平成心学塾 隣人篇 有縁社会のつくり方 #005

「となりびと」と仲良くなる方法

大きな礼と、小さな礼

人間と人間とのつきあいにおいて、もっとも大切なものは「礼」です。

わたしは、何よりも「礼」というものを重んじています。

そして、礼には大きく分けて2つの意味があります。

人の道としての礼と、作法としての礼です。モラルとしての礼と、マナーとしての礼と言ってもよいでしょう。そして前者を私は「大礼」と呼び、後者を「小礼」と呼んでいます。

「経営の神様」といわれた松下幸之助は、「礼」を最重要視していました。松下思想の集大成である『人間を考える』(PHP文庫)という本において、人間は万物の王者であるという考え方が示されています。

そして、礼は人間のみが行なう。動物には礼がない。そこに人間と動物の相違がある。このような考え方が示されています。これは言い換えれば、礼を知らないものは人間ではないということを意味します。人間らしい生活をしていくためには、お互いに礼を欠かさないようにすることが不可欠なのです。

松下幸之助はさらに言います。礼とは、素直な心になって感謝と敬愛を表する態度である。商いや経営もまた人間の営みである以上、人間としての正しさに沿って行なわれるべきであることを忘れてはならない、と。

礼は人の道であるとともに、商い、経営もまた礼の道に即していなければならないのです。礼の道に即して発展してこそ、真の発展と言うことができます。70年間で実に7兆円の世界企業を築き上げ、ある意味で戦後最大の、というよりも近代日本で最大の経営者といえる松下幸之助がもっとも重んじていたものが人の道としての「礼」と知り、わたしは非常に感動しました。

わが社のサンレーという社名には、礼の精神を讃える「讃礼」という意味があります。わが社のミッションは「人間尊重」ですが、「人間尊重は礼から」と主張したのは、東洋思想の第一人者・安岡正篤でした。歴代の宰相、財界の指導者たちが競って師事した日本の先哲ですが、礼について、それは「吾によって汝を礼す。汝によって吾を礼す」からであると語っています。

これはお互いがお辞儀をする説明として、もっとも簡にして要を得た言葉です。自分というものを通じて相手を、人を礼する、その人を通じて自分を礼する、お互いに相礼する、人間たる敬意を表し合うのです。

「法華経」の中に「常不軽菩薩」というのがあります。この菩薩は常に人に会えば、必ず相手を礼拝しました。見ず知らずの人にも必ず礼拝をした。これほどの人間尊重はありません。現代の思想家や哲学者などはしきりに「人間尊重」などと言っていますが、あれは「権利尊重」以外の何ものでもなく、人間を1つも尊重しておらんと安岡正篤は喝破しました。

本当の人間尊重は礼をすることです。お互いに礼をする、すべてはそこから始まるのでなければなりません。お互いに狎れ、お互いに侮り、お互いに軽んじて、何が人間尊重でしょうか。そこで、人間尊重の精神を実際に「かたち」として表わすためにお辞儀や挨拶などの「小礼」、すなわちマナーとしての礼儀作法が必要となってきます。改めて述べるほどのことでもありませんが、礼儀作法は教育と同様に、身につけるものです。そして、いったん身に備わってしまうと、世の中の状況がどう変化しようと、俗にいう「身ひとつで逃げ出す」事態になったとしても、その人が生きている限り、生涯にわたって伴侶となってくれます。

絶対に消えず、もっとも普遍性のある「知識」

現代は高度情報社会ということで、ありとあらゆる情報や知識の洪水の中で私たちは暮らしていますが、そのほとんどは普遍性のない、時とともに消えてゆくものだと言えます。

では、普遍性のある情報、知識とはいったい何か。それも社会生活に役立つものとなると、結局は礼儀作法、行儀作法の類ということになるのではないでしょうか。礼儀作法なるものを知っているのと、知らないのとでは精神衛生上においても大いに違うのです。

いま、わたしたちが一口に礼儀作法と呼んでいるものの多くは、武家礼法であった小笠原流礼法に大きく影響されています。よく言われる、日本人独特の淑やかさや謙虚さを含めての「礼儀正しい日本人」なる国際的評価の大半は、明治時代以降、変貌をとげつつも、一般家庭に普及した小笠原流礼法と、表千家流を主体とした茶道や、禅宗からの作法が、国民の遺伝子レベル的な部分にまで入り込んだ結果ではないかと推察されます。

武家礼法を世に広めた小笠原家は、中世の村町時代以前から続く名家で、かつては信濃国の守護大名でした。室町末期頃になって、幾筋かの家系に分かれ、本家は明治維新まで豊前小倉15万石の藩主でした。礼儀作法の研究で特に熱心だったのは京都にあった小笠原家だそうですが、この家系は明治になって断絶しました。

今日、残っている正統な礼法は、小倉藩主の子孫で宗家を名乗られた32世・小笠原忠統氏の遺志を継ぐものです。ちなみに、わが社の佐久間進会長は日本の儀礼文化の継承を目的に、社団法人・日本儀礼文化協会を1979年に設立し、小笠原忠統氏を総裁にお迎えしました。佐久間会長は、その後、「実践礼道小笠原流」を立ち上げ、儀礼文化の普及に努めてきました。

余談ながら、わたしも小笠原忠統先生より小笠原流礼法の免許皆伝を許されました。わたしが26歳のときのことでした。

武家社会の礼法には他に伊勢流もあり、伊勢流は室外での所作、小笠原流は室内での所作が得意とされました。両流派とも、江戸時代には徳川将軍家の礼法指南役として存在しました。ですから、本来は将軍家の御留流(門外不出の流儀)でした。それが広く民間に拡がったのは、次のような理由によります。ある時代、家来筋に伝わっていたものが、更にその弟子へ伝わり、次第に拡がっていったのです。中でも、江戸中期頃、小笠原流礼法を身につけた御家人や浪人たちが、江戸市中で『小笠原流礼法指南』の看板を掲げ、生活のため、広く門人をとって教えたからです。

道徳+芸術=礼儀作法

現在では、書店の棚に並んでいるマナーブックや礼儀作法書のほとんどは、底本的な意味で小笠原流がベースとなっています。要するに、日本礼法の基本は小笠原流にあるのです。特に、冠婚葬祭の儀式礼法のほとんどすべては小笠原流に基づいていると言ってよいでしょう。

なぜ、これほど広範囲に小笠原流が普及したのかといえば、まずは礼儀作法というものを多方面から集大成したのがこの流派だったからです。次に、競合する諸流派が廃れてしまい、ライバルがいなくなったからです。それとは別に、もうひとつ、明治時代の教育体系にも理由があります。明治政府が学校教育制度の充実を図った折、従来とかく軽視されがちだった女子教育にも力を注ぎました。女性の地位向上に一歩近づいたわけですが、それでも「男女七歳にして席を同じうせず」の思想が残っており、男女共学など思いも寄りませんでした。

当時、女性はすべからく、結婚して良妻賢母になることが理想とされたのです。

となると、望ましい女性像に礼儀正しさが求められます。ほとんどの女学校の授業科目に「行儀作法」や「礼儀作法」のカリキュラムが独立して設けられました。そして、その多くはわざわざ、「小笠原流による」と断っていました。おそらく、流派名を容れることで、それだけ権威が感じられ、信頼性も高まったのでしょう。以来、礼儀作法イコール小笠原流であるかのごとく流布し、昭和の時代まで続きました。

戦前までは婦女の躾といえば、小笠原流でした。躾というと何か堅苦しい印象がありますが、躾という字は「身」と「美」に分かれます。つまり、躾とは人間の身体を美しく見せるための営みなのです。さらに礼儀作法とは、道徳プラス芸術であると言ってもよいでしょう。そして、それは非常に理にかなった合理的なものでもあるのです。

かつての日本女性の生活も理にかなっていました。日本の婦人は躾のとおり、作法のとおりに生活するならば、たとえば食事をするにも、来客に応接するにも、それが同時に運動になっているのです。茶を持って客間に入るとき、まず坐って全身運動で襖を開けなければならない。そうして立ち上がって、入ってまた坐って、襖を閉める。また立って、それからまた坐って、お茶を出す。あるいは配膳をする。挨拶1つするにしても、手を出して握手のような局部運動をすればよいというわけにはいきません。両手をついて全身運動であるお辞儀をしなければならない。それで作法どおりいったんお客に接しますと、これは相当の運動になるのです。

負の状況下における礼儀作法の効用

それから日本人の坐法というものが非常に衛生的なもの、躾どおりに坐るならば、これはそれだけで立派な健康法です。昔から「ただ坐れ」只管打坐、まあ坐れという言葉がありますが、非常に意味のあることなのです。

帯というようなものも、通俗観念とは違います。専門家に言わせると、婦人に大切な腹部の温かさを保って、鳩尾のところから折れかがまないように、姿勢を崩さぬようにできているものなのです。だからなるべく正しく帯をしめて生活していれば、実は婦人として、そう特別な運動は必要ない。そういうことをいい加減に放置すると、どうしても現代の女性みたいに外に出て、フィットネスクラブなどに行かなくてはならなくなるのです。

裁縫をするのと坐禅をするのと一緒にする。運動と掃除を1つにする、というふうに、日本の古来の起居動作は統一的であり、裁縫は裁縫、応接は応接、運動は運動というふうに分ける西洋人とは大いに違っているのです。安岡正篤によれば、飲食、住居、立居振舞い、いずれを見ても東洋は統一的・含蓄的であり、西洋は非常に文化活動的であるといいます。このように、日本の礼儀作法は合理的であり、だから見た目にも美しいのです。

また、礼儀作法とはなかなか便利なもので、たとえば仲の悪い者同士や、気まずい間柄の者でも、几帳面に礼儀作法を守って応対さえすれば、それだけでかなり救いになり、両者間が必要以上に険悪化するのを防げます。

組織の中などで、仕事面での実績が乏しく、それゆえに評価が下がり気味な人であっても、礼儀作法を心得て実行すれば、それだけでもプラス評価となり、一定の線から落ちることを、少しでも喰い止めるのに役立ちます。

逆に、仕事もできず、マナーもなってないとなれば、結果は考えるまでもありません。こうした負の条件下における礼儀作法の効用もさることながら、王道とでもいうべき、マナーの最大の効果というものがあります。それは、相手に好印象を与えるという点です。特に初対面の相手には礼儀を守ることの効能は著しいと言えるでしょう。互いが好印象を受ければ、即、それがスムーズな人間関係にもつながっていくからです。

つまりマナーや礼儀作法とは、人間社会における究極の円滑剤であり、対人関係での摩擦を防ぐ極上の潤滑油なのです。これは金銭で買えない人間界最高の知恵というべきものでしょう。

最強の護身術

「思いやりの心」「うやまいの心」「つつしみの心」という3つの心を大切にする小笠原流は、日本の礼法の基本です。特に、冠婚葬祭に関わる礼法のほとんどすべては小笠原流に基づいています。

そもそも礼法とは何でしょうか。

原始時代、わたしたちの先祖は人と人との対人関係を良好なものにすることが自分を守る生き方であることに気づきました。

自分を守るために、弓や刀剣などの武器を携帯していたのですが、突然、見知らぬ人に会ったとき、相手が自分に敵意がないとわかれば、武器を持たないときは右手を高く上げたり、武器を捨てて両手をさし上げたりしてこちらも敵意のないことを示しました。

相手が自分よりも強ければ、地にひれ伏して服従の意思を表明し、また、仲間だとわかったら、走りよって抱き合ったりしたのです。このような行為が礼儀作法、すなわち礼法の起源でした。身ぶり、手ぶりから始まった礼儀作法は社会や国家が構築されてゆくにつれて変化し、発展して、今日の礼法として確立されてきたのです。

ですから、礼法とはある意味で護身術なのです。剣道、柔道、空手、合気道などなど、護身術にはさまざまなものがあります。しかし、もともと相手の敵意を誘わず、当然ながら戦いにならず、逆に好印象さえ与えてしまう礼法の方がずっと上ではないでしょうか。まさしく、礼法こそは最強の護身術なのです。

さらに、わたしは、礼法というものの正体とは魔法に他ならないと思います。フランスの作家サン=テグジュペリが書いた『星の王子さま』は人類の「こころの世界遺産」ともいえる名作ですが、その中には「本当に大切なものは、目には見えない」という有名な言葉が出てきます。

本当に大切なものとは、人間の「こころ」に他なりません。その目には見えない「こころ」を目に見える「かたち」にしてくれるものこそが、立ち居振る舞いであり、挨拶であり、お辞儀であり、笑顔などではないでしょうか。

わたしが愛用する魔法「江戸しぐさ」

わたしは『人間関係を良くする17の魔法』(致知出版社)という本を書きましたが、世の中には魔法というものが確かにあります。

魔法使いの少年を主人公にした『ハリー・ポッター』シリーズが世界的なベストセラーになりましたが、「魔法」とは正確にいうと「魔術」のことです。西洋の神秘学などによれば、魔術は人間の意識、つまり心のエネルギーを活用して、現実の世界に変化を及ぼすものとされています。ならば、相手のことを思いやる「こころ」のエネルギーを「かたち」にして、現実の人間関係に変化を及ぼす礼法とは魔法そのものなのです。

そして、「小笠原流礼法」と並び、わたしが愛用している魔法に「江戸しぐさ」があります。

ここ数年、江戸しぐさは各方面から注目を集め、有名になりました。注目東京の地下鉄の各駅にポスターが貼りめぐらされ、小中学校の道徳教育にも取り入れられているそうです。ついには、東京ディズニーリゾートのサービス・マニュアルにまで採用されました。いまやホスピタリティにおけるグローバルスタンダードといえるかもしれません。

江戸しぐさとは、いったい何か。それは、江戸の商人を中心とした町人たちの間で花開いた「思いやり」の形です。出会う人すべてを「仏の化身」と考えていた江戸の人々は、失礼のないしぐさを身につけていました。譲り合いの心を大切にし、自分は一歩引いて相手を立てる。威張りもしなければ、こびることもしない。あくまでも対等な人間同士として、ごく自然に実践していたものが江戸しぐさなのです。

しぐさとは、ふつうは「仕草」と書きますが、江戸しぐさの場合は「思草」と書きます。「思」は、思いやり。「草」は草花ではなく、行為、行動を意味します。つまり、その人の思いやりがそのまま行ないになったものなのです。

「実践礼道小笠原流」を立ち上げた父は、以前から江戸しぐさに注目していました。そのため、この道の第一人者である越川禮子氏を会社にお招きして、教えていただいたこともあります。

もともと、わが社では小笠原流礼法を会社ぐるみで学んでいました。小笠原流は武家の礼法ですが、江戸しぐさは商家の作法。武士と商人の違いはありますが、ともに「思いやりのかたち」としては同じです。

「世間様」というコミュニティ

さて、具体的な江戸しぐさには、どんなものがあるでしょうか。いくつか紹介しましょう。まずは、江戸しぐさの代名詞ともなっている「往来しぐさ」の中から。江戸は人口100万人の大都市であり、みんなが譲り合って仲良く暮らすことを心がけていました。その中で生まれたのが道を歩くときや渡し舟に乗るときなどの礼儀である往来しぐさでした。

たとえば、「肩引き」。路地が多かった江戸では、狭い道で他人とすれ違うときには、互いに右に肩を引き合いました。互いの胸と胸が向き合い、体を斜めにすることで、ぶつからずに通り過ぎることができたわけです。

「傘かしげ」も有名な往来しぐさです。これは、雨や雪の日に道ですれ違うとき、お互いに傘を外に向けること。雫(しずく)がかからないようにとの配慮です。

「こぶし腰浮かせ」も有名です。乗合舟で後から乗ってきた客のために、先客たちが、こぶし分、腰を浮かせて詰め合せました。後の客は、そうした配慮に対して「かたじけない」とか「有り難うございます」と礼を述べてから座った。現代では、電車などの公共交通機関で求められるマナーです。若い者がシルバーシートに座って、お年寄りが乗ってくると寝たふりをするようでは、世も末ですね。

また、「うかつあやまり」というのもあります。たとえばJR車内で、若者が中年の男性の足を踏んだとします。中年が「こら、痛いだろうが!」と怒鳴れば、若者も「電車が揺れたんだから、仕方ないじゃないか!」とやり返す。これでは必ず喧嘩になってしまいますね。

では、足を踏まれたとき、どうするか。踏んだ方があやまるのは当然ですが、踏まれた方も「わたしも、うかつでした」と謝るのが江戸しぐさです。こうすれば、絶対に角が立たず、トラブルになりようがありません。そう、江戸しぐさとは粋な大人の作法なのです。

そして、わたしが一番好きなのが「いなかっぺい」という言葉です。これは地方出身者という意味ではなく、相手の肩書きや貧富を聞いて急に態度を変える俗物的な人間をさします。井の中の蛙(井中っぺい)とされて、もっとも軽蔑されました。江戸の町人たちは差別を嫌いました。もともと士農工商で社会の最下層に位置された商人たちは、せめて自分たちの世界の中では差別を生みたくないと考えたのかもしれません。

江戸しぐさが身についていない者は井中っぺいとされ、ポッと出と見られてスリに狙われたりしたそうです。越川氏によれば、江戸の共生とは、ただ肩を寄せ合って生きるということだけではないそうです。それは、自立した人々が互角に向き合い、互角に話し、互角につき合って生きてゆくだというのです。

そして、江戸では実際に共生している人々のコミュニティが判断基準になっていました。具体的にいうと、世間に「様」をつけ、「世間様」という言葉を使っていたのです。江戸に生きる者にとって、世間様がもっとも大事で、世間様に迷惑をかけないように気を配りながら暮らしていました。

そんな生活の中で、江戸しぐさはますます育まれ、洗練されていきました。もっとも嫌われたものは、自分さえ良ければ他人はどうなっても構わないという自己中心な心でした。だれでも大勢の人に世話になりながら生きているのだから、感謝しこそすれ、自分勝手なわがまましぐさは許されません。そんな者がいたら、「ふとどき者」とか「恥っさらし」と呼ばれて嫌われたのです。

江戸っ子のよい癖

越川氏によれば、「江戸しぐさとは、マナーではない」そうです。そして、「江戸しぐさは、江戸っ子のよい癖です」とおっしゃっています。癖というのは、いちいち考えなくても体が先に動いてしまうということで、陽明学の「知行合一(ちこうごういつ)」にも通じる世界だと思います。

そんな江戸しぐさの根底には互助共生の精神があると、越川氏はいいます。人にして気持ちいい、してもらって気持ちいい、はたの目に気持ちいいもの、それが江戸しぐさなのです。

そして、忘れてはならないのが「講」の存在です。江戸町方では一種の相互扶助会の「講」というものができあがっていました。これが江戸しぐさを実際に機能させていく土台となってきたのです。

江戸の講は原則として、月に2回開かれました。そこでは、江戸を良い都にするためのさまざまな重要な問題を話合い、メンバーを「講中」といいました。リーダー的存在は「講師」です。「講座」も「講義」も「講堂」も「講習会」もすべてこの講から生まれた言葉です。

講とは、つまるところ世の中のことでした。そして、世の中を表現する言葉としては「世間」という漢字がよく使われました。寺子屋でも、「世間」と書くように教えたそうです。さらには、「人間」と書いて「じんかん」と読みました。「人間関係」そのものの意味が込められていたのです。

この講こそは、わが社の本業である冠婚葬祭互助会のルーツなのです。わが社のミッションは「良い人間関係づくりのお手伝いをする」ですが、まさに江戸しぐさの精神とまったく同じなのです。

儒学の精神を寺子屋で学んだ江戸の町衆には、志学(15歳)、弱冠(20歳)、而立(30歳)、不惑(40歳)、知命(50歳)、耳順(60歳)のしぐさがそれぞれありました。

彼らは、年相応のしぐさを互いに見取り合って、文化的、人道的に暮らしていました。たとえば歩き方にしても、志学の年代は駆けるようにす早く歩き、弱冠の年代は早足、而立の年代は左右を見ながら注意深く歩いたそうです。

18歳くらいの志学の若い者がぐずぐず歩いていると、20代の弱冠の年代の者がたしなめ、不惑の年代の者が若いつもりで駆けたりすると、腰を痛めるとされました。

耳順、つまり60歳の還暦の年代の「江戸しぐさ」は、「畳の上で死にたいと思ってはならぬ」「おのれは気息奄々(きそくえんえん)、息絶え絶えのありさまでも、他人を勇気づけよ」「若衆を笑わせるように心がけよ」でした。

60歳を越えたら、他人のためにはつらつと生き、慈(いつく)しみとユーモアの精神を忘れないよう心がけたそうです。これを「耳順しぐさ」といいますが、その心得は、何よりも若者を立てることでもありました。

そして、そのぶん若者たちは隠居をはじめとした年長者たちを日頃から尊敬し、大いなる江戸の「敬老文化」が築かれていきました。

こうした「年代しぐさ」のバックボーンには、越川氏のいわれるように「共生」の土壌がありました。若者には、自分より体力的にハンディキャップのある年長者をつねに思いやる「くせ」が身についていたのです。

お互いに相手を思いやり、江戸では年長者も若者もみんな元気に楽しく暮らしていました。わたしたちも、ぜひ江戸しぐさに学びたいものです。

大切な、世辞の心得

「人間関係を良くする魔法」である江戸しぐさは、挨拶を非常に重視しました。

およそ、人間関係を考えるうえで挨拶ほど大切なものはないでしょう。「人間尊重」の基本となるものであり、「こんにちは」や「はじめまして」の挨拶によって、初対面の相手も心の窓を開きます。

すべては挨拶からはじまるのであり、会社の1日も「おはようございます」のひと言からスタートします。そして、お客様をお迎えしたら「いらっしゃいませ」と大きな声で挨拶することは言うまでもありません。

沖縄では「めんそーれ」という古くからの挨拶言葉が今でも使われています。この「めんそーれ」という挨拶は「かなみ」と言われるそうです。これは挨拶が人間関係の要(かなめ)であることを意味します。挨拶が上手な人を「かなみぞうじ」といい、「かなみかきゆん」は「挨拶を欠かさない」「義理を欠かさない」という意味だそうです。まさしく挨拶は人間関係の要です。

そして、「おはようございます」に「おはよう」で返してはいけません。簡単に「おはよう」と言えば「おはよう」と返されても仕方ありません。これは江戸しぐさの精神でもありますが、山のこだまと同じで自分の心構え、言葉づかい次第で相手もそのように応じるから注意が肝心という戒めですね。

今度、会社の部下や後輩が「おはようございます」と言ったら、上司や先輩も「おはようございます」と言ってみてください。会社において上に立つ人も、下に立つ人も、人間としては平等であるということを決して忘れてはなりません。

「繁盛しぐさ」の別名もある江戸しぐさは、特に挨拶を重視しました。特に「こんにちは」は「今日は御機嫌いかが」の省略語として江戸の商人は愛用しました。そして、「こんにちは」の後に挨拶言葉が言えるかどうかが、人付き合いを大切にする商人たちにとって大事でした。子どもたちは寺子屋で世辞の心得を学んで、身につけたといいます。

世辞とは、「へつらい」や「おべんちゃら」を言うことではありません。人間関係を円滑にする社交辞令の第一歩であり、いわば大人の言葉のことです。「こんにちは」と言ってから、「今日はいいお天気ですね」と続け、「その後、お母上のお体の具合はいかがですか」などと、相手を思いやる言葉をかけるのです。

言葉のパワーの使い方

このような思いやりある世辞は「愛語」という仏教の言葉にも通じます。

曹洞宗の開祖である道元禅師の『正法眼蔵』に出てくる言葉ですが、他人に対してまず慈愛の心を起こし、愛のある言葉を施すことです。

たとえば、新聞配達や宅配便の人に「暑いところを、ご苦労さま」とか、外食した際には「ごちそうさま。おいしかったです」と、感謝の言葉をかける。挨拶するときの「お元気ですか」とか「お大事に」なども愛語です。

道元によれば、愛語を使うことは愛情の訓練につながるそうです。そして、「愛語よく廻天す」と、言葉ひとつで相手に元気になる力を与えているのだといいます。言葉づかいそのものにも、その人間の徳が表れるのです。

言葉には不思議な力が宿ります。それを日本では「言霊(ことだま)」といいました。「うまくいきません」「できません」といった言葉を使ってはなりません。なぜなら、言葉は私たちの心を積極的なものに築いていくうえでもっとも大切な道具だからです。つまり、人生を積極的に生きていこうと思ったら、否定的・消極的な言葉は使わず、できるだけ肯定的・積極的な言葉を使うべきなのです。

異色の哲学者である中村天風は「言葉は人生を左右する力がある。この自覚こそ、人生を勝利に導く最良の武器である」と述べています。彼は、「寒いなあ、いやになる」というようなときにも、暑さ寒さを口にするのは構わないが、その後の消極的な言葉を余計としました。そして、「寒いなあ、元気が出るよ」と言って、言葉の持つパワーを使いこなそうとしたのです。

わが社では、サービス業にたずさわる者として、いつも社員に言葉の持つ偉大な力について話しています。そして

「はい」という素直な言葉
「すみません」という反省の言葉
「おかげさまです」という謙虚な言葉
「させていただきます」という奉仕の言葉
「ありがとうございます」という感謝の言葉を大いに使うことを心がけています。

あなたの隣人とは誰か?

みんなが江戸しぐさを身につければ、どれだけ人間関係が良くなり、社会が明るくなることか計り知れません。わたしは、江戸しぐさとは「隣人愛」の実践に他ならないと思います。

では、「隣人愛」とは何でしょうか。

一般に、「隣人愛」とはキリスト教の教えであるとされています。もともとは『新約聖書』の「ルカによる福音書」に出てくる言葉で、次のように記されています。

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。

「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。

「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。

イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨2枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」

律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」

そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

(『新約聖書』「ルカによる福音書」10章25~37節より)

隣人愛の実践者――社会運動家・賀川豊彦

「隣人愛」の実践としてのイエス・キリストに対し、日本にも偉大な「隣人愛」の実践者がいました。賀川豊彦という人です。大正から昭和にかけて活躍したキリスト教の牧師ですが、社会運動家であり、かつ作家でもありました。

彼の代表作である『死線を越えて』は、倉田百三の『出家とその弟子』、島田清次郎の『地上』と並んで、大正時代の三大ベストセラーとされています。

中でも、1920年に出版された『死線を越えて』は、上中下の3巻仕立てになっていましたが、上巻だけでも200版を重ね、3巻合計でじつに400万部が売れたそうです。まさに、大正期最大のベストセラーです。

各時代における最大のベストセラーといえば、江戸時代が滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』、明治時代が福沢諭吉の『学問のすゝめ』、そして大正時代が賀川豊彦の『死線を越えて』というのですから、そのすごさが理解できます。

賀川豊彦は、生涯にわたって社会的弱者の側に立ち、神戸のスラム街に住みつつ伝道と救貧活動を展開しました。「友愛、互助、平和」を国内外で説きながら、国内では生活協同組合運動や農業協同組合運動をはじめ、さまざまな社会改革運動の先駆者として活躍した人です。

世界最大の生協である「コープこうべ」や「JA共済」の創始者であるといえば、少しはその偉大さがおわかりでしょうか。しかし、著者の素晴らしさはそれだけではありません。

なんと、ノーベル文学賞候補(1947・48年)に2回、さらにはノーベル平和賞候補(1954~56年)に3回も、それぞれなっているのです。

また、シュヴァイツアーやガンディーと並ぶ「20世紀の三大聖人」とも呼ばれたこともあります。日本よりも海外での知名度が圧倒的に高く、特に戦前のアメリカでは「ヒロヒトとトヨヒコ」、つまり昭和天皇とともに「二大日本人」として並び称せられたとか。

忘れられた巨人

政治学者の小林正弥氏は著書『友愛革命は可能か』(平凡社新書)において、「友愛」という思想を「上流の友愛」と「民衆の友愛」に分類しています。

戦後の日本で「友愛」を唱えた政治家に鳩山一郎がいます。彼に影響を与えたクーデンホーフ=カレルギーは伯爵であり、鳩山家は日本有数の名家ですので、彼らの唱える「友愛」には貴族的なイメージがつきまといます。

そのため、小林氏は鳩山一族が唱えてきた「友愛」を「上流の友愛」と呼びます。

そして、もう1つ、下層の人々の救済を含む「友愛」を「民衆的友愛」と呼び、その代表的思想家として賀川豊彦の名をあげます。

賀川豊彦は世界的名声がきわめて高いにもかかわらず、これまで日本ではほとんど忘れられた存在であり、主著である本講『死線を越えて』でさえ、2009年になってPHP研究所から復刻されるまではまったく読めない状況でした。

しかし、この賀川の思想が最近になって見直されてきています。彼の「友愛」を基本にした経済思想が、リーマン・ショック以降の経済に対する大きなヒントとなり、さらには貧困社会を乗り越える具体案を多く秘めているというのです。

最近、小林多喜二の『蟹工船』の復刻がブームとなりましたが、『蟹工船』が発表される9年前に『死線を越えて』はすでに世に出ていました。当時の社会状況と今日の日本の姿は、明らかに重なっていると思います。

2009年は、賀川が神戸のスラム街に移住してから100年を迎え、「献身100年」の記念事業が東京や神戸、幼少時代を過ごした徳島などで行なわれました。

わたしが深い関心を抱いたのは、賀川が「相愛扶助」とか「友愛互助」といった言葉を使っていたことです。わたしたちの目指す理念と、賀川が唱えた「友愛」に大きな接点を見いだしたのでした。

『死線を越えて』は、そんな「忘れられた巨人」である賀川豊彦の前半生を投影した自伝的な小説です。正直言って、本講の前半は読みにくくて苦労しますが、ドラマが展開する後半は一気に読めました。

後半の冒頭には、本のタイトルにもなった「死線」を越える体験が描かれています。賀川自身がモデルである主人公の新見栄一は、父との葛藤や恋愛に悩み、生きる意味を見失ってしまいます。

そして、ヒステリーのように泣きながら「世界は火葬場だ」と叫び、自殺を考えるようになるのです。女性も本も彼を慰めることはできず、彼は自己の無能と無気力と無理想に愛想をつかします。

こんな煩悶の中に丸1ヶ月半を送るのですが、実在の驚異が彼をとらえます。その後、さらに栄一は「神人合一」と呼ぶべき神秘体験をします。キリスト教の世界における「回心」とも呼べる体験でした。

赤ん坊たちの葬式――もらい子殺し

死線を越えた栄一は、貧しき人々を救うため、神戸のスラム街に移住します。当時、主に九州・沖縄から移住した2000世帯以上がここに暮らしていました。

んと二畳一間に平均6人の家族が住むという劣悪な環境の貧民窟でした。ここで主人公はキリストの愛を伝える伝道生活に入るわけですが、そんな彼を「いいカモが来た」とばかりにスラムの住人がドスやピストルで脅し、栄一の財布を巻き上げようとします。

しかし、栄一をもっとも悩ませたのは、貧民窟で赤ん坊がどんどん死んでいくことでした。いわゆる「もらい子殺し」です。

「もらい子殺し」とは、望まれずに生まれてきた赤ん坊を引き取る際に貰う10円ばかりの金が目的で行なわれていたものです。

貰う方は最初から育てる気などなく、貰われた赤ん坊は次に5円、さらには2円で別の人間に引き取られるのでした。

わずかな金欲しさに、貧しい人々が次々に赤ん坊を貰ってきました。しかし、金などすぐになくなります。そうなったら、赤ん坊にミルクを飲ませることもできません。結局は、病気や栄養失調で赤ん坊を死なせてしまうのです。この「もらい子殺し」はスラムでは珍しいことではありませんでした。そして、「もらい子殺し」をした家では、決まって一文の葬式代もなかったのです。

キリストの愛を信仰する宗教者である栄一は、無料で亡くなった子どもたちの葬式をあげてやります。貧民窟には、葬式のできない者の亡骸をタバコの木箱やミカン箱に詰めて、春日野の火葬場に運ぶという職業の人々がいました。

ある日の夕刻、栄一は赤ん坊の遺体がミカン箱に詰められて運び出されるのを目撃します。著者は次のように書いています。

「これを見た、栄一は全く憂鬱になった。そして急に貧民窟とその恐ろしい罪悪がいやになった。彼は絶望的に悲鳴をあげて神を呪いたいと思った。神は愛ではない、暗黒と、絶望と、死と、貧乏の創造主だと罵りたかった。」

しかし、そんな彼に次から次に葬式の依頼が来ます。中には、「もらい子殺し」を何度も繰り返す家さえある始末だったのです。栄一は黙々と、哀れな赤ん坊たちの葬式を出してやり、「アーメン」と祈りを捧げます。

栄一のモデルである賀川は、スラムに住みついた最初の1年間で14回の葬式を執り行ないましたが、その半分は餓死させられた幼児の弔いだったといいます。

栄一が最初に出した葬式は正月でした。その翌年も、元日に1件、2日に2件、5日に1件の葬式の世話をします。賀川は次のように書いています。

「正月にお葬式を出す毎に新見は一休和尚を思いだした。『元日や冥途の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし』栄一はその小さい悲しい貧民の死にただ何ともいえぬ苦痛を感じた。しかしこの多くの死を飛び越えて、延びて行かねばならぬと思うと、生命が如何に不思議なものであるかを考えざるを得なかった。」

そして、現世で不幸だった者たちが天国で幸福に暮らせるように、栄一は心からの祈りを捧げるのでした。

マザー・テレサの「死を待つ人々の家」

葬式を通じて真の宗教家になっていく主人公の姿を見て、わたしは、ある人物のことを連想しました。「インドの聖女」と呼ばれたマザー・テレサです。

「私があなた方を愛したように、あなた方も、相愛しなさい」

マザーの一生は、このイエスの言葉に要約されていると言っていいでしょう。イエスが行なった隣人愛の実践を20世紀後半に実行した人であり、宗教、民族、年齢、性別、社会的地位等に一切関わりなく、必要とする人々に愛の手を差し伸べた人でした。

ある日のこと、マザーは、歩道で死にかけている女性を見つけました。彼女の苦しみを和らげ、ベッドで心静かに人間らしく死なせてやりたいと思って、女性を連れて帰りました。この愛の行為をきっかけとして、マザーは、1952年8月に「清い心の家」にルマン・ヒリダイとも呼ばれる「死を待つ人の家」を開設することになりました。

「死を待つ人の家」では、数え切れないほど多くの人の死を看取りました。マザーは、ヒンドゥー教の人やイスラム教の人が亡くなるときは、その宗教のお経を唱えて送ってあげました。

それでいて、マザーの活動の源泉は、ゆるぎないカトリックの神への信仰でした。その根源にあるものは、人間の生命は限りなく尊いというイエスの教えであり、それこそ、一神教や多神教といった枠組みを超えて今後のすべての宗教のあるべき姿ではないでしょうか。それを失うと、宗教とは心の狭い原理主義に陥り、最後は戦争にまでつながります。

マザー亡き後も、インドのカルカッタでは彼女の後継者たちが「死を待つ人の家」を守っています。死にゆく人々の口に最期に含ませるチョコレートや死者の顔にかける白布さえ不足しているそうです。「人間尊重」というミッションにかけて、わが社は「死を待つ人の家」に対してさまざまなサポートをさせていただきたいと思い立ち、ささやかな寄附などもさせていただきました。

マザー・テレサと同じく、賀川豊彦も、きっと葬式をあげることが「人間尊重」そのものだということを知っていたのだと思います。

大やけどを負った少女の最期

『死線を越えて』の最後には、マッチ会社に勤めていて大やけどを負った少女の話が出てきます。「酒井とめ」という名のわずか11歳の少女でした。彼女の父親は賭場で監獄に入っており、彼女は一家の生計を助けるために働いていたのでした。

彼女は、燐を塗った箱を乾燥室から運び出すとき、なにぶん子どもですから、つい落としてしまいます。そのため、足から股からほとんど身体半分が焼けてしまうのですが、会社は膏薬代も出さないばかりか、自分の過失で火傷したのだから、会社としては一文も出さないと言い張るのです。

だいたいそんな危険な仕事に11歳の子どもを使うこと自体が間違っているわけですが、かわいそうな少女は医者にもかかることができませんでした。

ここで義憤にかられた主人公はマッチ会社にストライキをかけることに尽力するのです。

賀川豊彦が労働運動家であったことは事実で、彼は多くのストライキを仕掛けてきたとされています。

わたしは会社の経営に携わる者であり、ストライキという行為を手放しで認めることは難しいのですが、この場合は違います。

義を見てせざるは勇なきなり! 非道なマッチ会社のストは正しかったと思います。その結果、酒井とめにも会社から3円の見舞金が送られてきたのです。しかし、それにもかかわらず、彼女は息を引き取るのでした。

ストライキを指導した栄一は、神戸署の司法部主任からストの扇動者として告発されます。栄一はそれに対して何も答えず、「とにかく一大家族を持っているから、ひとまず家に帰らせてくれ。酒井とめの葬式をも済ませてそれから監房に入るから」と主任警部に伝えて帰ります。賀川は、次のように書いています。

「帰り途に花万によって棺と人夫とを註文して、直ぐ酒井の宅に行った。おとめさんは、もう白い顔の窪んだ眼を閉じていたが、可哀想に思うたのは、蒲団がないので、死体の側に赤ん坊を寝させていることであった。

栄一はお葬式を取り急いだ。そうしなければいつ警察から巡査が連れに来るかわからぬと思ったからであった。棺が来たので栄一は自分の1枚しかない浴衣を持って来ておとめさんに着せて繃帯のまま死体を棺に納めた」

おとめを納棺したのは、ちょうど正午でした。そのとき、刑事がやって来ます。著者は次のように書いています。

「その日は寒の中の2月ではあったが、太陽が眩ゆい程照りつけて、貧民窟の路地が隅々まで乾いた心持ちの善い日であった。それで栄一は呼出状を受け取って、その正午の太陽を見て黙祷した」

それから、栄一はそこにいた人々に事情を説明して、「今出しかけた酒井のお葬式も春日野の火葬場まで送ってください」と依頼してから刑事と2人で出ました。

見送る人々は泣いていました。

太陽はよく光る!

思えば、いくら貧しくとも、貧民窟の人々も「葬式は、要らない」などとはだれ1人思っていませんでした。貧民窟のだれかが亡くなったら、みんなで葬式に出て、みんなで送ってあげたのです。

本講は全篇にわたって明るい内容ではありませんが、栄一が大学を退学して実家に帰ってきたときの太陽の描写が明るくて、印象に残りました。次のようなくだりです。

「太陽は実によく光る!」

と、表座敷の縁側に仰向きに寝て、太陽を見て栄一が云うた。

もう、午後1時半。昨夜の雨は、庭に僅かな湿り気を残して、何処かに隠れた。今日は朝から「よく光る」太陽が出て、春は一度に甦った。

栄一はあまり、まばゆいから左の拳に小さい穴を造らえて、それから太陽を見ている。綺麗なラデエーションが出来る。

「綺麗なラデエーション! まるで虹だ!」と栄一は自分一人囁いて、色々と考えた。

「太陽の光線は美しい。これが九千三百万哩やって来たのか!この光線が空気の外では全くの紫色だというが……どんな美しい世界だろう。神秘だね、光は――」と考えて、また色々想像を廻らした。(『復刻版 死線を越えて』PHP研究所)

わたしは、これほど世界そのものを「陽にとらえた」文章を他に知りません。

死線を越えた後の著者の人生は、まさに太陽を追い、美と神秘を求めた生涯でした。

賀川豊彦の多彩な活動の根本には、「イエスのように生きたい」という強い想いがありました。イエスは、彼が生きた時代の社会で蔑ろにされていた人々の間で、言葉と行為をもって神の愛の福音を伝えました。賀川豊彦が16歳で洗礼を受けたとき、キリスト教社会主義者であったトルストイ、安部磯雄、木下尚江などの著作を読み、イエスの教えを実践することを考えるようになりました。

そもそもイエスという人自身が貧しい人々や寄る辺なき人々の友となり、隣人愛を唱え、それを自ら実践した人でした。このイエスの足跡に従いたいという想いが賀川豊彦を突き動かしたのです。

賀川豊彦にとって、信仰と隣人愛の実践は、車の両輪であり、どちらが欠けてもなりませんでした。このように「隣人愛」が賀川豊彦の思想を読み解くキーワードであり、その人生には「貧困社会」「格差社会」「無縁社会」を乗り越えるヒントがあるように思えてなりません。

IT革命の本当の主役――ドラッカーの予言

現代は高度情報社会です。

経営学者のピーター・ドラッカーは、早くから社会の「情報化」を唱え、後のIT革命を予言していました。ITとは、インフォメーション・テクノロジーの略です。ITで重要なのは、もちろんI(情報)であって、T(技術)ではありません。

その情報にしても、技術、つまりコンピューターから出てくるものは、過去のものにすぎません。ドラッカーは、IT革命の本当の主役はまだ現れていないと言いました。本当の主役、本当の情報とは何でしょうか。

日本語で「情報」とは、「情」を「報(しら)」せるということです。「情」は今では「なさけ」と読むのが一般的ですが、『万葉集』などでは「こころ」と読まれています。わが国の古代人たちは、「こころ」という平仮名に「心」ではなく「情」という漢字を当てたのです。

ですから、求愛の歌、死者を悼む歌などで、自らの「こころ」を報せたもの、それが『万葉集』だったのです。

すなわち、情報の「情」とは、心の働きに他なりません。本来の意味の情報とは、心の働きを相手に報せることなのです。では、心の働きとは何か。それは、「思いやり」「感謝」「感動」「癒し」といったものです。

わたしは、次なる社会とは「心の社会」であると考えています。それは、ポスト情報社会などではなく、新しい、かつ真の情報社会だと言えます。そして、情報の「情」、心の働きをもっとも代表するものこそ、「思いやり」ではないでしょうか。

「思いやり」こそは、人間として生きるうえで一番大切なものだと多くの人々が語っています。たとえばダライ・ラマ一4世は「消えることのない幸せと喜びは、すべて思いやりから生まれます」と述べ、マザー・テレサは「私にとって、神と思いやりはひとつであり、同じものです。思いやりは分け与えるよろこびです」と語りました。

仏教の「慈悲」、儒教の「仁」、キリスト教の「愛」をはじめ、すべての人類を幸福にするための思想における最大公約数とは、おそらく「思いやり」という一語に集約されるはずです。

では、「思いやり」はどのように形となるのでしょうか。わたしは、まず「祝い」というものが「思いやり」の形だと思います。

わたしは、「祝う」という営み、特に他人の慶事を祝うということが人類にとって非常に重要なものであると考えています。なぜなら、祝いの心とは、他人の「喜び」に共感することだからです。それは、他人の「苦しみ」に対して共感するボランティアと対極に位置するものですが、実は両者とも他人の心に共感するという点では同じです。

「他人の不幸は蜜の味」などと言われます。たしかに、そういった暗い部分が人間の心に潜んでいることは否定できませんが、だからといって居直ってそれを露骨に表現しはじめたら、社会も成立しなくなります。他人を祝う心とは、最高にポジティブな心の働きであると言えるでしょう。

別に何か特別な出来事がなくとも、お祝いはできます。だれにでも訪れる誕生日が最たる例でしょう。誕生日を祝うということは、その人の存在すべてを全面的に肯定すること。当社の大ミッションである「人間尊重」そのものです。今年から、わたしは社員のみなさん全員バースデーカードを書き、プレゼントをつけてお贈りしています。

まずはじめに感謝してしまえ

思いやりの形が「おめでとう」なら、「ありがとう」は感謝の形です。「おめでとう」がサーブなら、「ありがとう」はレシーブと言えるでしょう。思いやりの心とともに人間にとってもっとも大切なものこそ感謝の心です。

1日が平穏無事に終わったときに、万物に感謝の念を捧げることができる人は、すべての面で謙虚です。また、感謝することによって、相手に「自分は重要な人間である」と感じさせることができます。

「ありがとうという気持ちを持ち続けていれば、不平、不満、怒り、怖れ、悲しみなんか自然に消えてなくなる」とは、中村天風の言葉です。私たちは、感謝すべき出来事があって、その後に感謝するのが普通です。しかし天風は「とにかく、まずはじめに感謝してしまえ」と教えるのです。いま、ここに「生きている」というだけでも、大きな感謝の対象になるというのです。

感謝こそは、人間が幸せになるためのカギです。

思いやりの心、感謝の心、この2つの心を世に広めることこそ、冠婚葬祭業であるわたしたちの大きな使命です。結婚式も葬儀も、思いやりと感謝のセレモニーです。その他、初宮祝い、七五三、成人式などなど、わたしたちの仕事はすべてが「おめでとう」と「ありがとう」につながっています。

特に、わたしは超高齢化社会を迎えた現在、長寿祝いに注目しています。人は長寿祝いで自らの「老い」を祝われるとき、祝ってくれる人々への感謝の心とともに、いずれ生物として自分は必ず死ぬという運命を受け入れる覚悟を持ちます。祝宴のなごやかな空気のなかで、高齢者にそういった覚悟を自然に与える力が、長寿祝いにはあるのです。

そういった意味で、長寿祝いとは生前葬でもあります。この長寿祝いという、「老い」から「死」へ向かう人間を大いに励ます心ゆたかな文化を、ぜひ世の中に広めたいと願っています。

人々が「おめでとう」と「ありがとう」の声をかけ合い、お互いが心ゆたかになれる。そんな社会こそハートフル・ソサエティであり、それを実現するのがハートフル・カンパニーなのです。

わたしは、高齢者が幸せに暮らすことのできる社会づくりのお手伝いがしたい、孤独死を少しでもなくしたいと願い、「隣人祭り」の開催もサポートさせていただいているわけです。

「夢の団地」の孤独な死

日本人が孤独死について真剣に考えるようになったのは、あるテレビ番組がきっかけであると言われています。NHKスペシャル「ひとり団地の一室で」(2005年9月24日放映)です。

この番組では、千葉県松戸市にある常盤平団地を取り上げました。全国のニュータウンに先駆けて今から50年年前に建設され、1960(昭和35)年4月に入居が開始された団地です。団地の中には保育所や幼稚園、小中学校、郵便局、商店街まで備えられていました。まさに1つの新しい町、つまり「ニュータウン」が忽然と誕生したのです。そして、常盤平団地は「東洋一の団地」と呼ばれ、入居希望者が殺到。抽選倍率は、なんと20倍を超えたそうです。

若い夫婦と子どもたちであふれていた夢の団地は、半世紀近くの時間を経て、「孤独死」を招きいれてしまいます。それは、2000年秋に起きました。72歳の一人暮らしの男性の家賃の支払いが滞ったために何度も公団から催促状が発送されたにもかかわらず、何の連絡もありませんでした。異常を感じた管理人は警察に連絡し、警察官がドアを開けます。そこにあったのは、キッチンの流しの前の板間に横たわる白骨死体でした。

番組を書籍化した『ひとり誰にも看取られず』(NHKスペシャル取材班&佐々木とく子著、阪急コミュニケーションズ)には、次のように書かれています。

「検視の結果、男性は死後およそ3年、死亡当時69歳であったことが判明した。事件性はないと判断されたものの、すでに死因を特定できる状態ではなかった。訪ねてくるような親族や友人知人も、近所付き合いもなく、家賃が口座からの引き落としであったために、預金が底をつくまで誰もその死に気づかなかったのだ」

かつての「東洋一の団地」に衝撃が走りました。住民たちは、「自分たちの団地から、孤独死が出るなんて!」「隣人とのつながりとは、そんなに希薄なものだったのか」「恥ずかしい、人に知られたくない」という気持ちをそれぞれ抱いたそうです。

だれもが大きなショックを受けました。みんな、孤独死とは団地などではなく、特別な状況下で起こるものであると思い込んでいたからです。しかし、さらに独居老人の多くなった常盤平団地で、孤独死が続きます。

その大きな原因について、同書では「もともと住んでいた住民の高齢化に加えて、家賃の相対的な低下と単身入居枠の増加によって、住民の世帯構造が変わっていったことにある」と分析しています。

「孤独死ゼロ」を合言葉に

そこで立ち上がったのが、中沢卓実氏を会長とする常盤平団地自治会のメンバーでした。

「孤独死ゼロ」を合言葉に、彼らは崩壊したコミュニティを復活させるという目標を立てます。そして、団地自治会を中心に、常盤平団地地区社会福祉協議会、民生委員が一緒になって、孤独死問題に対処するためのネットワークやシステムを作りました。

中沢氏は「死をお坊さんの領域と考えるのではなく、自分たちのこととして真正面から取り組んでいかなければならない」と考え、緊急通報体制を整えるとともに、自治会報である「ときわだいら」2002年10月号に「孤独死を考える」と題した特集記事を掲載しました。

そして、孤独死をなくすための具体的な方策としては、団地入居者の自宅電話番号を公開し、通報を受けられる体制作りなどをめざしました。また、「孤独死ゼロ作戦」の本部となる「まつど孤独死予防センター」を設立。

さらに、独居老人は他人にカギを預ける必要も出てきます。それに加えて、かかりつけの医師や緊急連絡先などを記した「あんしん登録カード」が生まれました。

団地社協と都市再生機構が共同で制作したものですが、この「あんしん登録カード」は団地の全戸に配布されました。事件や事故、災害、孤独死などの緊急事態に際して、すみやかに関係者に連絡を取れるようにすることが目的です。

厚生労働省では、07年から「孤立死防止推進事業」を開始しました。なぜ、「孤独死」ではなく「孤立死」という名称にしたかというと、一人暮らしでなくても高齢者夫婦のみの世帯や、要介護の高齢者(親)と中年の独身男性(子)の世帯など、社会的に孤立した人々をも対象に含めるからだそうです。

これに対して、中沢氏は「孤独死という名称で社会問題として認知・定着しているのに、なぜ今さら孤立死と言い換えるのか」と疑義を呈しています。

常々、法律的観点のみから言葉というものを考える役人的言語感覚に戸惑っているわたしとしては、中沢氏の意見に賛成です。

死に方は生き方

常盤平団地自治会長の中沢卓実氏には、孤独死に関する著書があります。『孤独死ゼロ作戦』(本の泉社)という本です。中沢氏は次のように述べています。

「私どもは、人間にとって何より大切なことである、『命の尊さ』を知りました。なんといいましても『死は生のカガミ』であり、『どう死ぬか』は、究極的に『どう生きるか』という『生き方』に関わると考えます。また、死は選べないが、『生き方』については選ぶことができることも改めて知りました」

中沢氏らが推進する「孤独死ゼロ作戦」について、その具体的な方策の数々が詳しく書かれています。その中に、「いきいきサロン」の開設があります。これは、07年4月にオープンした、高齢者の集いの場です。

このサロンの目的は、だれでも気軽にお茶を飲める場を設けることです。サロンに来て、近所の人たちと気軽にしゃべることによって、仲間を作ってもらうのです。サロンの入室料は1人100円で、コーヒーや紅茶などが飲み放題です。一人暮らしの人が、弁当持参で昼食を食べに来てもいいのです。

これまで家の中でテレビばかり観ていた人も、サロンが開設されると、よく訪れるようになったといいます。

なぜなら、テレビは話相手になってくれませんし、あいさつしても無反応です。でも、サロンでだれかに声をかければ返事が返ってきますし、いろんな話もできます。

最初は、しょんぼりしておっかなびっくりサロンに来ていた人も、そのうち話相手を見つけます。すると、その人の表情が変わってくるそうです。

当たり前の再発見

2010年7月7日、わたしは松戸市の常盤平団地を訪問し、自治会長の中沢氏にお会いしました。

早速、中沢氏にサロンに案内され、コーヒーを御馳走になりました。スタバやタリーズみたいなシアトル系のコーヒーみたいに味が濃くて、美味しかったです。スタッフの方々も明るい方ばかりで、とてもホスピタリティに溢れていました。

サロンもとても清潔で綺麗な場所でした。ベージュのソファーに洒落た絵画に観葉植物……まるでホテルのロビーのようです。

中沢氏は、「団地の部屋はせまいので、なかなか人を自宅に招くわけにはいかない。だから、こういったサロンが大切なんです」と言われていました。わたしは、いきいきサロンとは、団地に住む人々に「居場所」を与えることなのだと気づきました。

日本語の「ゆとり」という言葉を英語にすると「ROOM」になります。普通は「部屋」という意味で使われますね。

つまり、もともと「ゆとり」というものは空間的な概念に関わっているのです。空間的なゆとりがなければ、心のゆとりは生まれないのです。

そして、人間には「居場所」が必要です。「居場所」を得た人間の心は落ち着き、ゆとりを感じ、他人とのコミュニケーションを望むようになります。他人を見かけたら、挨拶の言葉をかけたくなります。  サロンに来る人々の表情が明るくなってくるのを見て、中沢氏は「これだ!」と思いました。そして、中沢氏は「挨拶(あいさつ)」というキーワードに気づいたそうです。

『孤独死ゼロ作戦』で、中沢氏は次のように述べています。

「挨拶からすべてが始まります。近隣との関係も仲間づくりもそうだと思います」

「団体でも会社でも、きちんと、明るく元気に挨拶をしているところは発展性があるのです。挨拶もしていない職場は、停滞していくということがわかりました」

「挨拶をすることは、人間社会において非常に大事なことだと、実に当たり前のことを『孤独死対策』を考えるなかで再発見しました」

「用があってもなくても、顔見知りでも知らない人同士でも、気持ちよく挨拶の声をかけあう、そこに意味があるのだと思うのです」

そして、中沢氏は「孤独死」の問題で一番大事なのは「生きることへの働きかけ」であるとして、そのために「挨拶」はあるのだと言います。挨拶から始まって、挨拶で終わるという人生を築くことが大切だというのです。

挨拶は「幸せ」(心地よさ)をつくる、と中沢氏は言います。その心地よさを知っている人が、率先して地域の人々に広めていくことを提唱します。

「まず、お隣の人に挨拶をして、笑顔の働きかけをしてみましょう」

孤独死予備軍の「ないないづくし」

中沢氏は孤独死をずっと見ていると、現代社会に生きる人々は「ないないづくし」で暮らしていることがよくわかり、その実態は本当に恐ろしいと述べます。

孤独死予備軍の「ないないづくし」とは何か。それは次の10点に集約されます。

1 配偶者がいない。
2 友だちがいない。
3 会話がない。
4 身内と連絡しない。
5 挨拶をしない。
6 近隣関係がない。
7 自治会や地区社協の催しに参加しない。
8 人のことはあまり考えない。
9 社会参加をしない。
10 何事にも関心を持たない。

中沢氏によれば、「孤独死は行政がなんとかしてくれる」という他人まかせな発想になる危険性があるといいます。そうではなく、自分たちの生活習慣を改めて、地域の幸せをみんなでつくるという発想が大事なのです。

そこで出てくるキーワードが「挨拶」です。

「おじいちゃん、おばあちゃんから、若い人たちまで共通して理解されるものは何かということです。そうして行き着いたのが『挨拶』することでした。誰でも参加できる、納得できる、それは『挨拶』をすること。地域でこの運動を高めていこう。挨拶は孤独死ゼロの第一歩なのですよ」

近隣との「ないないづくし」の関係を、挨拶することによって、「あるあるづくし」に変えていけるのです。

わたしも常々、人間関係において挨拶ほど大切なものはないと言っています。「こんにちは」などの挨拶によって、初対面の人も心を開きます。

沖縄では「めんそーれ」という古くからの挨拶言葉が今でも使われています。「めんそーれ」は「かなみ」よも言われますが、これは挨拶が人間関係の要(かなめ)であることを意味します。挨拶が上手な人を「かなみぞうじ」といい、「かなみかきゆん」は「挨拶を欠かさない」「義理を欠かさない」という意味だそうです。まさしく挨拶は人間関係の要なのですね。

隣人祭りを開催しよう!――きっかけは「お祝い」

わたしたちは、地域に住む人々が、そして自分自身が幸せに暮らせるために、「となりびと」と仲良くしなければなりません。

「となりびと」と仲良くする作法とは何でしょうか。もちろん、これまでに紹介した小笠原流礼法や江戸しぐさとともに、隣人祭りの存在が大きいと言えます。

隣人祭りを開催することは、けっして難しくありません。以下の5つのステップに沿って実行すれば、簡単に開催できます。

ステップ1 隣人祭りについて告知しましょう。
マンションや地域にポスターを貼る場所を探し、管理組合や自治会の許可をとって、ポスターを貼りましょう。

ステップ2 ご近所のなかに「仲間」を見つけましょう。
隣人祭りに興味をもつ人が、ご近所や同じ地域に必ず見つかると思います。開催のために一緒に行動してくれる人を探すことが、隣人祭りを成功させる大きなポイントとなります。

ステップ3 「となりびと」は、どのような人たちですか?
あなたにとっての「となりびと」には、どういう人たちがいますか。ファミリーですか、一人暮らしですか。高齢者ですか、若い人ですか。ファミリーなら子どもはいますか。病気の人や介護を必要としている人はいますか。その人たちは、隣人祭りに参加することが可能でしょうか。

ステップ4 隣人祭りの「きっかけ」を決めましょう。
「となりびと」は、どんな「きっかけ」なら集まってくれるでしょうか? みなさんが顔を出したくなるような「きっかけ」を考えましょう。

ステップ5 日時と場所を決めて知らせましょう。
だれもが気軽に顔を出しやすい場所、集まりやすい日時を決めたら、チラシを作り、「ぜひご参加ください」のひと言をそえてお隣りさんに渡しましょう。
ステップ4の「きっかけ」ですが、だれでも気軽に実行できることとして、わたしは「誕生日を祝う」ことを提案したいと思います。

前にも述べましたが、「祝う」という営み、特に他人の慶事を祝うということが人類にとって非常に重要なものです。祝いの心とは、他人の「喜び」に共感することだからです。それは、他人の「苦しみ」に対して共感する「見舞う」という営みの対極に位置するものですが、じつは両者とも他人の心に共感するという点では同じです。

祝い事といえば、誕生、入学、合格、卒業、就職、結婚などが思い浮かびます。それらは、人生でももっとも晴れがましい出来事ですね。なんといっても「お祝い」といえば、まず、結婚が思い浮かぶのではないでしょうか。多くの人にとっての、お祝いのイメージとは、やはり結婚式だと思います。

しかし、わたしたちが人生で出会う「お祝い」は、結婚式だけではありません。三日祝い、お七夜、名づけ祝い、お宮参り、お食い初ぞめ、初誕生、初節句、七五三祝いなど、子どもの成長にあわせて、数多くのお祝いがあります。さらには成人式や長寿祝いも待っています。

長寿祝いといえば、沖縄が有名です。「生年祝い」という名で盛んに行なわれています。生年祝いとは、十干十二支から出たものです。数え年13歳、25歳、37歳、49歳、61歳、73歳、85歳、97歳の人たちを旧暦正月の干支の日に祝います。つまり、戌年なら戌の日に祝うわけですで、自分が生まれた年から12年目毎に行なわれるのです。

また、その翌年には、ハリヤク(晴れ厄)という小さな祝いがやはり正月中に行なわれます。97歳のトシビィは「カジマヤー」といって大きな祝いをしますが、沖縄には77歳の「喜寿祝い」や99歳の「白寿祝い」の慣習は元来ありませんでした。

カジマヤーとは、風に舞う風車のことです。97歳にもなると幼児に戻って風車をまわして遊ぶという純粋無垢な心をたたえたものです。なんと素敵な言葉ではありませんか。

沖縄は「守礼之那(しゅれいのくに)」と呼ばれます。わが社が沖縄でも冠婚葬祭事業を展開している関係で、わたしはよく沖縄のお祝い事に出席します。そのたびに思うのですが、本当に沖縄の方々は「礼」すなわち「人間尊重」の精神をしっかり守っておられます。守礼之那とは人間尊重王国ということなのです。沖縄ほど、人生の節目節目をきちんとお祝いする場所は国内にありません。

あなたが生まれてきたことは正しい――誕生日の意味

人生とは一本の鉄道線路のようなもので、山あり谷あり、そしてその間にはいくつもの駅がある。「ステーション」という英語の語源は「シーズン」から来ています。季節というのは流れる時間に人間がピリオドを打ったものであり、鉄道の線路を時間にたとえれば、まさに駅はさまざまな季節ということになります。

そして、儀式を意味する「セレモニー」も「シーズン」に通じると思います。七五三や成人式、長寿祝いといった通過儀礼とは人生の季節、人生の駅なのです。

それも、20歳の成人式や60歳の還暦などは、セントラル・ステーションのような大きな駅と言えるでしょう。各種の通過儀礼は特急や急行の停車する駅です。では、各駅停車で停まるような駅とは何か。

わたしは、誕生日がそれに当たると思います。老若男女を問わず、だれにでも毎年訪れる誕生日。誕生日を祝うことは、「あなたが生まれてきたことは正しいですよ」「あなたが今まで生きてきてくれて嬉しいですよ」と、その人の存在価値を全面的に肯定することなのです。

別に受賞や合格といった晴れがましいことがなくとも祝う誕生日。それは、「人間尊重」そのものの行為です。そして、「人間尊重」をミッションとするわが社では、全社員の誕生日を毎日お祝いしています。社長であるわたしは、1500名近い社員全員に自らバースデーカードを書き、プレゼントを選んでいます。

毎日の各職場の朝礼において、誕生日を迎えた人にカードとプレゼントをお渡しし、職場の仲間全員で「お誕生日、おめでとうございます!」の声をかけて、拍手で祝うのです。

わたしは、誕生日を祝うことこそ、人間関係の基本であるという確信を深めています。そして誕生日を祝うことは、人間尊重の思想である「礼」のはじまりだと思っています。

あなたは、家族や恋人はもちろん、「となりびと」たちの誕生日を知っていますか。そして、「誕生日、おめでとうございます」の声をかけていますか。

あなたの周囲の人たちの誕生日にはぜひ、「おめでとう」の声をかけてください。そうすれば、あなたの誕生日にも、「おめでとう」の声がかけられるはずです。そこから、幸せなコミュニティが生まれるはずです。

世界最小の文芸作品

社員のみなさんにバースデーカードを書きながら、思うことがあります。まずは、「世の中には、本当にいろんな名前があるなあ」ということ。そして、「この名前には親御さんの心が込められているのだなあ」ということです。ゴダイゴの名曲「ビューテイフル・ネーム」を思い出してしまいます。

当然ながら、名前のない人はいません。すべての人には名前があり、その名前には何らかの意味があります。じつはわたしは、名前というのは、世界最小の文芸ではないかと思っています。姓名判断のプロに頼む人もいるでしょうが、普通に結婚して子どもを授かる人ならば、だいたい命名というものに直面します。そこで、いろいろ頭を悩まします。これは文芸における創作の苦労とまったく変わりません。

人間にとってもっとも目に心地よい映像は自分の姿であり、もっとも耳に心地よくもっとも大切な響きを持つものは自分の名前だといわれます。

わが社のようなホテルや冠婚葬祭を営む、いわゆる接客業においては、お客様の名前をきちんとお呼びすることが大切です。

単に「お客さん」とか「お客さま」とか呼んではいけません。相手の名前がわかっている場合は、必ず名前で呼ばなくてはなりません。

たとえば、青木さんという方がわが社の施設に来られたら、「いらっしゃいませ」ではなく、「青木さま、いらっしゃいませ」とお迎えします。お礼を述べるときも、「ありがとうございます」ではなく、「青木さま、ありがとうございます」です。サービス業の基本です。

これは、家族でも友人でも知人でも同じこと。人を呼ぶときは、必ず名前で呼んでください。相手を名前で呼ぶことこそ、サービス業を超えた「人間尊重」の基本中の基本なのです。

耳のごちそうとして、音楽や愛語といったものがあります。でも、お客様にとっても、会社の同僚にとっても、家族や友人・知人にとっても、自分の名前くらい良い響きのするものはありません。

ぜひ、あなたのすべての隣人に挨拶をし、名前で呼びましょう。そうすれば、仕事も人間関係も、そして地域生活もきっとうまくいくはずです。

挨拶を交わすことにおいて、人間はみんな平等です。常盤平団地の自治会長である中沢卓実氏が、こんなことを言われていました。

「医師とか弁護士、大学教授など、いわゆる先生と呼ばれる人ほど、挨拶するのが苦手です。そして、そういう人ほど一番の孤独死予備軍になるんです」

いくら頭が良くても、いくらお金を持っていて社会的地位が高くても、朝、隣人に出会って「おはようございます」も言えないような人は不幸な人です。

孔子と孟子と、お節介

高齢者の孤独死や児童の虐待死といった悲惨な出来事を防ぐには、挨拶とともに、日本社会に「お節介」という行為を復活させる必要があるように思います。

昔は、お節介な人が町内に必ず1人はいました。そういう人は、孤独死しそうな独居老人のことも、児童虐待が行なわれているような家庭のことも確実に把握していました。

はっきり言って、「親切」と「お節介」は紙一重です。でも、ディープな人間関係がわずらわしいからといって「お節介」な人々をどんどん排除していった結果、日本は「無縁社会」などと呼ばれるようになってしまいました。

わたしは、地域社会には「お節介」というものも、ある程度は必要であると思います。

無縁社会を乗り越えるためには、「お節介」の復活が求められると言えるでしょう。

お節介な人というのは、ある意味で、親のような存在だと思います。

まず、親というものは子にいろいろと世話をやきます。過剰なまでに世話をやく親もいます。そして、間違ったことをしていれば、「そんなことをしてはダメだ」と説教します。子どもにとっては、わずらわしい存在かもしれませんが、親とはそういうものなのです。いつも、子どものことを気にかけ、将来は子どもに幸せになってほしいものなのです。

昭和30年代ぐらいまでの日本社会は、親以外の大人たちも「お節介」をやいていました。そして、間違ったことや悪いことをすれば、平気で他人の子でも叱っていました。子どもは、地域社会みんなで育てるものだという意識があったのかもしれません。

子どもに限らず、他人のことを気にかけ、世話をやこうとする人は基本的に「善人」です。

かの孔子は、徹底したヒューマニストとして歴史に名を残していますが、他人への愛情だけで生きているような人でした。『論語』には、「義を見て為さざるは勇なきなり」という有名な言葉が出てきます。「勇」とは「正しい」ことです。悪事に対して見て見ぬふりをしたり、困っている人を見捨てたりすることは人間として正しくないのです。

その孔子の思想を継承し、発展させたのが孟子です。

孟子は「性善説」で知られます。人間だれしも憐(あわ)れみの心を持っているとして、次のように述べました。幼い子どもがヨチヨチと井戸に近づいて行くのを見かけたとする。だれでもハッとして、井戸に落ちたらかわいそうだと思う。それは別に、子どもを救った縁でその親と近づきになりたいと思ったためではない。周囲の人にほめてもらうためでもない。また、救わなければ非難されることが怖いためでもない。

してみると、かわいそうだと思う心は、人間だれしも備えているものだ。さらに、悪を恥じ憎む心、譲り合いの心、善悪を判断する心も、人間ならだれにも備わっているものだ。

かわいそうだと思う心は「仁」の芽生えである。悪を恥じ憎む心は「義」の芽生えである。譲り合いの心は「礼」の芽生えである。善悪を判断する心は「智」の芽生えである。人間は生まれながら手足を4本持っているように、この4つの芽生えを備えているのだ。

もちろん、孔子や孟子は、単なるお節介な「善人」ではありません。人間の理想としての「君子」の道を説いた「聖人」です。「聖人」とは生まれながらに徳を持っている人であり、「君子」とは自身の努力によって徳を身につけた人です。そして、「善人」はさらにランクが下です。

『論語』に出てくる「善人」という言葉には、「正義を自分だけで決める人」という意味があります。過去の正義の人の足跡に学ばず、自主性はあるものの独断に陥りやすいというのです。「ひとりよがりの正義」を他人に押し付けるというニュアンスでしょうか。

しかし、「聖人」や「君子」の存在など望みようもない現在、「善人」でもいいから、正義を実行する人が必要ではないでしょうか。たとえ「ひとりよがりの正義」であろうが、善人には他人の不幸を見過ごすことはできないからです。

「無縁社会」などと呼ばれるようになるまで日本人の人間関係が希薄化しました。その原因のひとつには個人化の行過ぎがあり、また「プライバシー」というものを重視しすぎたことがあります。そのため、善なる心を持った親切な人の行為を「お節介」のひと言で切り捨て、一種の迷惑行為扱いしてきたのです。しかし、「お節介」を排除した結果、日本の社会は良くなるどころか、悪くなりました。わたしは、声を大にして「お節介」の復活を訴えたいと思います。