閉講にあたって
隣人と祭りを!
宗教という難問
わたしは最近、隣人祭りと冠婚葬祭は似ていると思えてなりません。
まず、日常と非日常の違いはありますが、どちらも人間関係を良くするためのものです。
それから、本講にも書いたように、冠婚葬祭には家族を結びつける接着剤のような役割がありますが、さらに葬儀には「ひきこもり」から人を救い出す力があります。
葬儀は、いかに悲しみのどん底にあろうとも、その人を人前に連れ出します。引きこもろうとする強い力を、さらに強い力で引っ張りだすのです。葬儀の席では、参列者に挨拶をしたり、お礼の言葉を述べなければなりません。それが、残された人を「この世」に引き戻す大きな力となっているのです。
隣人祭りにおいても、人前に出るのが億劫になった高齢者の方々を地域の隣人たちに紹介することで、「ひきこもり」老人となって孤独死に至る悲劇を回避することができます。
つまり、冠婚葬祭も隣人祭りも、引きこもろうとする人を太陽の光の下に連れ出すことではないでしょうか。
太陽の光は万物に降り注ぎます。人間をはじめ、あらゆる生きとし生けるものは太陽のおかげで生命を保っていけるのです。
まことに太陽ほど、ありがたい存在はありません。日本人は、そんな太陽を「お天道さま」と呼んで限りない敬意を寄せ、朝日や夕日に手を合わせて拝んできました。そんな信仰を「天道思想」といいます。
この「天道思想」は江戸時代の思想家である二宮尊徳によって深められ広められていきましたが、その影響を強く受けた人物に賀川豊彦がいます。
本講でも紹介した大正時代最大のベストセラー作家・賀川豊彦は、日本を代表する社会運動家でもありました。
彼は労働組合、生活協同組合(生協)、農業協同組合(農協)など、じつに多くの組合組織を立ち上げ、育ててきました。評論家の大宅壮一は、かつて「およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると言っても、決して言い過ぎではない」と述べました。
しかし、彼はいわゆる何にでも飛びつく、いわゆる「ダボハゼ」ではありませんでした。
彼の多くの活動や多くの事業の源にあったものは、キリスト教の伝道でした。
もちろん若い頃は路地伝道などにも努めましたが、キリスト教の伝道のために、賀川豊彦は本を書き、多くの社会運動を手がけ、事業を起こしていったのです。
その姿は、わたしの目指す「天下布礼」の道に通じるものではないかと思います。もちろん、わたしごときを賀川豊彦と比べるなど不遜の極みであると承知しています。
かつて織田信長は、武力によって天下を制圧するという「天下布武」の旗を掲げました。
しかし、わたしたちは「天下布礼」です。武力で天下を制圧するのではなく、「人間尊重」思想で世の中を良くしたいのです。
わたしたちの小ミッションは「冠婚葬祭を通じて良い人間関係づくりのお手伝いをする」です。冠婚葬祭ほど、人間関係を良くするものはありません。しかし、ひとつの家庭から結婚式や葬儀が出されるのは20年あるいは25年に1回などとされています。
冠婚葬祭とは非日常の祭りなのです。4半世紀に一度しか、人間関係を良くするお手伝いができないのは寂しいですから、わたしは日常的にも何か人間関係を良くするお手伝いができないかと考えました。その結果、出会ったのが隣人祭りです。
わが社は冠婚葬祭互助会ですが、互助会には「相互扶助」という根本理念があります。これは「隣人祭り」の精神にも通じるものです。隣人祭りを中心とした隣人交流イベントを開くことによって、互助会は本来の使命感と志、そして社会における機能と役割を取り戻すのではないかと思います。
そして「相互扶助」という名の魂を再び得た互助会は、社会の無縁化を食い止める防波堤として最大級の存在感を示すのではないでしょうか。わたしは、無縁社会は互助会が解決すると信じています。
そして、わたしたちの理想はさらに大ミッションである「人間尊重」へと向かいます。
太陽の光が万物に降り注ぐごとく、この世のすべての人々を尊重すること、それが「礼」の究極の精神です。
わたしは冠婚葬祭会社を経営するのも、本を書くのも、大学で教鞭を取るのも、隣人祭りの開催をサポートするのも、すべては「人間尊重」の思想を広く世に広めるという「天下布礼」の精神で行なっています。
賀川豊彦も、多様な活動を「人間回復」「人間解放」「人間建設」のために行なったと自身で明言しています。ならば、賀川豊彦の人生とは「天下布礼」そのものの生き方であったのではないかと思います。
「礼」とは儒教のコンセプトであり、キリスト者であった賀川豊彦には当てはまらないという人がいるかもしれませんが、それは違うと思います。
孔子が唱えた「礼」とは、つまるところ「人間尊重」ということです。賀川豊彦が信仰したイエスの教えである「人間回復」「人間解放」「人間建設」なども、結局は「人間尊重」ということではないでしょうか。すなわち「人間尊重」とは、儒教もキリスト教も超越した人類の普遍思想なのです。
いま、日本は「無縁社会」などと呼ばれています。ぜひ、これを「有縁社会」へと変えなければなりません。
人間には、家族や親族の「血縁」をはじめ、地域の縁である「地縁」、学校や同窓生の縁である「学縁」、職場の縁である「職縁」、趣味の縁である「好縁」、信仰やボランティアなどの縁である「道縁」といったさまざまな縁があります。その中でも「地縁」こそは究極の縁ではないでしょうか。
なぜなら、ある人の血縁が絶えてしまうことは多々あります。かつての東京大空襲の直後なども、天涯孤独となった人々がたくさんいたそうです。
また、「学縁」「職縁」「好縁」「道縁」がない人というのも、じゅうぶん想定できます。
しかし、「地縁」がまったくない人というのは基本的に存在しません。なぜなら、人間は生きている限り、地上のどこかに住まなければいけないからです。地上に住んでいない人というのは、いわゆる「幽霊」だからです。
そして、どこかに住んでいれば、必ず隣人というものは存在するからです。それこそ、「地球最後の人類」にでもならない限りは。
わたしは、高齢者の安否確認は、地域住民の役割だと思います。わが社が冠婚葬祭事業を展開している宮崎県の延岡市では、独居老人は毎朝、自宅の玄関先に黄色いハンカチを掲げます。それを地域の人々が見て、安否確認をするのです。ハンカチが掲げてあれば、「今日も元気だな」と安心します。掲げていなければ、「何かあったのでは?」と思って、すぐに駆けつけるのです。映画「幸せの黄色いハンカチ」から着想を得たそうですが、素晴らしいアイデアだと思います。
今後、独居老人と地域とをつなぐ「隣人祭り」の重要性も高まるばかりです。
隣人祭りを開催することは、けっして難しいことではありません。だれにでも開催できます。もちろん、あなたにもできます。
隣人祭りを開催する理由は何でもいいのです。近所に咲いた桜をみんなで楽しむ花見を兼ねてもいいし、夏なら花火大会を、秋ならお月見を兼ねてもいいのです。
おすすめは、あなたの「となりびと」の誕生祝を兼ねた隣人祭りです。あらゆる人には誕生日があります。誕生日を祝うことは、「あなたがこの世に生れたことは正しいですよ」「そして、今日まで生きてこられたことは正しいですよ」「これからもお元気でいてください」という意味が込められており、その人の存在を全面的に肯定することです。まさに「人間尊重」そのものです。
となりびとの誕生日に「おめでとう」の声をかければ、必ず「ありがとう」という声が返ってくるはずです。「おめでとう」と「ありがとう」に満ちた地域社会、ここからハートフル・ソサエティは生れるのだと思います。
さあ、あなたも、となりびとの誕生日をおぼえてください。そして、その人の誕生日を祝う隣人祭りを企画してください。さらには、あなたが考えたオリジナルな隣人祭りを開いてみてください。
隣人と祭りを! すべては、ここから始まります。
いよいよ、隣人の時代が来ました。