平成心学塾 隣人篇 有縁社会のつくり方 #001

開講にあたって

人間にとっての「幸福」の正体

 

わたしは、「となりびと」という言葉をよく使います。読んで字のごとく「隣人」のことです。

結婚式のお手伝いをする「むすびびと」と同じく、わたしの造語です。

いま、多くの人々が人間関係に悩んでいると言われますが、社会とは、つまるところ人間の集まりです。そこでは「人間」よりも「人間関係」が重要な問題になってきます。

そもそも「人間」という字が、人は1人では生きていけない存在であることを示しています。人と人の間にあるから「人間」なのです。だからこそ、人間関係の問題は一生つきまといます。

わたしたちは1人では生きていけません。だれかと一緒に暮らさなければなりません。では、だれとともに暮らすのか。まずは、家族であり、それから隣人ですね。考えてみれば、「家族」とは最大の「隣人」かもしれません。

現代人はさまざまなストレスで不安な心を抱えて生きています。ちょうど、空中に漂う凧のようなものです。そして、わたしは凧がもっとも安定して空に浮かぶためには縦糸と横糸が必要ではないかと思います。

縦糸とは時間軸で自分を支えてくれるもの、すなわち「先祖」です。この縦糸を「血縁」と呼びます。

また、横糸とは空間軸から支えてくれる「隣人」です。この横糸を「地縁」と呼ぶのです。

この縦横の2つの糸があれば、安定して宙に漂っていられる、すなわち心安らかに生きていられる。これこそ、人間にとっての「幸福」の正体ではないかと思います。

『人間失格』という小説があります。2010年に生誕100周年を迎えた太宰治が、その死の直前に最後の力をふりしぼって書いたものです。太宰自身の自叙伝的要素が強いとされるこの作品で、彼は次のように書いています。

「自分には人間の営みというものがいまだに何もわかっていない、という事になりそうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾(てんてん)し、呻吟(しんぎん)し、発狂しかけた事さえあります。自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だと人に言われて来ましたが、自分ではいつも地獄の思いで、かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。

自分には、禍(わざわ)いのかたまりが10個あって、その中の1個でも、隣人が脊負(せお)ったら、その1個だけでも充分に隣人の生命取(いのちと)りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。

つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです」

ここには、1人の人間の、人間としての「不安」が見事に描かれています。隣人とつながりを持てないという不安が。そして、太宰は続けて次のように書いています。

「自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです」

そして、「そこで考え出したのは、道化でした」と書いています。すべてを茶化して笑い事ですませ、他人に対して道化を演じることは「自分の、人間に対する最後の求愛でした」と、太宰は記しています。

ここには、人間としての「不幸」がはっきりと示されています。彼は、隣人と楽しく会話がしたかった。隣人とつながりたかったのに、それができなかった。そのために、おどけた道化のふりをするしかなかった。

おそらく、そんな自分自身の姿を重ね合わせて、太宰は『人間失格』という強烈なタイトルをつけたのではないでしょうか。

しかし、彼がある意味で自虐的に命名した「人間失格」者たちが現代の日本では珍しくなくなってきました。隣人と会話ができないばかりか、隣人が孤独死していても気づかないような人が多くなってきました。そして、「無縁社会」とまで呼ばれるようになりました。このままでは、日本は人間失格者だらけの国になってしまいます。

日本人が、いつも不安で不幸な人間失格者にならないために、本講は書かれました。

人間失格から人間合格へ。その最大の鍵は、隣人と会話ができるかどうか、つまり隣人と良好なコミュニケーションが実現できるかどうかにかかっているのではないでしょうか。

時代のキーワード「無縁化」
「人間関係」や「無縁社会」といった問題は、昨今の「葬式」をめぐる議論とも密接に関わっています。2010年9月5日付「日本経済新聞」朝刊の「SUNDAY NIKKEI」では、「今を読み解く」という特集で、国学院大学教授の新谷尚紀氏が「葬儀をめぐる議論、活発に」という文章を寄稿されており、そこに島田裕巳著『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)と拙著『葬式は必要!』(双葉新書)の2冊が写真つきで紹介されていました。

民俗学者である新谷氏は、時代のキーワードに「無縁化」をあげ、次のように述べています。

「これらの葬儀をめぐる議論の歴史的な遠因は、1950年代半ばから70年代半ばにかけての高度経済成長にある。技術革新や経済の変化はおよそ20年の時差をもって社会の変化や意識の変化となって現れる。90年頃のキーワードの1つは『個人化』であったが、あれから20年のいま、キーワードは『無縁化』である」

「無縁化」がキーワードであることに異論はありませんが、技術革新や経済の変化が社会の変化や意識の変化となる時差については、わたしは違う意見を持っています。

その時差について、偉大な社会生態学者でもあった経営学者のピーター・ドラッカーは、約「50年」、つまり半世紀としています。新谷氏の「20年」説より30年長いわけです。

ドラッカーによれば、西洋の歴史では、数百年に一度、際立った転換が行なわれるといいます。そして社会は、数十年かけて、次の新しい時代のために身を整えます。世界観を変え、価値観を変えます。社会構造を変え、政治構造を変えます。技術や芸術を変え、機関を変えます。やがて50年後には、新しい世界が生まれるというのです。

たとえば、1455年のグーテンベルクによる植字印刷や印刷本の発明の約半世紀後にはルターによる宗教改革が起こりました。

また、1766年にアメリカが独立し、ジェームズ・ワットが蒸気機関を完成し、アダム・スミスが『国富論』を書いた半世紀後には何が起こったか。そう、産業革命が起こり、資本主義と共産主義が現れたのです。

さらには、世界初のコンピューターであるENIACが完成したのは1946年ですが、その50年後、インターネットが世界中に普及しました。

このように、大いなる変革の約50年後に社会が変化するというのが「ドラッカーの法則」です。ドラッカーは「西洋の歴史」に限定していますが、わたしは「日本の歴史」にも適用できるのではないかと考えています。このドラッカーの法則によれば、「いまから50年前には何が起こったか」を知ることが大切になります。現代日本社会の「無縁化」は、明らかに大きな社会的変化と言えます。

冠婚葬祭互助会の誕生1150年前、何があったのか?
2010年は多くの意味で、日本の「無縁社会」元年だったのかもしれません。

1月にはNHKスペシャル「無縁社会~〝無縁死〟3万2000人の衝撃」が放映され、大反響を呼びました。また同月に、島田裕巳著『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)が刊行されてベストセラーとなっています。

夏には、大阪のマンションで幼い2人の幼児が置き去り死するという事件があり、さらには東京で100歳以上で健在のはずの高齢者が白骨遺体で発見されるという衝撃的な事件を幕開けに、全国で「消えた高齢者」が問題になりました。そして、2010年末からは朝日新聞で「孤族の国」という連載がスタートしました。

まさに、「無縁社会」としての正体を現しはじめたかのような現代日本。こんな日本になった50年前には、何があったのでしょうか? 「無縁社会」の秘密とは? そのことを、9月5日に日経を読んで以来、ずっと考えていました。

ふと、会社の社長室の机の上を見ると、たくさんの封書が置いてあります。それらの封書は、わが社と同業である全国の冠婚葬祭互助会の各社から届いたものでした。開封して中を見ると、「50周年のごあいさつ」という内容の文面でした。全国の有力互助会が昨年から今年、さらには来年にかけて50周年を続々と迎えているのです。ちなみに、わが社は来年で45周年です。

「そうか、あの互助会さんも今年で50周年になるのか」とつぶやいた直後、わたしは脳の中に落雷のような感覚をおぼえ、思わず、「わかった!」と叫びました。

なんと、今から50年前には、日本各地に冠婚葬祭互助会が誕生していたのです!

冠婚葬祭互助会とは、その名のとおりに「相互扶助」をコンセプトとした会員制組織です。

終戦直後の1948年に横須賀市で生まれ、全国に広まっていきました。そのルーツは、実はきわめて日本的文化に根ざした「結」や「講」にさかのぼります。

「結」は、奈良時代からみられる共同労働の時代的形態で、特に農村に多くみられ、地域によっては今日でもその形態を保っているところがあります。

一方、「講」は、「無尽講」や「頼母子講」のように経済的「講」集団を構成し、それらの人々が相寄って少しずつ「金子」や「穀物」を出し合い、これを講中の困窮者に融通し合うことをその源流としています。

このような「結」と「講」の2つの特徴を合体させ、近代の事業として確立させたものこそ、冠婚葬祭互助会というシステムなのです。

日本的伝統と風習文化を継承し、「結」と「講」の相互扶助システムが人生の二大セレモニーである結婚式と葬儀に導入され、互助会は飛躍的に発展してきました。

わたしは、いま、冠婚葬祭互助会の全国団体である社団法人・全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)の理事であり、広報・渉外委員長です。また同じく互助会の業界団体である全国冠婚葬祭互助会連盟(全互連)の副会長も務めています。わたしは、「無縁社会」が叫ばれ、生涯未婚に孤独死や無縁死が問題となる中、冠婚葬祭互助会の持つ社会的使命はますます大きくなると思っていました。しかし、「無縁社会」の到来には、冠婚葬祭互助会そのものが影響を与えている可能性があるのかもしれないのです。

なんとも皮肉で衝撃的な発見でした。もちろん、「日本人の血縁や地縁をメチャクチャにしてやれ!」と企んで互助会が誕生したわけではありません。互助会は、そのような悪の陰謀団体ではありません。敗戦で今日食べる米にも困るような生活難の中で、わが子の結婚式や老親の葬儀を安い価格で出すことができるという「安心」を提供するといった高い志が互助会にはありました。

しかし、おそらく互助会は便利すぎたのでしょう。昔は、結婚式にしろ葬儀にしろ親族や町内の人々にとってたいへんな仕事でした。みんなで協力し合わなければ、とても冠婚葬祭というものは手に負えなかったのです。それが安い掛け金で互助会に入ってさえいれば、後は何もしなくても大丈夫という時代になりました。そのことが結果として血縁や地縁の希薄化を招いてきたという可能性は否定できません。

セレモニーホールの登場――仏教者から葬儀の主導権を奪った?
また、現代日本人のほとんどは葬儀をセレモニーホール、つまり葬祭会館で行ないます。

この葬祭会館には小規模なものから大規模なものまであります。

しかし、いわゆる「総合葬祭会館」と呼ばれるような大型施設は、1978年にオープンしたわが社の「小倉紫雲閣」が最初だとされているようです。その後、全国でももっとも高齢化が進行した北九州市をはじめ、各地に猛烈な勢いでセレモニーホールが建設され、今ではその数は全国で6000を超えています。

このセレモニーホールの登場が、また日本人の葬儀およびコミュニティに重大な変化を与えたと多くの宗教学の研究者が見ているようです。宗教学者の中沢新一氏なども、そういった見方をする1人です。

2008年に映画「おくりびと」が公開されたとき、コピーライターの糸井重里氏による「ほぼ日刊イトイ新聞」において、「死を想う」という座談会が連載されました。中沢新一、本木雅弘、糸井重里の三氏による興味深い座談会でした。そこで、中沢氏は以下のような注目すべき発言をしているのです。

「だいたい、日本のお葬式というのは20年くらい前から、変わりはじめたんですよ」

「まずはね、葬儀屋さん業界がみずから、ドラスティックな変革をはじめたんです」

「というのも、日本人は長いあいだ、人の死にまつわる『けがれ』というものをお坊さんに任せっきりにしてきた。お坊さんに『丸投げ』にして、思考停止しちゃってたんです」

「むかしのお坊さんは、自分たちが『おくりびと』であるという意識をつよく持っていたんですよね。その『けがれ』を引き受けるという役目をしっかりつとめてきたんですけど、時代がくだるにつれて、それも、じょじょに風化してきてしまった」

この中沢発言は重要な指摘ですし、おそらくは正しいのでしょう。

冠婚葬祭互助会が図らずも日本人の血縁や地縁を希薄化させ、セレモニーホールが仏教者から「こちら側」へ葬儀の主導権を奪ってしまった可能性があるのかもしれません。

もし、そうだとしたら、わたしたち互助会には大きな責任があります。ましてや、わが社の佐久間会長は(社)全互協の初代会長であり、互助会事業を法制化して業界発展の基礎を築いています。さらには、セレモニーホール建設のはしりもわが社でした。

わたしたちには、「無縁社会」を「有縁社会」に変える、いや戻すという責任があることに気づきました。わが社が地域住民の絆をつくる「隣人祭り」の開催をサポートしていていますが、その意味がやっとわかりました。さまざまな「縁」にあふれた日本社会を再生させる使命と責任とがあるのです。

互助会と隣人祭り
わたしは、冠婚葬祭互助会の存在は社会的に大きな意義があると思っています。

たしかに冠婚葬祭互助会が「血縁や地縁の希薄化」を招いてきたという可能性は否定できないとしても、戦後に冠婚葬祭互助会が成立したのは、人々がそれを求めたという時代的・社会的背景があったはずです。そうでなければ互助会はビジネスとして成立しえなかったからです。

もし冠婚葬祭互助会が成立していなければ、今よりもさらにいっそう「血縁や地縁の希薄化」は深刻だったのかもしれません。つまり、敗戦から高度経済成長にかけての価値観の混乱や、都市への人口移動、共同体の衰退等の中で、何とか人々を共同体として結び付けつつ、それを近代的事業として確立する必要から、冠婚葬祭互助会は誕生したのです。

ある意味で、互助会は日本社会の無縁化を必死で食い止めてきたのかもしれません。しかし、それが半世紀以上を経て一種の制度疲労を迎えた可能性があると思います。

互助会が日本に誕生するきっかけとなった「相互扶助」の理念が忘れがちになっていき、豪華な結婚式場やセレモニーホールをたくさん建設することが目的になった観があるのです。つまり、互助会のソフトの部分が弱まり、ハードの部分だけが強化されていったともいえます。

制度疲労を迎えたのなら、ここで新しい制度を再創造しなければなりません。すなわち、今までのような冠婚葬祭の提供だけにとどまらず、互助会は「隣人祭り」によってイノベーションを図る必要があるのではないでしょうか。

東京で開催された(社)全互協の総会において、わたしは「隣人祭り」についての講演を行ないました。そこで全国の互助会経営者の前で、互助会が「隣人祭り」を行なうことの意味をお話したところ、ありがたいことに多くの方々からの賛同を得ることができました。

また、ドラッカーの法則による互助会の誕生と無縁社会の到来の関係に気づいたわたしは、そのことを社員たちに話しました。すると、みんな最初は驚きながらも、わが社の使命と責任について大いに納得し、「隣人祭り」にかける新たな意気込みを見せてくれました。

もう迷いはありません。自分たちのしなければならないこと、するべきことが明確になりました。あとは、実行あるのみです。わたしは、「隣人祭り」によって、無縁社会を有縁社会にしたいと強く願っています。現在、わが社は「隣人祭り」を含む隣人交流イベントを年間で500回以上開催サポートしています。おそらく日本でもっとも多く隣人交流イベントの開催サポートをしているのは、わが社であると確信しています。

「隣人の時代」がはじまる
2010年はNHK「無縁社会」キャンペーンが大きな話題となりました。番組は菊池寛賞を受賞し、「無縁社会」という言葉は同年の流行語大賞にも選ばれました。同年末には、朝日新聞紙上で「孤族の国」という大型企画がスタートしました。「家族」という形がドロドロに溶けてしまいバラバラに孤立した「孤族」だけが存在する国という意味だそうです。

「孤族の国」の内容はNHK「無縁社会」とほぼ同じです。NHKへの対抗心から朝日が連載をスタートさせたことは明白ですが、「無縁」とほぼ同義語の「孤族」という言葉を持ってくるところが何とも情けないと思いました。なぜならば、「無縁社会」キャンペーンに対抗するならば、「有縁社会」キャンペーンしかありえないからです。

そもそも「無縁社会」という言葉は日本語としておかしいのです。なぜなら、「社会」とは「関係性のある人々のネットワーク」という意味です。ひいては、「縁ある衆生の集まり」という意味なのです。「社会」というのは、最初から「有縁」なのです。ですから、「無縁」と「社会」はある意味で反意語ともなり、「無縁社会」というのは表現矛盾なのです。

「孤族」も同様で、日本語としておかしいと言えます。これは、産経新聞の論説委員である福島敏雄氏が指摘していましたが、「孤」と「族」は反対の概念なのです。貴族や暴走族、さらには家族などのように、「族」には群れやグループという意味があります。一方、「孤」とは孤独や孤立を表します。「孤」が群れをなすということはありえません。なぜなら、群れをなした時点で「孤」ではなくなってしまうからです。「孤族」も「無縁社会」と同じく表現矛盾だと言えるでしょう。

中高生たちが受験勉強のために読むことの多い「天声人語」をはじめとして、日本語教育に大きな影響力を持つとされる朝日新聞紙上にこんな変な日本語が登場したことに、わたしはショックを受けています。

ところで、NHKの一連の番組作りを見ていると、どうも、そこには「絶望」しかないように思えます。どう考えても、「希望」らしきものが見当たらないのです。「無縁社会」キャンペーンと謳っていますが、どうも、「無縁社会」を既成事実として固定し、さらにはその事実を強化させているように思えてなりません。そもそも現実を変えていくのがキャンペーンの意味であって、現実を追随し問題を固定化させ、強化することはキャンペーンとは呼べません。

日本には「言霊(ことだま)」という考え方があります。言葉には魂が宿るという考え方です。たしかに、言葉は現実を説明すると同時に、新たな現実をつくりだします。「無縁社会」だの「孤族の国」だのといったネガティブなキーワードを流行させることは現実に悪しき影響を与える(これを日本では「呪い」といいます)可能性が高いと思います。

いたずらに「無縁社会」の不安を煽るだけでは、2012年に人類が滅亡するという「マヤの予言」と何ら変わりません。それよりも、わたしたちは「有縁社会」づくりの具体的な方法について考え、かつ実践しなければなりません。

NHKや朝日新聞社も、「無縁社会」だ「孤族」だと、世の人々を言葉で怖がらせるだけではなく、「有縁社会」づくりや「家族」の再生に取り組んでいる実際の活動をもっと積極的に取材し、報道すべきではないでしょうか。

わたしたちは、「有縁社会」づくりや「家族」の再生に実際に取り組んでいます。ぜひ、NHKも朝日新聞も、わが社が各地で手がけている隣人交流イベント、あるいは沖縄でお手伝いしている先祖供養などを取材していただきたいと思います。会社の宣伝のためなどではありません。もちろん、わたしの売名行為でもありません。もし、そのように考えている人がいるとしたら、人を見損なわないでほしいものです。社名もわたしの名前も、一切出していただかなくて結構です。ぜひ、わたしたちが「血縁」と「地縁」の再生のために実践している活動だけを見ていただきたいと思います。それは、必ずや日本における「有縁社会」づくりを考える上で参考になるものと信じます。

本講には、「隣人祭り」をはじめ、隣人との人間関係を良くするヒントがたくさん詰まっています。「となりびと」と仲良く暮らし、幸せに生きるためのページ、それが本講です。

これから始まるのは「無縁社会」でも「孤族の時代」でもありません。これから始まるのは「有縁社会」であり、「隣人の時代」なのです。