は美しく、夜には虫の音も響き渡って、想いが膨らみます。村のみなさんは、何をして秋を楽しむのでしょうか。私は間もなく死んでしまいますが、みなさんはこれからどのような人生を送るのでしょうか。ぜひ、実りのある人生を過ごされることを願っています。それでは、さようなら……」

この句に「隣」の字を使った芭蕉の心には、単なる惜別のメッセージだけでなく、もっと切実な「人の道」への想いがあったのかもしれません。

靖国と「死者の遇し方」

「一条さんは、靖国問題について、どう思われますか」という質問をよく受けます。

どうも、わたしは死者供養の専門家のように見られている部分があるようですので、そのせいかもしれません。

わたしは、靖国問題を単なる政治や宗教の問題としてではなく、日本人の「慰霊」や「鎮魂」の根幹に関わる問題としてとらえています。

それは結局、だれを祀るかという慰霊対象の問題に尽きると思います。

靖国神社には現在、約2万5千柱の英霊が祀られていますが、一般に思われているように明治維新以来の日本人兵士全員が祀られているわけではありません。そこに祀られているのは官軍の兵士のみです。靖国神社の前身である東京招魂社は、1869年6月の第1回合祀で幕末以来の内戦の「官軍」つまり新政府軍の戦死者3588人を祀って以来、靖国神社となってからも今日まで、内戦の死者としては官軍の戦死者のみを祀り、「賊軍」つまり旧幕府軍および反政府軍の死者は祀っていません。

同じ日本人の戦死者でも、時の政府に敵対した戦死者は排除するというこの「死者の遇し方」は、戊辰戦争の帰趨を決した会津戦争の戦死者への扱いに象徴されます。官軍の戦没者たちを手厚く弔った一方で、会津側戦死者3千人の遺体は、新政府軍によって埋葬を禁じられました。

西軍は、かの白虎隊を含む東軍の戦死者全員に対して「絶対に手を触れてはいけない」と命令したのです。もし、あえて手を触れる者があれば、その時は、厳罰に処するとしました。したがって、だれも東軍戦死者を埋葬しようとする者はなく、死体はみな、狐や狸などの獣や鳶や烏などの野鳥に食われ、また、どんどん腐敗して、あまりにもひどい、見るも無残な状態になっていたそうです。

旧会津藩士のみならず、鳥羽・伏見の戦いにせよ、函館・五稜郭の戦いにせよ、国内最後の内戦である西南戦争にせよ、その賊軍戦没者はだれ1人として靖国神社は祀っていません。近代日本をつくるうえであれほど多大な功績のあった西郷隆盛さえ祀られていないのです。

国内の戦死者ですら祀らないのですから、日本が戦争で戦った相手国の戦死者は当然のように祀られていません。しかし、日本の中世・近世には、仏教の「怨親平等」思想というものがあり、敵味方双方の戦死者の慰霊を行なう方式が存在しました。北条時宗建立の円覚寺は文永・弘安の役、つまり「元寇」の、島津義弘建立の高野山奥の院・敵味方供養碑は文禄・慶長の役、つまり「朝鮮出兵」の、敵国と自国双方の戦死者の慰霊を目的としています。

外国軍との戦争においても怨親平等の弔いがあったほどだから、日本人同士の戦争においては、中世・近世にそうしたケースはもっと多く確認できます。平重盛の紫金山弦楽寺、藤沢清浄光寺(遊行寺)の敵味方供養塔、足利尊氏の霊亀山天龍寺、足利尊氏・直義兄弟の大平山安国寺、北条氏時の玉縄首塚などなど。

永平寺で修行した日本史学者の圭室諦成は名著『葬式仏教』(大法輪閣)において、「日本においては中世以後、戦争で勝利をえた武将は、戦後かならずといっていいぐらい、敵味方戦死者のための大施餓鬼会を催し、敵味方供養費を建てている」と述べています。

死者の霊が帰る場所

靖国神社に祀られているのが、軍人および軍属のみというのも疑問が残ります。

ひめゆりの乙女たちは従軍看護婦つまり軍属であったため、祀られています。知覧の地より飛び立っていった神風特攻隊の若き桜たちも祀られています。そういう日本軍の末端におられた方々が東條英機元首相らA級戦犯とされた重要人物たちと分け隔てなく平等に祀られているのは評価できるのですが、そこには民間人が一切入っていません。東京大空襲や沖縄戦の犠牲者も、広島や長崎の犠牲者も、いわばみな国のために死んでいったのに、民間人である限りは靖国神社にその魂は入れないのです。これも、どうも納得できません。

わたしは、常々言っているように「死は最大の平等である」と信じています。そのために、死者に対する差別は絶対に許せません。官軍とか賊軍とか、軍人とか民間人とか、日本人とか外国人とか、死者にそんな区別や差別はあってはならないと思う。いっそのこと、みんなまとめて祀ればよいと真剣に思うのです。でも、それでは戦没者の慰霊施設という靖国神社の概念を完全に超えてしまいます。靖国だけではない。アメリカのアーリントン墓地にしろ、韓国の戦争記念館にしろ、一般に戦没者施設というものは自国の戦死者しか祀らないものです。しかし、それでは平等であるはずの死者に差別が生まれてしまう。

では、どうすればよいのか。そこで登場するのが月です。靖国問題がこれほど複雑化するのも、中国や韓国のあまりにも無礼な干渉があるにせよ、遺族の方々が、戦争で亡くなった自分の愛しい者が眠る場所が欲しいからであり、愛しい者に会いに行く場所が欲しいからです。つまり、亡くなった死者に対する心のベクトルの向け先を求めているのです。その場所を月にすればどうでしょうか。

月は日本中どこからでも、また韓国からでも、中国からでも、アメリカからでも見上げることができます。その月を死者の霊が帰る場所とすればいいのではないかと思います。これは決して突拍子もない話でも、無理な提案でもなく、古代より世界各地で月があの世に見立てられてきたという人類の普遍的な見方を、そのまま受け継ぐものです。

世界中の古代人たちは、人間が自然の一部であり、かつ宇宙の一部であるという感覚とともに生きていました。そして、死後への幸福なロマンを持っていました。その象徴が月です。彼らは、月を死後の魂のおもむくところと考えました。月は、魂の再生の中継点と考えられてきたのです。

全人類のお墓

多くの民族の神話と儀礼において、月は死、もしくは魂の再生と関わっています。規則的に満ち欠けを繰り返す月が、死と再生のシンボルとされたことはきわめて自然でしょう。

東南アジアの仏教国では今でも満月の日に祭りや反省の儀式を行ないます。仏教とは、月の力を利用して意識をコントロールする「月の宗教」だと言えるでしょう。太陽の申し子とされた日蓮でさえ、月が最高の法の正体であり、悟りの本当の心であり、無明つまり煩悩や穢土を浄化するものであることを説きました。日蓮は、「本覚のうつつの心の月輪の光は無明の暗を照らし」「心性本覚の月輪」「月の如くなる妙法の心性の月輪」と述べ、法華経について「月こそ心よ、華こそ心よ、と申す法門なり」と記しています。日蓮も月の正体をしっかりと見つめていたのです。

仏教のみならず、神道にしろ、キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、あらゆる宗教の発生は月と深く関わっています。

私たちの肉体とは星々のかけらの仮の宿であり、入ってきた物質は役目を終えていずれ外に出てゆく、いや、宇宙に還っていくのです。宇宙から来て宇宙に還る私たちは、宇宙の子なのです。そして、夜空にくっきりと浮かび上がる月は、あたかも輪廻転生の中継基地そのものと言えます。人間も動植物も、すべて星のかけらからできている。その意味で月は、生きとし生ける者すべてのもとは同じという「万類同根」のシンボルでもある。

かくして、月に「万教同根」「万類同根」のシンボル・タワーを建立し、レーザー(霊座)光線を使って、地球から故人の魂を月に送るという計画をわたしは思い立ち、実現をめざして、いろいろな場所で構想を述べ、賛同者を募っています。

わたしは、月のシンボル・タワーを「月面聖塔」と名づけ、そのプランを1991年に刊行した拙著『ロマンティック・デス』(国書刊行会)で発表しました。多くのテレビ・新聞・雑誌などで取り上げられ、海外のメディアからもたくさん取材が来ました。

月面聖塔は、そのまま、地球上のすべての人類のお墓ともなります。月に人類共通のお墓があれば、地球上での墓地不足も解消できますし、世界中どこの夜空にも月は浮かびます。それに向かって合掌すれば、あらゆる場所で死者の供養をすることができます。

なぜすべての墓は滅びていくのか?

第二次世界大戦で日本では310万人の、世界では約5000万人もの人々が亡くなっているのです。その中には、アウシュビッツなどで殺された約600万人のユダヤ人も含まれています。その人々の魂はどこに帰るのか。

ホロコーストが行なわれたアウシュビッツの夜空にも、ヒトラーが自殺して陥落したベルリンの夜空にも、真珠湾や満州や南京の夜空にも、月が浮かんでいたことでしょう。戦災に遭わなかった金沢にも、ひどい戦災に遭った沖縄にも、原爆が落とされた広島や長崎にも、落ちなかった小倉にも、夜空には月がかかり、ただただ慈悲のような光を地上に降り注いでいたはずです。

特に「無縁」化する現代社会に生きる日本人にとって、月面聖塔の持つ意義ははかり知れないほど大きいと言えます。今後は墓を守る者がいなくなり、無縁となって消える墓も多くなるでしょう。墓を持たない日本人の霊魂はどこへ行き、どこで休息し、どこで生き残った者とコミュニケーションするのでしょうか。

こういった日本における墓の問題を、昭和の初めに指摘した人物がいました。昭和7年に『不滅の墳墓』(巌松堂書店)を発表した細野雲外が、その人です。

「なぜ、すべての墓は無縁になって滅びていくのか」という彼の単純な疑問は、あまりにも普遍的な問題を含むものでした。彼は無縁化によって墳墓がいかに荒廃してきたかを論証した上で、同時代の人々の不明を非難し、民衆の墳墓を不滅化する必要性を説きます。墓地の荒廃の原因は、死後年月が過ぎいつのまにか墓守がいなくなることですから、従来の家墓や個人墓の様式では、それを防ぐことはできません。では、どうすればよいのか。

そこで細野は、都市レベルの供養塔を建設するというプランを提案するのです。戦没者の合同慰霊塔のような、都市の住民すべてを葬る合同墓としての「都市墓」を建てるのです。そうすれば直系の子孫でないにしろ、遠い未来においても必ずだれかが供養してくれるでしょう。このような発想をベースとして描き出された「不滅の墳墓」は、数百万体の遺体を納めることができる巨大な納骨堂のイメージでした。

細野は著書の中で、信州の山村などに時折見うけられる「一寺一墓制」を詳しく紹介しています。この制度は、その集落に属したすべての魂をただ1つの墓石に順次祀るというものです。数百数千の魂が眠るモニュメンタルな墓に入るための必要条件は、その村で生まれ育ち、そして死ぬことです。墓と墓場がまったく一致する、コミュニティ単位の墓、いわば「村墓」ですね。要するに細野の提案は、「一寺一墓制」のスケールを都市レベルに拡大しようというものだったのです。

月面聖塔というのは、細野の「都市墓」をさらに「地球墓」として拡大したものだと言えるでしょう。しかも、月は地球上のあらゆる場所で眺めることができますから、あらゆる場所で月に向かって手を合わせれば先祖供養ができるわけです。

盆などにたいへんな思いをして墓参りをしなくても、月は毎晩のように出るので、死者と生者との心の交流も活発になります。特に、満月のときはいつもより念入りに供養すればいいでしょう。それは満月の夜のロマンティックでノスタルジックな死者との交流です。

「隣人祭り」と「隣人祀り」

本講では無縁社会を乗り越えるための「隣人まつり」について取り上げていますが、「まつり」には2つの意味があります。「祭り」と「祀り」です。前者はイベントとしての祭礼、祭典ですが、後者は死者を偲ぶ供養のあり方です。

民族や国籍を超えて、あらゆる地球人類を月に祀ることは、まさに「隣人祀り」に他なりません。無縁社会の今後の方向は、無縁仏となる人々が増え、共同墓の存在がクローズアップされてきます。月面聖塔とは究極の共同墓に他なりません。

さらに、わたしは先の戦争で日本が多大な迷惑をかけた中国や韓国の人々と「隣国祭り」を開催することを提案したいと思います。

わたしは北陸大学の未来創造学部の客員教授として、「孔子研究」、つまり儒教の講義を担当しています。全部で300名近い教え子の中には、中国や韓国からの留学生もたくさんいるのです。彼らと接していると、日本人も中国人も韓国人もない、みんな孔子の思想を学ぶ者であり、わたしの可愛い教え子たちです。ぜひ、彼らを中心に、まずは金沢の地で「隣国祭り」を開催し、そのムーブメントを3つの国全体に拡げていければと願っています。もうおわかりのように、国と国とが仲良くする「隣国祭り」は平和の祭りに他なりません。世界的に見て、隣国ほど仲が悪く戦争を起こしやすいものですが、それだけに「隣国祭り」の重要性は測り知れません。考えてみれば、地球レベルでの「隣国祭り」こそ、万国博覧会やオリンピックやサッカーのワールドカップかもしれません。

国と国との「隣国祭り」だけでなく、人と人との「隣人祭り」も平和の祭りです。たとえ、人数が数人しかいなくとも、それは平和と親愛の集いなのです。

そして、あらゆる人類を平等に祀る「隣人祀り」としての月面聖塔が「世界平和」への大きな祈りであり、仕掛けであることは言うまでもありません。

靖国から月へ。わたしは、地球に住む全人類にとっての慰霊や鎮魂の問題をこれからも常にとらえ、かつ具体的に提案していきたいと思います。

単身急増社会とは何か

「無縁社会」とまで呼ばれるようになった日本社会について、わたしは毎日のように考えています。その現状を把握するうえで非常に参考になる本があります。

『単身急増社会の衝撃』(藤森克彦著、日本経済新聞出版社)という本で、「無縁社会を考えるためのデータブック」というべき内容です。著者の藤森氏は、みずほ情報総研の主席研究員で、社会保障政策・労働政策が専門だそうです。

『単身急増社会の衝撃』によれば、現在の結婚や世帯形成の傾向が続いた場合、2030年には、50代・60代男性の4人に 1人が一人暮らしとなるそうです。

これまでは夫と死別した一人暮らし(単身世帯)の高齢女性の増加が注目されていました。

しかし今後は、中高年男性でも一人暮らしの増加が顕著になっていきます。「一人暮らしは、中高年以降の男性の問題でもある」と、藤森氏は述べています。

なぜ、単身世帯は増加するのでしょうか。高齢者で単身世帯が増えたのは、長寿化による高齢者人口の増加と、結婚をした子供が老親と同居しなくなったことが大きな要因だそうです。

しかし、50代と60代男性で単身世帯が増加したのは他にも大きな要因があります。

すなわち、未婚者の増加です。50歳の時点で一度も結婚をしたことのない人の割合を「生涯未婚率」と呼びます。男性の生涯未婚率を見ると、1920年から85年までは1~3%台で推移していますが、90年には6%になり、05年には16%にまでなりました。かつての日本では、50歳の未婚男性というのはごく少数派でした。しかし、現在では50歳男性の6人に1人は未婚者となっています。さらに2030年になると、男性の生涯未婚率は29%、女性は23%になると予想されています。

90年代以降の結婚や世帯形成における大きな変化を生んだ背景とは何か。

藤森氏は、次のように述べています。

「単身世帯の増加の背景には、女性の経済力が向上したため結婚しなくても生活していける女性が増えたこともあげられる。さらに、社会的インフラが整備されてきたので、以前よりも一人暮らしから生じる不自由さは減少している。料理は苦手でも、コンビニエンス・ストアに行けば弁当がある。人と会わなくても、携帯電話で気軽に話ができる。1人の時間を楽しむためのゲームソフトも豊富だ。少なくとも健康で働いているうちは一人暮らしにたいした不自由はない」

しかし、快適な一人暮らしには、当然ながらデメリットもあります。

いざというときに支えてくれる同居家族がいないということは、たとえば病気や要介護状態に陥った場合などを考えた場合、非常にリスクが高いのです。失業したり、病気や怪我などで働けなくなった場合も、結婚していれば、一方の配偶者が働いてやりくりすることも可能ですが、一人暮らしではそれも不可能です。

さらには、他者との交流が乏しければ、社会的に孤立するというリスクがあります。そして、その先に待っているのは、死亡後気づかれずに長期間にわたって放置されること、すなわち「孤独死」です。2009年に内閣府が60歳以上の高齢者を対象に実施した調査によれば、単身世帯の65%が「孤独死を身近な問題」と感じているそうです。この数字は、夫婦2人世帯の44%、3世代世帯の30%に比べて高い割合にあるとか。

単身世帯を包みこむコミュニティとは何か

家族が多ければ多いほど、老後は安心というわけでしょうか。でも、これからは家族がいない単身世帯が急増することが確実なのです。また、日本の社会保障制度が国際的にみて安上がりの制度となっているのは、家族による助け合いを前提にしてきたためだそうです。

このままで日本の社会保障制度は大丈夫なのでしょうか。現在単身世帯でない人を含めて、わたしたちの暮らしを守るためには「公的なセーフティネットの拡充」と「地域コミュニティのつながりの強化」が必要だと言えるでしょう。

単身世帯が増加する中で、当然ながら助け合う社会というものが求められます。

藤森氏は、人間社会の助け合いには、大きく言って「自助」「共助」「公助」「互助」の4つの種類があるとしています。(ちなみに、わたしは「自助」「互助」「扶助」の3つに分類しています。)藤森氏によれば、4つの種類とは次のような内容です。

「自助」とは、自ら収入を得て、自らの力で貯蓄をしたり、私的年金に加入したりしながら、リスクに備えていくこと。家族内の助け合いも一般的に「自助」に含められます。

「共助」とは、年金保険、医療保険、介護保険など社会保険を代表とし、「社会連帯」の精神のもとで負担能力に応じて保険料を出し、必要に応じて給付を受けるものです。

「公助」とは、自助・共助・互助では対応できない困窮状況などに対して、所得や資産などの受給条件を定めた上で必要な生活保障を行なうこと。典型は、生活保護制度です。

そして「互助」とは、インフォーマルな相互扶助のことで、友人や近隣による助け合い、ボランティア、NPO(非営利法人)の活動などが含まれます。

単身世帯は同居家族による助け合いが期待できないため、この4つの助け合いを再構築していく必要があるというのです。この4つの助け合いの中でも、わたしがもっとも関心があるのは、当然ながら「互助」です。なぜなら、わたしは互助会の経営者であり、NPO法人の役員でもあるからです。

「互助」の問題は、「地域コミュニティとのつながり」という問題に直結しています。

退職した多くの単身者にとって、地域コミュニティこそが「社会とつながる場」になるからです。それと同時に、公的サービスでは付与されない支援を地域コミュニティから受けられる可能性があるからです。

では、地域コミュニティを強化するには、どうすべきか。

『単身急増社会の衝撃』には、次のような3つの具体的事例が紹介されています。

①自治体による地域交流の場づくり
②NPOが拠点となった地域コミュニティの助け合い
③高齢者の多い団地やマンションにおける取り組み
藤森氏は、このような活動を各地域において広げていくために、行政は、資金面、経営ノウハウの提供、人的ネットワークの構築支援などを行なう必要があると主張します。また、地域コミュニティの活動に単身者が参加することは難しいとして、次のように述べています。

「これまで日本の地域コミュニティは、町内会やPTAなどが中心になって発展してきた。これら団体の活動は引き続き重要であるが、PTA活動などは、子供を通じて近隣者が交流していくので、子供をもたない単身世帯は参加できないという問題がある。単身世帯を包み込むコミュニティの強化策を検討していくことが重要になろう」

わたしは、藤森氏のこの発言を読んで、単身世帯を包み込むコミュニティの強化策とは、「隣人祭り」に他ならないと思いました。これまで日本における「互助」の精神は、互助会や各種のNPOなどを生んできました。しかし、ここまで単身世帯が増加してしまった今、それらだけでは現在のコミュニティを維持し、今後のコミュニティを強化することはできません。隣人祭りこそは、21世紀型の新しい「互助」のイノベーションでないでしょうか。

ハマちゃんとスーさんの「無縁」

わたしは、社会とはもともと「有縁」であり、「無縁社会」などというものはありえないと思っています。当然ながら「無縁」という言葉には否定的です。しかし、世の中には「無縁」に肯定的な意味を見る人もいるようで、以下に、そういった人の考えを紹介したいと思います。

明治大学教授で法学者の土屋恵一郎氏の著書『正義論/自由論』(岩波書店)という本があります。サブタイトルは、「無縁社会日本の正義」となっています。

土屋氏は、無縁社会としての日本の源流を、中世の「連歌」の場所に求めます。

13世紀の日本には、花の下連歌というものがありました。そこでは、乞食のような姿で町を歩く僧、すなわち念仏聖たちが寺の枝垂れ櫻のもとに、貴賎を問わずに多くの人々を集めて、連歌の会を催しました。

日本文化において、桜は、怨霊や御霊がその下に眠るところでした。そして、桜の花びらの降る姿は、その怨霊の怒りと見られました。桜の樹とは、冥界と現世を結ぶところだったのです。土屋氏は、桜の下で開かれる連歌会について次のように書いています。

「この花の下連歌では、参加者は、それぞれの身分や名前を隠すことが、規則になっていた。高貴の身分の者や、名だたる歌人も、その身分を隠し、名前を隠して、つまり『無縁』の人として、『忍びて』連歌を聞き、ある場所には、自ら参加している」

興味深いことに、その忍び姿のなかには、当時の上皇の姿もあったそうです。連歌の場所では、念仏聖も上皇も、同じ無縁の人として連歌に参加したのです。当然ながら、無礼講でした。

近代の日本人にとって「無縁」世界への願望は限りなくあったそうで、土屋氏は次のように述べます。

「軍隊や会社組織は、もっとも徹底した『無縁』の世界である。『一味神水』して、集団を構成して、エネルギーを高める。家族もない、個人もない、ただ集団のなかで、まっしぐらに目的に向かうことになる」

「無縁」の裏側には、強烈な集団主義がいつでもひかえており、そこに「自由」や「平等」といった観念がなければ、「無縁」はそのまま「無個性」の仮面の集団になってしまいます。

「無縁」世界は社会のエネルギーを効率的に組織する基盤になります。土屋氏によれば、そこで必要なのは、会社的な無縁を超えてゆく、新しい共同体の登場です。「社縁」というものを相対化して、その外の世界に、「無縁」を構成していくことが必要であるというのです。

そして現実には、この外の「無縁」は日本社会の中ではすでに形成されており、その代表例として、なんと「釣りバカ日誌」をあげています。

ハマちゃんとスーさんの会社の中での身分関係は、会社の外での「釣り」の世界では通用せず、そこは無縁化した世界であるというのです。

土屋氏のいう「無縁」とは固定化された身分関係や人間関係の「しがらみ」から自由な存在を指しているのです。

寅さんの世界の「人間距離」

メディア社会批評家の佐野山寛太氏は、理想的な人間関係を映画「男はつらいよ」に見ようとします。

佐野山氏は、著書『追悼「広告」の時代』(洋泉社新書)において、これからの社会のキーワードは「家族」であり、「隣人」だと述べます。そこにはバーチャルな「マスコミ」ではなく、リアルな「皮膚コミ」があるからです。その最高のモデルが「男はつらいよ」だというのです。

佐野山氏は「寅さん社会の人間距離」という小見出しの文章で、次のように述べます。

「山田洋次監督が描いた、渥美清演じる『フーテンの寅』こと車寅次郎とその家族隣人たちが織りなす世界は、じつに『手触り』そして『気持ち触り』がいい。そこは、まさに『皮膚コミ』の世界なのだ」

また、次のようにも述べています。

「寅さんの世界で『人間距離』とは、そのまま「心間距離」を意味する。自分と家族と隣人の『心間距離』はきわめて近い。心同士が防御服をまとわず、裸のまま付き合っているようだ」

そこには、自他を区別しない「人間愛」があふれています。おいちゃんが「バカだねぇ、まったく」と言うときも、寅さんを本当にバカにしているのではなく、愛しているから嘆いているのです。

隣の印刷会社のタコ社長が挨拶もしないで勝手に入ってきても、だれも文句を言いません。具合の悪いときだけは、「出てってくれ」と追い払われますが、それが仲違いにつながることはありません。そこは、まさに以心伝心の世界なのです。

このように理想的な人間関係のモデルを、「釣りバカ日誌」の世界や、「男はつらいよ」の世界に求めるという見方もあるわけです。

そして、両者の見方に共通するのは、そこに「自由」というものを見ている点ではないでしょうか。いわば、「無縁」と「自由」をセットでとらえているのです。しかし、年間に3万2000人が無縁死するという現代日本の「無縁社会」のどこにも、自由など見つけることはできないように思います。そこにあるのは、「孤立」であり、「孤独」でしかありません。

細野善彦の「無縁」論

「無縁」と「自由」を結びつける見方は、戦後日本を代表する歴史学者であった網野善彦が『[増補]無縁・公界・楽』(平凡社ライブラリー)で展開した「無縁」論に通じるものです。

もともと「無縁」という言葉は、仏教用語です。網野善彦は次のように述べます。

「『無縁』の原理は、仏陀の教えとしてとらえられ、天台・真言宗から鎌倉仏教にいたる仏教思想の深化が見出される一方、そこには未開の色彩がなお色濃く残る、さまざまな『無縁』の世界が錯綜して展開していった」

乱暴に言ってしまうと、現在の「無縁社会」の到来と日本仏教の衰退とは明らかにつながっていると思います。面白いのは、キリスト教と「無縁」の関係です。網野善彦は述べます。

「西欧の場合、『無縁』の原理はキリスト教とその教会によって、それ自体、組織化されていった。それは、日本の仏教の諸宗派による教団組織に比して、はるかに徹底したものであり、恐らく、実際には広く存在していたとみられる第一段階の『無縁』の場、未開の特質をもった現象は、そのかげになりかくれているようにみえる。また一方、『無縁』の原理は、ユダヤ人やジプシーのような『異民族』集団にも体現させられていたようであり、日本のように、多様で、錯雑した形はとっていないのである」

さらに乱暴に言うならば、わたしは「無縁社会」を乗り越える発想が、仏教から出てくることは難しいと思っており、キリスト教と神道の思想的融合から生まれてくるのではないかと考えています。そして、両宗教にはキーワードがあります。キリスト教の「隣人愛」と神道の「祭り」です。そうです、この2つを合わせると、「隣人祭り」になるのです。

『[増補]無縁・公界・楽』における「無縁」論は、人類史的視野で非常にダイナミックに展開されていきます。「エンガチョ」という子どもたちの遊びからはじまって「無縁」の原理を求めた網野善彦は、次のように述べています。

「『無縁』の原理は、未開、文明を問わず、世界の諸民族のすべてに共通して存在し、作用し続けてきた、と私は考える。その意味で、これは人間の本質に深く関連しており、この原理そのものの現象形態、作用の仕方の変遷を辿ることによって、これまでいわれてきた『世界史の基本法則』とは、異なる次元で、人類史・世界史の基本法則をとらえることが可能となる」

網野善彦がいう「無縁」の原理は、きわめて多様な形態をとりつつ、人間の生活のあらゆる分野に細かく浸透しているといいます。子ども時代の遊びから、死者となって埋葬されるまで、人間の一生は、この原理とともにあるとさえ述べています。そのために、「人類の法則をここからとらえうる」というのです。

ユートピアとしての「無縁」

「自由」という理念はヨーロッパ産のものであり、日本人にとっての「自由」の意味合いは違います。もともと「自由」という言葉は、「無縁」と同じく仏教用語でした。それを福沢諭吉が「freedom」の訳語として採用したとされています。

では、日本にもともとあった「自由」とはなんだったのでしょうか。

今ではもっぱらネガティブな意味で使われる「無縁」という言葉は、一方でポジティブな意味合いを持っています。徴税や懲役といった義務からの縁を切るといったような意味です。また、「駆け込み寺」のように、公権力の及ばない場所に逃げ込め、縁を切ることができるという「救い」につながるものでもありました。すなわち、西欧などにもあった「アジ―ル」に通じるのです。

今でも「無縁坂」といった場所の名前が残っていますが、坂とか河原とか、境界のような場所が基本的に「無縁」性のある場所でした。それらは、神の宿る非日常的な場所でもあったのです。網野善彦は次のように述べます。

「実際、文学・芸能・美術・宗教等々、人の魂をゆるがす文化は、みな、この『無縁』の場に生まれ、『無縁』の人々によって担われているといってもよかろう。千年、否、数千年の長い年月をこえて、古代の美術・文学等々が、いまもわれわれの心に強く訴えるものをもっていることも、神話・民話・民謡等々がその民族の文化の生命力の源泉といわれることの意味も、『無縁』の問題を基底において考えると、素人なりにわかるような気がするのである。

「公界」とは、「無縁」という原理が生きる場所に他なりません。

さらには往生楽土や楽市楽座という言葉に残る「楽」とは、完全なる「自由」を実現する、きわめてユートピア的なコンセプトだったのです。

網野善彦によれば、日本における「無縁・公界・楽」とは西洋社会の「自由・平等・博愛」に匹敵する思想であったとさえ述べています。しかし、その一方で、戦国・織豊時代の「無縁」について触れた部分で、「餓死・野垂れ死と、自由な境涯とは背中合せの現実であった」と述べています。これは、現代の日本においても、そのまま当てはまることではないかと思います。

すべて、物事には両面があります。人間関係のしがらみから無縁で自由気ままに暮らしている人々には、当然ながら孤独というものも待っています。何よりも、自分が亡くなっても無縁仏となって、だれも葬儀に参列してくれない危険性があります。「自由」というプラス面だけを見るのではなく、「孤独」というマイナス面を見ることも大事でしょう。

わたしは、すべての人には葬儀の際に送られる権利があり、だれしも、この世に生を受けた限りは、「わたしのことを憶えておいてください」と願う人情を持っているのではないかと思います。