平成心学塾 隣人篇 有縁社会のつくり方 #002

「となりびと」の復権

無縁社会の波紋

最近、「無縁社会」という言葉をよく聞きます。2010年1月31日にNHKスペシャル「無縁社会――〝無縁死〟3万2千人の衝撃」が放映され、たいへんな話題となりました。

その後も何度か再放送され、シリーズ化もされて、その波紋は広がる一方です。「過剰演出ではないか」という疑問の声も上がっていますが、最初の問題提起は非常にショッキングなものでした。

日本の自殺率は先進国中でワースト2位です。しかし、ここ最近、「身元不明の自殺と見られる死者」や「行き倒れ死」などが急増しています。引き取り手のない遺体が増えていく一方です。

その原因は、日本社会があらゆる「絆」を失っていき、「無縁社会」と化したことにあるというのです。

かつての日本社会には「血縁」という家族や親族との絆があり、「地縁」という地域との絆がありました。日本人は、それらを急速に失っているのです。

わたしは株式会社サンレーという冠婚葬祭互助会を経営しています。

サンレーでは、本業である互助会の運営、各種の儀式の施行をはじめ、最近では「隣人祭り」や「婚活セミナー」などに積極的に取り組み、全社をあげてサポートしています。

これらの活動は、すべて「無縁社会」をなくし、「有縁社会」を実現するための試みだと思っています。

「遠い親戚より近くの他人」という諺があります。でも、無縁死を迎えないためには「遠い親戚」も「近くの他人」もともに大切にしなければなりません。そのための冠婚葬祭であり、隣人祭りではないでしょうか。いま、あらゆる縁を結ぶ「結縁力(ゆいえんりょく)」が求められていると思います。

たしかに、現在の日本の現状を見ると、「無縁社会」と呼ばれても仕方がないかもしれません。では、わたしたちは「無縁社会」にどう向き合えばよいのか。さらにいうなら、どうすれば「無縁社会」を乗り越えられるのか。

わたしは、その最大の方策の1つは、「隣人祭り」であると思います。

「隣人祭り」とは、地域の隣人たちが食べ物や飲み物を持ち寄って集い、食事をしながら語り合うことです。都会に暮らす隣人たちが年に数回、顔を合わせます。誰もが気軽に開催し参加できる活動なのです。

「隣人祭り」は隣人と、ほんの少し歩み寄る機会をつくることです。

同じアパートやマンションをはじめ、同じ地域の隣人たちなど、ふだんあまり接点のない地域の人たちが、気軽に交流できる場をつくり、知り合うきっかけをつくりたいとき、また、自治会や地元の行事、集合住宅の会合などに、今まで参加しなかった人を集めたいときや、サークル活動やボランティア活動に、同じ地域に暮らす隣人に参加してほしいときなど、高齢者や子どもたち、単身者など含め交流の場をつくるのに有効です。

フランスの隣人祭りはなぜ成功したのか?

「隣人祭り」は、今やヨーロッパを中心に世界30カ国以上、1000万人もの人々が参加するそうです。

その発祥の地はフランスで、パリ17区の助役・アタナーズ・ペリファン氏が提唱者です。

きっかけは、パリのアパートで一人暮らしの女性が孤独死し、1カ月後に発見されたことでした。ペリファン氏が駆けつけると、部屋には死後1カ月の臭気が満ち、老女の変わり果てた姿がありました。

同じ階に住む住民に話を聞くと、「一度も姿を見かけたことがなかった」と答えました。

大きなショックを受けたペリファン氏は、「もう少し住民の間に触れ合いがあれば、悲劇は起こらなかったのではないか」と考えました。そして、NPO活動を通じて1999年に「隣人祭り」を人々に呼びかけたのです。

第1回目の「隣人祭り」は、悲劇の起こったアパートに住む青年が中庭でパーティーを開催しました。多くの住民が参加し、語り合いました。そのとき初めて知り合い自己紹介をした男女が、その後、結婚するという素敵なエピソードも生まれています。

最初の年は約1万人がフランス各地の「隣人祭り」に参加しましたが、2003年にはヨーロッパ全域に広がり、2008年には約800万人が参加するまでに発展し、同年5月にはついに日本にも上陸しました。新宿御苑で4日間開催され、200人以上が集まったそうです。

日本でも孤独死は増えています。全国に約77万戸ある都市再生機構の賃貸住宅では2007年度に589人が孤独死しました。じつに5年前の2倍で、その7割近くを高齢者が占めています。

隣人祭りが発展した背景には、孤独死の問題はもちろん、多くの人々が行きすぎた個人主義に危機感を抱いていることを示しています。

アタナーズ・ペリファン氏と共著『隣人祭り』(ソトコト新書)を書いたフランス在住のジャーナリストである南谷桂子氏は、「朝日新聞」2008年8月16日の朝刊で、「一度でも言葉を交わしていれば『感情公害』と呼ばれる近隣トラブルは減るし、いきなり刃物で刺すような事件もなくなるはず」と語っています。

また、ペリファン氏は『隣人祭り』の「著者の言葉」で次のように述べています。

「人間には、誰にでも潜在的に寛大さというものが備わっている。ではなぜ、それを覆っている殻を打ち破って寛大さを表に出さないのだろう。人は誰でも問題を抱えているものだ。その問題を解決するには、自分以外の誰かの善意がきっと役に立つはずだ。人間の良心だけが、人間を救える唯一のものだと僕は信じている」

「隣人祭り」は、なぜ成功したのでしょうか。「日本経済新聞」2008年8月30日夕刊にフランスでの成功のステップが4つにまとめられているので、紹介したいと思います。

1、人と出会い、知り合う。親しくなる。
2、近隣同士、ちょっとした助け合いをする(パンやバターの貸し借りなど)。
3、相互扶助の関係をつくる(子どもが急に病気になったが仕事で休めないとき、預かってもらう環境をつくるなど)。
4、より長期的な視野で相互扶助をする(複数の住民で協力し、近所のホームレスや病人の面倒をみたりするなど)。
これを見ると、「隣人祭り」のキーワードは「助け合い」や「相互扶助」のようです。こうした言葉は互助会の精神ともつながります。

互助会が「隣人祭り」を日本流にアレンジ

わたしは、フランスで起こった隣人祭りと日本の冠婚葬祭互助会の精神はじつによく似ていると思います。「無縁社会」が叫ばれ、生涯非婚に孤独死や無縁死などが問題となる中、冠婚葬祭互助会の持つ社会的使命はますます大きくなると思っています。

いまや全国で2000万人を超える互助会員のほとんどは高齢者であり、やはり孤独死をなくすことが互助会の大きなテーマとなっているのです。

互助会であるわが社では、2008年10月15日に北九州市八幡西区のサンレーグランドホテルにおいて開催された「隣人祭り」のサポートをさせていただきました。

サンレーグランドホテルの恒例行事である「秋の観月会」とタイアップして行なわれたのですが、これが九州では最初の「隣人祭り」となりました。

日本でもっとも高齢化が進行し、孤独死も増えている北九州市での「隣人祭り」開催とあって、マスコミの取材もたくさん受け、大きな話題となりました。

その後も、NPO法人「ハートウエル21」と連動し、隣人祭り日本支部の指導を受けたオーソドックスな「隣人祭り」の他、オリジナルの「隣人むすび祭り」のお手伝いを各地で行なっています。

2009年は北九州市で約190回、全国で300回を開催し、2010年は北九州市で324回、全国では501回開催しました。

「隣人祭り」と「隣人むすび祭り」を合わせれば、おそらくわが社は日本でもっとも地域の隣人が集う「隣人交流イベント」あるいは「地縁再生イベント」の開催をサポートしている組織だと思います。

本家のフランスをはじめ、欧米諸国の「隣人祭り」は地域住民がパンやワインなどを持ち寄る食事会ですが、そのままでは日本に定着させるのは難しいと考え、わが社がサポートするイベントでは、季節の年中行事などを取り入れています。

たとえば、花見を取り入れた「隣人さくら祭り」とか、雛祭りを取り入れた「隣人ひな祭り」、節分の厄除け祝を取り入れた「隣人祭り 合同厄除け祝」、七夕を取り入れた「隣人たなばた祭り」、秋の月見を取り入れた「隣人祭り 秋の観月会」、クリスマスを取り入れた「クリスマス隣人祭り」といった具合です。

おかげさまでたいへん好評を得ていますが、これは日本におけるコンビニエンスストアのマーケティングを参考にしました。

アメリカ生まれのセブンイレブンを初めて日本に輸入したとき、当初はうまくいかなかったそうです。

しかし、セブンイレブン・ジャパンの社長であった鈴木敏文氏が日本流に「おにぎり」や「おでん」などの販売を思いつき、それから大ブレークして、すっかりコンビニが日本人の生活に溶け込んでいったことをヒントにしたのです。

欧米の文化をそのまま日本に輸入してもダメで、日本流のアレンジが必要であるということを学んだわけです。

また、孤独死の防止を意識するあまり高齢者だけのイベントにすることを避け、なるべく幼稚園や保育園の子どもさんたちとお年寄りとの交流をお手伝いすることを心がけています。

わが社の運営する冠婚葬祭施設などに老人会のお年寄りなどを招き、そこで幼稚園や保育園の園児の楽器演奏やダンスなどを披露すると、お年寄りたちは目を細めて喜ばれます。

演ずる子どもさんたちも喜んでくれる観客の出現に張り切っていますし、保護者のお母さん方も嬉しそうにビデオ撮影などをされています。ここには、非常に幸福な善意の循環があるという気がしてなりません。

子どもさんとお年寄りの出会いの場をつくることも「隣人祭り」の大きな役割の1つではないかと思います。

「こころ」と「こころ」がつながるとき~タイガーマスク運動と隣人サーカス祭

「隣人の時代」の元年となるべき2011年は、早々から日本列島各地で心温まる出来事が続出しました。そうです、「タイガーマスク運動」です。

児童養護施設の子どもたちへのランドセル、文房具、オモチャなどのプレゼント行為が全国的な拡がりを見せました。プレゼントの主は、「伊達直人(だてなおと)」と名乗りました。プロレス・マンガの名作「タイガーマスク」の主人公の名前です。原作者は、かの梶原一騎です。日本が生んだ史上最高のマンガ原作者です。

わたしは少年時代から「強い男」に憧れ、梶原作品の大ファンでした。わたしの「一条真也」というペンネームは、「タイガーマスク」と並ぶ梶原一騎の名作「柔道一直線」の主人公である「一条直也」から取ったほどです。じつは、わたしは「伊達直人」をもじった「伊達真人」というペンネームも考えていたのです!

そのマンガ・キャラクターとしての伊達直人は、親のいない孤児(原作では「みなし児」という言葉が使われていました)だったという設定でした。彼は自身が育った児童養護施設の「ちびっこハウス」の子どもたちにさまざまなプレゼントを贈るのですが、自分の正体は隠して、虎の仮面をかぶり、タイガーマスクとして善意の行動を重ねるのでした。

児童養護施設といえば、わが社も毎年、11月18の創立記念日に文房具やお菓子などを寄贈させていただいています。施設には、親がいないお子さん、または何らかの事情で親と離れて暮らしているお子さんが生活しています。人数が多いと文房具なども不足しがちなようです。

あるとき、クレヨンのセットをお配りしたことがあるのですが、しばらくして社長であるわたし宛にお礼状と1枚の絵が届きました。

その絵には大きな赤い花が描かれていました。

手紙を読むと、そこには次のような内容が書かれていました。

「今までクレヨンのセットが園に1つしかなかったので、赤などはすぐ減ってしまって使えなかった。自分は赤い花の絵が描きたかったのだけれど、描くことができなかった。サンレーさんが新しいクレヨンをたくさんプレゼントしてくれたので、やっと描くことができます。最初に描いた絵は、社長さんにプレゼントします」

いくら親がいても感謝の気持ちを持たず、わがまま放題の子どもはいくらでもいます。わたしは、このお子さんたちを育てている園の先生たちに心から尊敬の念を抱きました。

また、北九州市にサーカスが来たときは、市内の児童養護施設のお子さんたちを全員招待することにしています。最近、木下サーカスが来たときも1日の興行を借り切って、お子さんたちを招待させていただきました。

みんな非常に喜んでくれました。わが社には数え切れないほど多くのサーカスの絵とお礼の手紙が届いたことは言うまでもありません。それを、わたしが読み、社内報に掲載して全社員も読みます。みんな、感動します。自分以外のだれかの「こころ」と自分の「こころ」がつながったことに感動するのです。

このたびの「タイガーマスク運動」は、企業ではなく、一般市民の方々が自発的に行っているようですね。本当に素晴らしいことだと思います。もしかすると、「無縁社会」とか「孤族の国」と呼ばれるまでに人心が荒んだ果てのリバウンド現象かもしれません。「このままでは日本は大変なことになる!」という人々の危機感が多くの伊達直人を生んだような気がします。隣人愛があれば、自分以外のどんな人でも愛すべき「となりびと」です。伊達直人とは、結局「となりびと」の別名ではないでしょうか。

そう、隣人とは、けっして同じ町内に住む地域の住人だけではありません。自分以外の人は、みな隣人なのです。ですから、お子さんたちをたくさん招待したサーカスの興行も、立派な「隣人祭り」なのかもしれません。いわば、「隣人サーカス祭り」ですね。

心ない言葉――ボランティアと「株式会社」

このようなわが社の一連の活動に対して、「良いことをしている」「サンレーは利益優先ではないことがわかった」と言ってくださる方々ももちろんいらっしゃいますが、中には「営利目的ではないのか」とか「どうせ宣伝だろう」などと心ない言葉を耳にすることもあります。

そんなとき、いつも悲しい気持ちになったのですが、最近ではあまり気にならなくなってきました。

わが社が株式会社なのは事実ですし、わたしが社長であることも事実です。ならば、わが社の活動が常に何らかの経済活動と結びついているのではないかと思われるのは仕方がないことかもしれないと思えるようになったのです。

もちろん、わたしは営利活動とか宣伝と思って、子どもさんたちをサーカスに招待したり、「隣人祭り」の開催をサポートしているわけではありません。

でも、いくら口で反論するよりも、行動で示し続けるしかないと思うのです。行動で示し続けることによって、「おや、この会社は本気で社会を良くしようと思っているんじゃないか」と、そのうち世間の見方も少しずつ変わってくるのではないかと思うのです。

それに、わたしは、わが社の社会活動がいつの日か会社のためになること、もっとはっきり言えば、会社の利益に結びつくことを当然ながら想定しています。

サーカスに招待した子どもさんたちが大きくなってわが社の結婚式場で結婚式をあげてくれるかもしれませんし、「隣人祭り」に参加されたお年寄りの葬儀のお世話をさせていただくかもしれません。

それは、そうなるかもしれませんし、そうはならないかもしれません。そんなことは、どうでもよいのです。でも、よく考えてみると、「隣人祭り」を開くことは、だれも困ることではないばかりか、逆に良いことずくめです。

「隣人祭り」で孤独な高齢者の方々に知り合いができて、それ以降の日々を仲間と楽しく暮らせる。知り合いができると挨拶を交わす人の数が増え、結果として孤独死が減る。

こうなれば、参加者も良し、地域社会にも良し、国家にも良し、そしてめぐりめぐってわが社にも良しとなれば、みんながハッピーになれる魔法のようなものだと思います。

それに、本当は株式会社というのは純粋なボランティアばかりをやってはいけない存在なのです。だって、自動車会社がボランティアで貧しい人々にどんどん車を無料でプレゼントしたり、航空会社が無料で飛行機に乗せたり、ホテルが宿泊費を無料にしていたら、その会社はすぐ潰れてしまいますよね。それは完全に株主に対する背任行為となってしまいます。

また、わが社がサポートする「隣人祭り」では、わが社の社員が参加してお世話をしています。これも、もし純粋なボランティアであったとしたら、いろいろと問題になるでしょう。なぜなら、ボランティア好きな経営者の「奉仕精神」、もっと露骨に言えば「趣味」に社員を無理やり付き合わせていることになるからです。これまた、株主への背任行為であり、またわが社の場合は互助会ですから、会員様への裏切り行為にもなりかねません。

ですから、わが社がサポートする「隣人祭り」は互助会の会員さんへのサービスの一環であり、また新たに互助会に入っていただくためのPRイベントの要素があっても構わないのかもしれません。もともと、隣人祭りも互助会も「相互扶助」の精神をコンセプトにしているという点では同じなのですから。

冠婚葬祭業界のインフラ整備

わたしは「隣人祭り」のサポートは、冠婚葬祭業界のインフラ整備だと思っています。

結婚式にしろ葬儀にしろ、冠婚葬祭業というのは人の縁がなければ成り立たない商売です。わたしは常々、この仕事にもしインフラがあるとしたら、それは人の縁に他ならないと広言しています。

いま、日本は「無縁社会」などと呼ばれています。ぜひ、これを「有縁社会」へと変えなければなりません。

そもそも「縁」とは、いったい何か。

この世にあるすべての物事や現象は、みなそれぞれ孤立したり、単独であるものは1つもありません。他と無関係では何も存在できないのです。すべてはバラバラであるのではなく、緻密な関わり合いがあります。この緻密な関わり合いを「縁」と言うのです。

縁ある者の集まりを「社会」といいます。ですから、「無縁社会」という言葉は本当はおかしいのであり、明らかな表現矛盾なのです。「社会」とは最初から「有縁社会」でしかないのです。最初から「無縁社会」などというのは、ありえないのです。

人間には、家族や親族の「血縁」をはじめ、地域の縁である「地縁」、学校や同窓生の縁である「学縁」、職場の縁である「職縁」、業界の縁である「業縁」、趣味の縁である「好縁」、信仰やボランティアなどの縁である「道縁」といったさまざまな縁があります。

今言った「縁」を結んだ人々は、いずれも自分の葬儀に参列してくれる可能性のある人たちです。つまりは、「おくりびと」になってくれる人たちです。

これらの「縁」がいずれも希薄化しているために社会が「無縁化」し、通夜や告別式を行なわずに火葬場に直行する「直葬」なども増えているわけですね。

しかし、あきらめるのは早いのではないでしょうか。わたしは、それらの絆をもう一度強く結び直す具体的な方法があると思っています。

すなわち、血縁を結び直す「法事・法要」、地縁を結び直す「隣人祭り」、学縁を結び直す「同窓会」、職縁を結び直す「OB会」、業縁を結び直す業界の「勉強会」、好縁を結び直す「サークル」、道縁を結び直す各種の「集会」、さらには新たな血縁を作り出す「婚活」です。

「いま」「ここに」居合わせる奇跡

血縁、地縁、学縁、職縁、業縁、好縁、道縁……一口に「縁」といっても、じつにさまざまな「縁」があるのです。そして、それらすべての「縁」に関連しているものこそ、「冠婚葬祭」ではないでしょうか。すべての「縁」という川は、「冠婚葬祭」という大河あるいは海に流れ込むのではないかと思います。

新卒者への会社説明会では、社長のわたし自ら話をすることが多いのですが、必ず、「みなさんとは縁がある」というひと言ではじめることにしています。

まだ採用しておらず、社長と社員の関係にはなっていなくても、宇宙という無限の時間と空間の中で「いま」「ここに」居合わせていること自体が縁があることに他ならず、奇跡なのだと説明するのです。

異色の哲学者である中村天風は、こう言いました。

「要するにこの広い世界に、幾多数え切れないたくさんの人という人のいる中に、自分たちだけが、1つ家の中に、夫婦となり、親となり、子となり、兄弟姉妹となり、さては使うもの使われるものとなって、一緒に生活しているということが、並々ならぬ、換言すればとうてい人間の普通の頭では考えきれない縁という不思議以上の幽玄なるものが作用した結果だという、極めて重大な消息を、重大に考えないからである」と。

天風の有名な「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」という言葉も、この世に張りめぐらされた「縁」というネットワークの不思議以上の幽玄さを表現しています。

陽明学者の安岡正篤は、こう言いました。

「仏語に、縁尋機妙という語がある。縁尋機妙とは、縁が尋ねめぐって、そこここに不思議な作用をなすことである。縁が縁を産み、新しい結縁の世界を展開させる。人間が善い縁、勝れた縁に逢うことは大変大事なことなのである。これを地蔵経は聖縁・勝縁という」

中村天風も安岡正篤も、豊かな「縁」を得て、幾多の政治家や実業家を指導しただけあって、含蓄のある言葉を残していますね。

いわゆる「柳生家の家訓」といわれるものに、「小才は縁に出会って縁に気づかず 中才は縁に気づいて縁を生かさず 大才は袖すり合った縁をも生かす」という言葉があります。この世は最初から縁に満ちており、多くの者はそれに気づいていないだけなのです。

もともと社会とは「有縁」なのです。わたしたちの身のまわりには目に見えないさまざまな縁が張りめぐらされており、その存在に気づくことが大切なのです。「無縁社会」など、妄言にすぎません。

さあ、隣人の出番!

2010年夏、わたしは2つの悲惨な事件報道に言葉を失いました。

1つは、23歳の母親が、3歳の姉と1歳の弟を自宅に置き去りにし、衰弱死させたという事件です。母親の育児放棄が原因だといわれていますが、母親は当初、熱心に子育てをしていました。ところが離婚をきっかけに風俗店で働きはじめ、そのうちに子どもの存在を疎ましく感じた末の事件でした。

若い母親は親に相談することもなく、社会に頼ることなく、子どもを邪魔者として排除するという最悪の道を選んでしまったのです。母親はけっして初めからネグレクトであったわけではありません。数年前なら、娘が親に子どもを預けて都会で働く、あるいは施設に預けるといった選択によって、子どもたちの命は救われていたことでしょう。

もう1つは、東京都足立区において、生存していれば111歳となる男性の白骨死体が発見された事件です。その後、連日のように全国の自治体などの公共機関において表彰対象となる高齢者の行方不明事例が相次いで報道されています。

子どもが死ぬことがわかっていながら、家族にも、社会にも頼らず死なせてしまう親の存在、自分の親の生死さえもわからずに生きている子どもたちの存在。いま、日本がわたしの想像を超える地獄と化してきたように思います。

これからの日本社会や、そこでのさまざまな課題を考えていく上で、最大のテーマは「コミュニティ」でしょう。

戦後の日本社会とは、ひと言でいえば「農村から都市への人口大移動」の歴史でした。

都市に移った日本人は、独立した個人と個人のつながりを持とうとはしませんでした。

その代わりに、会社や家族という、「都市の中のムラ社会」というべき閉鎖性の強いコミュニティを築いていきました。

しかし、そうした「関係性」を可能にした経済成長の時代が終わりを告げ、個人の社会的孤立は深刻化しています。

1998年より12年間にわたって自殺者が年間3万人を超えていますが、その背景には経済的要因だけでなく、人と人との「関係性」のあり方、そしてコミュニティのあり方が何らかの形で働いているようです。

「コミュニティ」を定義する

千葉大学法経学部教授の広井良典氏は、著書『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書)において、このコミュニティというテーマを、都市、空間、グローバリゼーション、福祉ないしは社会保障、土地、環境、科学、ケア、価値原理、公共政策といった多様な観点から、新たな「つながり」の形を掘り下げています。

広井氏は、「コミュニティ」という言葉あるいは概念を次のように定義します。

「コミュニティ=人間が、それに対して何らかの帰属意識をもち、かつその構成メンバーの間に一定の連帯ないし相互扶助(支え合い)の意識が働いているような集団」

そして、「コミュニティ」というとき、次の3つの点を区別して考えることが重要だと述べています。すなわち、

(1)「生産のコミュニティ」と「生活のコミュニティ」
(2)「農村型コミュニティ」と「都市型コミュニティ」
(3)「空間コミュニティ(地域コミュニティ)」と「時間コミュニティ(テーマコミュニティ)」
それぞれを簡単に説明しますと、まず(1)において、都市化・産業化が進む以前の農村社会において両者はほとんど一致していました。

すなわち、農村の地域コミュニティが、そのまま「生産のコミュニティ」であり、かつ「生活のコミュニティ」でもあったのです。

やがて高度成長期などで都市化・産業化を迎え、両者は急速に〝分離〟していきます。

そして、「生産のコミュニティ」としての会社が圧倒的な優位を占めるようになります。

しかし、経済が成熟して、急速な拡大・成長の時代が終わりつつあり、会社や家族といった存在も変化してきました。

次に(2)についていえば、「農村型コミュニティ」とは、〝共同体に一体化する個人〟ともいうべき関係のあり方です。

それぞれの個人が、ある種の情緒的あるいは非言語的つながりの感覚をベースにしています。また、一定の「同質性」ということを前提として、強く結びつくような関係性です。

一方、「都市型コミュニティ」とは〝独立した個人と個人のつながり〟ともいうべき関係のあり方です。個人の独立性が強く、そのつながりのあり方は共通の規範やルールに基づきます。また、言語による部分の比重が大きく、個人間の一定の「異質性」を前提としています。

国際的に見て、日本はもっとも「社会的孤立」度の高い国であるそうです。「社会的孤立」とは、家族以外の者との交流やつながりがどのくらいあるかという点に関わるものですが、日本社会は〝自分の属するコミュニティないし集団の「ソト」の人との交流が少ない〟という点において先進諸国の中で際立っているというのです。広井氏は、「したがって、日本社会における根本的な課題は、『個人と個人がつながる』ような、『都市型コミュニティ』ないし関係性というものをいかに作っていけるか、という点に集約される」と述べます。

これについては2つのポイントがあります。

ひとつは、「規範」のあり方、すなわち、集団を超えた普遍的な規範原理の必要性。もうひとつは、日常的なレベルでのちょっとした行動パターン、すなわち、挨拶、お礼の言葉、見知らぬ者同士のコミュニケーションなど。

これは、わたしもまったく同感です。というより、小笠原流礼法や江戸しぐさ、さらには隣人祭りといった、わが社の一連の活動は間違っていないという自信につながりました。

続いて(3)について見ると、人間の「ライフサイクル」に注目し、それを全体として眺める必要があります。その場合、「子どもの時期」と「高齢期」という2つの時期が、いずれも地域への〝土着性〟が強いという特徴を持っていることを発見します。その発見をふまえて、広井氏は次のように述べます。

「戦後から高度成長期をへて最近までの時代とは、一貫して〝「地域」との関わりが薄い人々〟が増え続けた時代であり、それが現在は、逆に〝「地域」との関わりが強い人々〟が一貫した増加期に入る、その入り口の時期であるととらえることができる」

そして、「地域」というコミュニティがこれからの時代に重要なものとして浮かび上がってくるのは、「ある種の必然的な構造変化」であるというのです。

神社の統合とコミュニティの解体

わたしが『コミュティを問いなおす』でもっとも興味を引かれたのは、第2章「コミュニティの中心~空間とコミュニティ」でした。

まず全国にある神社やお寺の数が示されます。神社の数は8万1000、お寺の数は8万6000です。これは平均して中学校(約1万)区にそれぞれ8つずつというたいへんな数です。これについて、広井氏は次のように述べます。

「考えてみれば、祭りや様々な年中行事からもわかるように、昔の日本では地域や共同体の中心に神社やお寺があった。〝日本人は宗教心が薄い〟というような見方は、戦後の高度成長期に言われるようになったことだと思われる。これほどの数の人口移動と、共同体の解体そして経済成長への邁進の中で、そうした存在は人々の意識の中心からはずれていったのである」

ちなみに最近、神社やお寺を高齢者ケア、子育て支援などの場所として活用する試みが各地で生まれつつあることは興味深いと言えるでしょう。

さて、「(地域)コミュニティ」というとき、その〝範囲〟や〝単位〟は何をさすのか。

市町村のアンケート調査の結果を見ると、「自治会・町内会」が群を抜いて多く、次が「小学校区」、その後は「市町村の行政単位」「中学校区」「地区社協」が続きます。

そもそも日本において、そうした「コミュニティの単位」の〝原型〟をなすものは何か。

時代を明治以降にひとまず限定して、広井氏はポイントとなる制度的な経緯を次のように示します。すなわち、

(a)1871年(明治4年)戸籍法制定
(b)1878年(明治11年)新戸籍法制定(郡区町村編成法)
(c)1889年(明治22年)市制・町村制……自然村を大字・小字に格下げ
(d)1906年(明治39年)神社合祀
最後の神社合祀については、かの南方熊楠が反対したことが有名です。熊楠は、そのような神社の統合が、「自然」「コミュニティ」、そして800万の神々につながる「スピリチュアリティ」が一体となった地域社会を解体してしまうからでした。

神道に詳しい宗教哲学者の鎌田東二氏によれば、明治初期の神社の数は約18万余であり、これは自然村の数とほぼ同じだったそうです。しかし、神社合祀の結果、明治末には約11万余にまで減少したとのこと。それが現在では、さらに減って8万余というわけです。

一方、郡区町村編成法のときの自治体の数は約7万でした。市制・町村制のときの自治体の数は約1万5000でした。

つまり明治末期には、神社数約11万に対して自治体数約1万6000ということです。

行政上の自治体の成立は、神社を中心とする地域コミュニティが次々に集約・統合されることとパラレルに進行したことがわかります。

やがて第二次世界後の「昭和の大合併」(1953年~61年)で自治体の数は約1万から3472に減ります。

そして「平成の大合併」でさらに1760(2009年末時点)にまで減少するのです。

著者は、「これらは農村から都市への人口移動と平行して進んだ事態であり、少なくとも都市圏に関する限り、神社や『鎮守の森』と地域コミュニティの関連といったものはほとんど消滅していったことになる」と述べています。

もともと神社には日本人の「血縁」と「地縁」を強化するという機能がありました。

神社の数が減少の一途をたどったことと、日本人の血縁や地縁が薄くなり、無縁社会化していったこととは、明らかな相関関係があります。しかし、まだ日本には8万を超える神社が存在します。あきらめるのは早いと思います。

わたしたちサンレーでは、いま、神社において「隣人祭り」を開催する運動を進めています。

今こそ、神社をステーションとした新たな地域コミュニティを再構築する必要があるのではないでしょうか。

日本人にインプットされたデータ

日本人の血縁と地縁の結びつきを強化してきた神社は、神道の宗教施設です。

そして、神道は日本人にとって「こころ」の大きな柱です。

新年になると、明治神宮だけでも元日に300万人以上の参拝人が集まります。世界のいかなる教会でも1日に数百万人も押しかけるということを聞いたことがありません。

そのありえない現象が日本中の神社において見られ、すっかり正月の風物詩となっているのです。

日本人はだれが命令するのでもありませんが、アイデンティティのもととして、元日になるとインプットされたデータが作動するように、「出てきなさい」という呼びかけがあるごとく神社へ行きます。受験勉強で忙しい受験生はなおさら行きます。ここに、わたしは日本人の潜在的欲求を見るような気がします。

また、日本人は正月になると門松を立て、雑煮を食べ、子どもたちにお年玉をわたします。ここにもインプットされた神道のデータが作用しているのではないでしょうか。

門松(かどまつ)によって、「お正月さま」といわれる神霊や祖霊をお迎えします。

鏡餅をつくって床の間にお供えし、雑煮を食べ、神霊の力とその年の魂、つまり年魂(としだま)をいただきます。

正月7日になれば七草粥を食べ、15日になれば小正月やとんど焼きがあります。

2月になれば節分祭や豆まき。3月に雛祭りで、5月に鎧兜を飾って端午の節句。6月の晦日(みそか)には大祓(おおはらえ)によって半年分の罪汚れを祓い清め、夏越(なごし)の祓を行ないます。

7月には七夕。8月にはお盆の先祖供養を行ない、9月には中秋の名月を祝います。

10月の「神無月」には日本の神々はみな出雲の国に出かけて神集いをします。そのため、出雲では10月を「神在月(かみありづき)」といいます。

11月には収穫感謝祭である新嘗祭(にいなめのまつり)を行ない、12月には冬至の家庭祭祀をして、カボチャを食べたり、ゆず湯につかったりします。このとき、宮中では鎮魂祭が行なわれます。そして12月の大晦日には1年分たまった罪汚れを祓い清める大祓を行なうのです。

日本人は、このような季節ごとの祭りを年中行事としてとり行なうのです。これは、めぐりゆく季節、変わりゆく自然と人々の暮らしを調和あるものに結びつけていくための生活の知恵や工夫であると言えるでしょう。それは、また祈りと感謝でもあります。

祭りの中には、日本人の日々の暮らしの祈りや願いや感謝の心が「かたち」となって込められているのです。「祭りのない神道はない」という言葉がありますが、それは教義や戒律などではなくて、そのような日々の暮らしに宿る神道の姿を重視した言葉なのでしょう。

祭りの基本構造

では、祭りとは何でしょうか。

鎌田氏によれば、祭は自然と人間と神々との間の調和をはかり、その調和に対する感謝を表明する儀式だといいます。さらに、祭には4つの意味があるそうです。

第1に、神の訪れを待つこと。
第2に、お供え物を奉(たてまつ)ること。
第3に、その威力と道にまつろうこと。
第4に、神と自然と人間との間に真釣(まつ)りが、すなわち真の釣り合い・バランス・調和が生まれること。
ですから祭りのない神道はありえませんし、神道の精神と具体的な実践は、大は国家の祭礼や祭典から、中は町や村といった共同体の祭り、そして小は各家庭の祭りに至るまで、さまざまな祭を通して表されるのです。

「まつり」というやまと言葉の原義は「神に奉(つか)へ仕(つかまつ)る」であることを本居宣長は『古事記伝』で説いています。「まつり」の語源は「たてまつる」の「まつる」すなわち供献する・お供えすることに由来するのです。

その「まつる」に継続を意味する助動詞である「ふ」がつくと、「まつろふ」となって奉仕・服従の意味となります。「まつり」は、この「まつる」の名詞形なのです。

さて、祭りにおいては「ハレ」と「ケ」が重要になります。やまと言葉では日常生活を「ヶ」(褻)と呼び、日常の生命力が枯渇すると「ケガレ」(褻枯れ)となります。そこで神を迎え、神にふれて生命力を振るい起こすためにも「まつり」が必要となるわけです。

神を迎える前には「いみ」の期間があり、それが終わると、いよいよ神を迎えます「まつり」の本番となり、日常のケ(褻)から非日常のハレ(晴れ)に入ります。

海や川や野をはじめとする種々(くさぐさ)の味物(ためつもの)をお供えして祈ります。日本の古い祝詞(のりと)には、神への感謝の言葉のみが記されていますが、現在では特定の願い事を書き入れることが多いです。

そして、神をまつり、神とふれあって人間の魂を振るい起こすために「鎮魂(ちんこん)」を行ないます。

古くは鎮魂を「みたまふり」と訓(よ)んでいましたが、今では文字どおりに魂を鎮(しず)めることとされています。鎮魂とともに、歌舞などの芸能も奉納します。

そうして「まつり」の本番が終了すると、非日常のハレから日常のケに戻るのです。神送りを済ませて「直会(なおらい)」となり、神に供えた御神酒(おみき)などを飲んで、ハレの世界からケの世界へと帰還するのです。そして酒盛り、つまり「饗宴」となるわけです。

現在ではこうした形が簡略化されていることが多いですが、宮中儀礼、特に天皇の即位の祭祀である大嘗祭(だいじょうさい)などには、祭が本来もっている精神と形式が受け継がれています。時代とともに簡略化が進んでも、ケからケガレ、ケガレからハレ、そしてハレからケという祭の基本構造に変わりはありません。

「隣人」と「祭り」をむすぶ

都市祝祭の研究家である松平誠氏は、著書『祭りのゆくえ』(中央公論新社)において、「YOSAKOIソーラン祭り」「青森ねぶた祭」「日立風流物」「東京高円寺阿波おどり」「祇園祭」「よさこい祭り」「博多祇園山笠」「エイサー」などの現代日本を代表する祭りを取り上げています。

わたしは、最近、日本における「隣人祭り」という言葉は2つの概念が組み合わさったものであるということに改めて気づきました。言うまでもなく、2つの概念とは「隣人」と「祭り」です。

「隣人」というキーワードは「隣人愛」から来ていますが、これはキリスト教に由来します。一方の「祭り」は、日本古来の神道に由来するものです。

日本での「隣人祭り」とは、いわば、キリスト教すなわち西洋的な要素と、神道すなわち日本的な要素が混ざり合ったものなのです。

それは、ある意味で、キリスト教と神道の結婚、または西と東の結婚という要素があると言えるかもしれません。

もともと、結婚は男女の結びつきだけではありません。太陽と月の結婚、火と水の結婚、東の西の結婚など、神秘主義における大きなモチーフとなっています。結婚は、異なるものと結びつく途方もなく大きな力が働いているのです。

その力は、「むすび」と呼ばれるものです。

「むすび」という言葉の初出は日本最古の文献『古事記』においてです。冒頭の天地開闢神話には二柱の「むすび」の神々が登場します。800万の神々の中でも、まず最初に天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三柱の神が登場しますが、そのうちの二柱が「むすび」の神です。『古事記』は「むすび」の神をきわめて重要視しているのです。

大著『古事記伝』を著わした国学者の本居宣長は、「むすび」を「物の成出る」さまを言うと考えていました。「産霊(むすび)」は「物を生成することの霊異なる神霊」を指します。息子や娘の「むす」も苔むす「むす」も同じ語源であり、その「むす」力を持つ「ひ」とは、「万物を生みなす不思議な霊力」、すなわち「物の成出る」はたらきをする「物を生成することの霊異なる神霊」を意味します。つまり、「産霊」とは自然の生成力をいうのです。

イノベーションされた都市のマツリ――受け継がれるDNA

本居宣長こそは「むすび」神学の提唱者といえますが、続いてその「むすび」思想を展開したのは、彼の没後の門人・平田篤胤でした。平田篤胤の国学は幕末の尊皇攘夷の志士たちの精神的支柱となります。さらには、柳田国男と並び称せられる民俗学者の折口信夫も、「むすび」に注目しました。

折口信夫は、たいへん興味深いことを言っています。産霊の「むすび」と、結合の「むすび」と、水を掬ぶ「むすび」の関わりについてです。産霊と結合の「むすび」は、起源も信仰内容も違うが、いつしか2つは結びついた。そして、水を掬ぶ「むすび」は、元来「身体の内へ霊魂を容れる」「霊魂を結合させる」ことであり、それこそが「産霊の作法」だったというのです。

現在の国際情勢を見ても、戦争や紛争の大きな背景には、ユダヤ・キリスト教とイスラム教の一神教同士の対立があります。宗教的寛容性というものがないから対立し、戦争になってしまいます。

一方、800万の神々をいただく多神教としての神道のよさは、他の宗教を認め、共存していけるところにあります。自分だけを絶対視しない。自己を絶対的中心とはしない。根本的に開かれていて寛容である。他者に対する畏敬の念を持っている。神道のこういった平和的側面は、そのまま結婚生活や隣人とのつきあいに必要なものではないでしょうか。

神道の本質とは基本的に平和宗教であり、他者との共生という生き方と相性が良いのです。

いずれにせよ、「むすび」とは、本来、生成力つまり、自然の万物を生み出すクリエイティブな力を表わしました。やがてその言葉が、折口信夫が言うように、結合という概念と結びつき、異質なもの同士を結び合わせる力の表現にもなっていったのです。

ちなみに、「むすび」は「産霊」の訓読みですが、音読みした「サンレー」がわが社の社名となっています。

そして、私たちがサポートする「隣人祭り」では、節分とか観月会とか季節の年中行事などを取り入れながら、「祭り」的な要素を前面に打ち出しています。

地縁・血縁のつながりが弱まった20世紀とは、都市の時代でした。ことに20世紀後半は、生活のスタイルに大きな変化が起こりましたが、都市のマツリもそれにつれて変わっていくはずです。そして、「隣人祭り」こそは、イノベーションされた都市のマツリではないかと、わたしは思います。

松平氏は、1960年という年が、いわば都市生活が「社縁」一色になった時代であったといいます。男たちは否応なしに会社人間へと仕立てあげられ、個人の暮らしや家族の生活も、すべて会社での男の働きに優先されました。

こんないびつな暮らしが長続きするはずがなく、ひずみがあちことに目だってきました。

そのひずみの最たるものが孤独死や無縁死といった現象に他ならないでしょう。

こんな時代にこそ、必要なものがマツリです。マツリというものは、企業社会にとって余計なものにすぎないかもしれません。しかし松平氏は、「それでも、社会のひずみから、悲鳴のようなものがマツリの形をとって這いあがってくる」とし、次のように述べます。

「各地の自治体が先導する地域おこしの『ごった煮』マツリが現れては消えていった後に、地縁のつながりを破って、新たな都市生活のつながりを探ろうとするマツリが生まれてくるのである」

阿波おどり、YOSAKOIソーラン祭り、よさこい祭り、エイサーなどは全国各地に飛び火して、それぞれの新しい地元のマツリとなりつつあります。

また、京都の祇園祭が小倉祇園に受け継がれたように、青森ねぶた祭、博多祇園山笠としった伝統的な祭礼も、他の土地にそのDNAが受け継がれています。

祈りと感謝のかたち――人間は1人では生きていけない

人間とはマツリを求めずにはいられない存在なのかもしれません。現代人のマツリの意味を、松平氏は次のように問います。

「かつて『町内』が生活の軸になっていた当時、マツリは生活共同の証として、1年で一番大切な行事であった。その共同が生活から抜け落ちてしまったいま、こうしたマツリは人々にとってどんな意味を持っているのだろう」

マツリのはじまりは「神と人との関係」にありました。

でも、現在では「人と人との関係」に重心が移動してきているのではないでしょうか。

古来より、日本のマツリは人間関係を良くする機能を大いに果たしてきました。

ともにマツリに参加した人間同士の心は交流して、結びつき合うのです。

やはり、血縁も地縁もなくなりつつある今、都市生活者たちが開催すべきは「隣人祭り」でしょう。

大規模な都市祝祭としてのイベントもいいですが、日常的に開催できて人間関係を良くすることができる「祭り」の重要性が高まっています。

マツリの原点はカミへの祈りと感謝の「かたち」でした。ならば「隣人祭り」も、隣人への祈りと感謝の「かたち」であるべきです。

かつてのマツリが流行病という自然災害を防ぐための祈りであったなら、「隣人祭り」は犯罪や児童虐待や孤独死といった人災を防ぐ「祈り」です。

また、人間はだれでも1人では生きていくことはできません。周囲の人々のおかげ、地域のおかげで生きています。「隣人祭り」で、そのことに心からの感謝を捧げるのです。

「隣人愛」というのは、たしかにとても大切な概念です。でも、「隣人愛が大切」と念仏のように唱えているだけでは何も事態は改善できません。

そして、生きているはずの高齢者が白骨死体で発見されたり、幼児がマンションに置き去りにされて死亡するなど、現代の日本社会は改善すべき、いや解決すべき問題に満ちています。

ぜひ、「隣人愛」という〝こころ〟に「祭り」という〝かたち〟を与えなければなりません。「隣人祭り」の必要性をさらに強く痛感します。