平成心学塾 隣人篇 有縁社会のつくり方 #004

生きることは、つながること

「今どき社員旅行」のワケ

わが社は、毎年、社員旅行を行なっています。数年前には全国のグループを3班に分けて総勢500名の上海旅行を行ないました。

今どき、こんな大人数で社員旅行をする会社は全国あまり見当たらないようで、旅行会社の人は「まず、聞いたことがありません」と話していました。どんな大企業でもないそうです。

いや、大企業ほど、こういった社員旅行はなくなる一方とか。セクハラをはじめとした人間関係のわずらわしさから、旅行はもちろん忘年会などもどんどん縮小傾向にあるようです。どうも、日本中の会社が「人間嫌い」の方向に向かっているような気がします。

それには、加速化する一方のIT化の影響も大きいでしょう。みんな1日中、机の上のパソコンにばかり向き合って、人間と向き合わない、そんな会社ばかりになりました。

いや、会社というより、社会そのものがそうです。例の個人情報保護法の関係で同窓会や町内会の運営も難しくなっています。ますます人と人が接触する機会が失われてしまう。社会全体が「人間嫌い」になっているのです。

しかし、わたしたちは絶対に人間嫌いになってはなりません。なぜなら、わたしたちは人間を相手にするのが仕事だからです。逆に、人生で最大の喜びや悲しみのお世話をさせていただくホスピタリティ・サービスを業とするわたしたちはだれよりも人間好きにならなくてはなりません。

人間を好きになることは、一緒に働く職場の仲間を好きになることから始まります。その人を好きになるには、その人と話し、その人を知ることが一番です。それには、海外旅行という最高のシチュエーションで「思い出」を共有することが一番でしょう。

考えてみれば、夫婦だってお互いをよく知り、お互いをさらに好きになるために新婚旅行に行くではありませんか。

だから、わたしたちは「人間嫌い」化という世の流れに逆らって、あえて500名の大旅行を企画し、実行しているのです。

サラリーマンが会社を辞めたくなる理由――人間関係は難しい

社会というものは、結局、人間の集まりです。そこで「人間関係」というキーワードが出てきます。最近は「人間関係」をテーマにした本が多く出版され、大きな関心を集めているようです。

人間関係は難しいものです。人間は1人では生きられません。だから、死ぬまで人間関係には悩まされます。特に会社という組織の中にあっては、その悩みは尽きないようです。サラリーマンが会社を辞めたくなる理由でも、いつもトップにくるのは職場の人間関係だそうです。仕事のつらさ、給料の安さなどより、人づきあいのほうが大きなウエイトを占めているというのです。

そもそも「人間」という字が、人はひとりでは生きてゆけない存在だということを示しています。作家の五木寛之氏は、人間は「関係」がすべてであり、何よりも必要なのは「より良い新しい関係」であると、著書『人間の関係』(ポプラ社)で断言しています。

五木氏は、シナプスというものに注目しました。人間の脳の細胞は日々こわれていき、再生しないまま減っていくそうですが、この脳の神経細胞それぞれのあいだをつなぐ大事な役割を担っているのがシナプスです。

人間は歳をとると、脳の細胞が減少して、ボケていくだけではありません。ときにはシナプスが思いがけぬ力を発揮して、細胞間の関係を調整し、連携しあい、なんとか減少した細胞を組織して、やりくりをつける働きをするのです。

日本人の自殺率上昇が問題になっていますが、自殺にはその地域の人口や、家族数の減少が大きく関わっているようです。過疎化と人口の大都市集中が、自殺に関係があると言われますが、それを止める方法は今のところ見つかりません。

五木氏は、「そうだとすれば、人間の関係が希薄になっていくにつれて、自殺は増えるにちがいない。そうだとすると、たぶん、いま必要なのは、人間と人間とのあいだをつなぐシナプス、心のシナプスとでもいうべきものではないでしょうか」と述べています。

「相互扶助」は人間の本能である

よく、「人」という字は互いが支えあってできていると言われますね。では、それが人類の本能であるということはご存じだったでしょうか。

ダーウインは1859年に『種の起源』を発表して有名な自然選択理論を唱えましたが、そこでは人類の問題はほとんど扱っていませんでした。進化論が広く知れわたった12年後の1871年、人間の進化を真正面から論じた『人間の由来』を発表します。

この本でダーウインは、道徳感情の萌芽が動物にも見られること、しかもそのような利他性が社会性の高い生物でよく発達していることから、人間の道徳感情も祖先が高度に発達した社会を形成して暮らしていたことに由来するとしたのです。そのような環境下では、お互いに助け合うほうが適応的であり、相互の利他性を好むような感情、すなわち道徳感情が進化してきたのだというわけです。

このダーウインの道徳起源論をさらに進めて人間社会を考察したのが、ピョートル・クロポトキンです。クロポトキンといえば、一般にはアナキストの革命家として知られています。しかし、ロシアでの革命家としての活動は1880年半ばで終わっています。その後、イギリスに亡命して当地で執筆し、1902年に発表したのが『相互扶助論』です。ダーウインの進化論の影響を強く受けながらも、それの「適者生存の原則」や「不断の闘争と生存競争」を批判し、声明が「進化」する条件は「相互扶助」にあることを論証した本です。

この本は、トーマス・ハクスレーの随筆に刺激を受けて書かれたそうです。ハクスレーは、自然は利己的な生物同士の非情な闘争の舞台であると論じていました。この理論は、マルサス、ホッブス、マキアヴェリ、そして聖アウグスティヌスからギリシャのソフィスト哲学者にまでさかのぼる古い伝統的な考え方の流れをくみます。その考え方とは、文化によって飼い慣らされなければ、人間の本性は基本的に利己的で個人主義的であるという見解です。

それに対して、クロポトキンは、プラトンやルソーらの思想の流れに沿う主張を展開しました。つまり、人間は高潔で博愛の精神を持ってこの世に生まれ落ちるが、社会によって堕落させられるという考え方です。平たく言えば、ハクスレーは「性悪説」、クロポトキンは「性善説」ということになります。

コマドリの巣の中で

『相互扶助論』の序文には、ゲーテのエピソードが出てきます。博物学的天才として知られたゲーテは、相互扶助が進化の要素としてつとに重要なものであることを認めていました。1827年のことですが、ある日、『ゲーテとの対話』の著者として知られるエッカーマンが、ゲーテを訪ねました。そして、エッカーマンが飼っていた2羽のミソサザイのヒナが逃げ出して、翌日、コマドリの巣の中でそのヒナと一緒に養われていたという話をしました。

ゲーテはこの事実に非常に感激して、彼の「神の愛はいたるところに行き渡っている」という汎神論的思想がそれによって確証されたものと思いました。「もし縁もゆかりもない他者をこうして養うということが、自然界のどこにでも行なわれていて、その一般法則だということになれば、今まで解くことのできなかった多くの謎はたちどころに解けてしまう」とゲーテは言いました。

さらに翌日もそのことを語りながら、必ず「無尽蔵の宝庫が得られる」と言って、動物学者だったエッカーマンに熱心にこの問題についての研究をすすめたといいます。

クロポトキンによれば、きわめて長い進化の流れの中で、動物と人類の社会には互いに助け合うという本能が発達してきました。近所に火事があったとき、私たちが手桶に水を汲んでその家に駆けつけるのは、隣人しかも往々まったく見も知らない人に対する愛からではありません。愛よりは漠然としていますが、しかしはるかに広い、相互扶助の本能が私たちを動かすというのです。

クロポトキンは、ハクスレーが強調する「生存競争」の概念は、人間社会はもちろんのこと、自然界においても自分の観察とは一致しないと述べています。

生きることは血生臭い乱闘ではないし、ハクスレーが彼の随筆に引用したホッブスの言葉のように「万人の万人に対する戦い」でもなく、競争よりもむしろ協力によって特徴づけられている。現に、もっとも繁栄している動物は、もっとも協力的な動物であるように思われる。もし各個体が他者と戦うことによって進化していくというなら、相互利益が得られるような形にデザインされることによっても進化していくはずである。以上のように、クロポトキンは考えました。

クロポトキンは、利己性は動物の伝統であり、道徳は文明社会に住む人間の伝統であるという説を受け入れようとはしませんでした。彼は、協力こそが太古からの動物の伝統であり、人間もまた他の動物と同様にその伝統を受け継いでいるのだと考えたのです。

「オウムは他の鳥たちよりも優秀である。なぜなら、彼らは他の鳥よりも社交的であるからだ。それはつまり、より知的であることを意味するのである」とクロポトキンは述べています。また人間社会においても、原始的部族も文明人に負けず劣らず協力しあいます。農村の共同牧草地から中世のギルドにいたるまで、人々が助けあえば助けあうほど、共同体は繁栄してきたのだと、クロポトキンは論じます。

「結」と「講」の遺産――日本のボランティアの源流

アリストテレスは「人間は社会的動物である」と言いましたが、近年の生物学的な証拠に照らし合わせてみると、この言葉はまったく正しかったことがわかります。結局、人間はどこまでも社会を必要とするのです。人間にとっての「相互扶助」とは生物的本能であるとともに、社会的本能でもあるのです。

そして、20世紀の日本において、「相互扶助」のコンセプトは冠婚葬祭互助会というシステムになりました。終戦直後に横須賀で生まれ、全国に広まっていった互助会の歴史は60年に及びます。しかし、実はきわめて日本的な風俗・習慣に根ざした「結(ゆい)」や「講(こう)」にルーツはさかのぼります。

「結」は、奈良時代からみられる共同労働のことです。特に農村に多くみられ、地域によっては今日でもその形態を保っているところがあります。この共同労働は労働の相互提供であり、田植えや収穫時期、あるいは屋根のふきかえなどを通して、労働力が対等に交換されることを原則としています。また、この相互の労働力交換の根底には、労働に対する「賃借」の観念があり、そのことが今日に至って結婚式や葬儀といった互助会の「役務提供」に姿を変えて反映したと言えます。

一方、「講」は、「無尽講」や「頼母子講(たのもしこう)」のように経済的「講」集団を構成し、それらの人々が相寄って少しずつ「金子(きんす)」や「穀物」を出しあい、これを講中の困窮者に融通しあうことをその源流としています。いわゆる互助的無利息融通組合であり、この「講」の歴史は鎌倉時代までさかのぼることができます。特にこの経済的「頼母子講」の特色は、親と呼ばれる発起人と数人ないし数十人の仲間で組織がつくられ、一定の給付すべき金品を予定し、定期的にそれぞれ引き受けた口数に応じて、くじ引きや入札の方法で、順次金品の給付を受ける仕組みとなっています。このシステムは関西にはじまり、江戸時代に関東へと広まり、庶民の金融機関として全国に普及しました。

実は今、寺院や美術館で見られる運慶や快慶を頂点とする鎌倉美術や鎌倉建築のほとんどが、「講」の遺産なのです。また、鎌倉後期に仏教の戒律を復興し、真言律宗を組織した叡尊(えいそん)や忍性(にんしょう)は、「講」を募って、癩(らい)病救済や貧民救済の事業を起こしました。日本の福祉事業のルーツもほとんどこのような「講」からはじまったのです。

この2人の活動は日本のボランティア活動の最初の頂点を築くものとして、また、介護問題が重視されている今日的な課題の発端を築いたものとして、今とりわけ高く評価されています。

このような「結」と「講」の2つの特徴を合体させ、近代の事業として確立させたのが冠婚葬祭互助会のシステムなのです。日本的伝統と風習文化を継承し、「結」と「講」の相互扶助システムが人生の二大セレモニーである結婚式と葬儀に導入され、互助会を飛躍的に発展させる要因となりました。

互助会から互助社会へ。「相互扶助」という人類普遍のコンセプトを形にし、「人間尊重」の思想を実現することが、わが社をはじめとした、すべての互助会のミッションであると思います。

ひきこもり群は増殖する

ひきこもり」が大きな社会問題になっています。わたしは、2010年7月24日の「読売新聞」朝刊のトップ記事を見て、驚きました。「ひきこもり 70万人」という大見出しが出ていたからです。その横には、「内閣府推計 予備軍も155万人」と出ています。内閣府が初めての「ひきこもり」の全国調査を行なって発表したのです。

「普段は家にいるが、自分の趣味に関する用事の時だけ外出する」
「普段は家にいるが、近所のコンビニなどには出かける」
「自室からは出るが、家からは出ない」
「自室からほとんど出ない」
以上の状態が6カ月以上続いている人が「ひきこもり群」と定義されたそうです。
また、
「家や自室に閉じこもっていて外に出ない人の気持ちがわかる」
「自分も家や自室に閉じこもりたいと思うことがある」
「嫌な出来事があると、外に出たくなくなる」
「理由があるなら家や自室に閉じこもるのも仕方がないと思う」
以上の4項目すべてを「はい」と答えたか、3項目を「はい」、1項目を「どちらかといえば、はい」と回答した人が、「ひきこもり親和群」と分類されました。

その有効回答と人口推計を掛け合わせた結果、「ひきこもり群」は70万人、「ひきこもり親和群」は155万人と推計できるというのです。

それにしても、想像以上に大きな数字でした。日本は、「ひきこもり大国」と呼ばれても仕方がありませんね。

「ひきこもり群」には男性が多く、66%を占めるそうです。自殺にしろ、孤独死にしろ、無縁死にしろ、女性に比べて男性が圧倒的に多いことが知られています。女性のほうが社会性があり、人間関係を作るのが得意なようですね。

それから、「ひきこもり」になったきっかけとしては、「職場になじめなかった」と「病気」がともに23.7%となっています。

「職場になじめなかった」というのは、おそらく人間関係に起因する部分が大きいと思われます。「人間関係がうまくいかなかった」という直接的な表現の人は11.9%です。

でも、わたしは「職場になじめなかった」「不登校(小学校・中学校・高校)」、「大学になじめなかった」とも、広くは「人間関係がうまくいかなかった」に分類すべきではないかと考えます。そうすると、人間関係がうまくいかなかったために「ひきこもり」になった人の割合は、なんと54.3%にものぼるのです。

今回の調査の企画分析委員の座長を務めた明星大学の高塚雄介教授(心理学)は、次のように警鐘を鳴らしています。

「『ひきこもり親和群』は若者が多い。そうした若者が社会に出て、辛うじて維持してきた友人関係が希薄になったり、新しい環境に適応できなかったりして、『ひきこもり群』がじわじわ増える」

「ひきこもり群」または「ひきこもり親和群」が、将来的に「うつ」につながる可能性もあります。そして、「うつ」は自殺の最大原因とされています。

これでは、日本社会は菅首相のいう「最小不幸」どころか「最大不幸」の社会になってしまいます。

調査にあわせて、内閣府は自治体や学校への支援の手引書をまとめたそうです。

読売新聞政治部の青木佐知子記者は、「家庭、学校、地域社会が、人ごとでないとの意識で連携する必要がありそうだ」と述べ、記事を結んでいます。

迷惑とは何か?

本当に、人ごとではありません。そして、問題は「ひきこもり」だけではありません。つまるところ、自殺者の増加、孤独死の増加、無縁社会、そして葬式無用論といった一連の問題は、すべて「人間関係の希薄化」に集約されるのです。

無縁社会のキーワードは「迷惑」という言葉かもしれません。みんな、家族や隣人に迷惑をかけたくないというのです。

「残された子どもに迷惑をかけたくないから、葬式は直葬でいい」「子孫に迷惑をかけたくないから、墓はつくらなくていい」「失業した。まったく収入がなく、生活費も尽きた。でも、親に迷惑をかけたくないから、たとえ孤独死しても親元には帰れない」「招待した人に迷惑をかけたくないから、結婚披露宴はやりません」「好意を抱いている人に迷惑をかけたくないから、交際を申し込むのはやめよう」……。

すべては、「迷惑」をかけたくないがために、人間関係がどんどん希薄化し、社会の無縁化が進んでいるように思えてなりません。

そもそも、家族とはお互いに迷惑をかけ合うものではないでしょうか。子どもが親の葬式をあげ、子孫が先祖の墓を守る。当たり前のことであり、これのどこが迷惑なのでしょうか。

逆に言えば、葬式をあげたり墓を守ることによって、家族や親族の絆が強くなってゆくのではないか、わたしはそう思います。

日本人は「迷惑」ということを根本的に勘違いしているような気がしてなりません。行政も、孤独死に頭を悩ませるのなら、「迷惑防止条例」ばかり作らずに、「迷惑と考えること防止条例」でも作ったらいいのです。

NHK報道局・社会番組部ディレクターの板垣淑子氏は、NHK「無縁社会プロジェクト」取材班編の『無縁社会』(文藝春秋)の序章「“ひとりぼっち”が増え続ける日本」において、

「そもそも“つながり”や“縁”というものは、互いに迷惑をかけ合い、それを許し合うものではなかったのだろうか」と述べています。「迷惑をかけたくない」という言葉は、希薄な“つながり”を象徴し、日本社会には“ひとりぼっち”で生きる人間だけが増え続けているというのです。まったく同感です。

葬儀と隣人祭りの共通点

わたしは隣人祭りの役割とはある意味で葬儀に似ているのではないかと思っています。

葬儀は遺族同士、あるいは遺族と社会との接着剤の役目を果たします。愛する人を亡くした直後、残された人々の悲しみに満ちた心は、ばらばらになりかけます。それをひとつにつなぎとめ、結びあわせる力が葬儀にはあるのです。

多くの人は、愛する人を亡くした悲しみのあまり、自分の心の内に引きこもろうとします。だれにも会いたくありません。何もしたくありませんし、ひと言もしゃべりたくありません。ただ、ひたすら泣いていたいのです。

でも、そのまま数日が経過すれば、どうなるでしょうか。残された人は、本当に人前に出れなくなってしまいます。だれとも会えなくなってしまいます。

葬儀は、いかに悲しみのどん底にあろうとも、その人を人前に連れ出します。引きこもろうとする強い力を、さらに強い力で引っ張りだすのです。葬儀の席では、参列者に挨拶をしたり、お礼の言葉を述べなければなりません。それが、残された人を「この世」に引き戻す大きな力となっているのです。

そういった葬儀の役割と隣人祭りの役割には共通点があるように思います。人間というのは、他人とつながりたいと願う一方で、他人との関わりを煩わしいとも思うものです。

だれでも人づきあいに疲れて、1人になったとき、ほっとすることがあるでしょう。

ましてや、高齢者で身体がだんだん自由にならなくなったとしたら、人前に出ることそのものが億劫になるものです。家の中に1人でこもっていたほうが楽に決まっています。

でも、そんな気楽な生活を続けていると、そのうち本当に人前に出れなくなってしまうのです。一人暮らしの高齢者がそんな状態になったとしたら、待っているのは孤独死です。

ですから、葬儀の場合と同じく、だれかが強引に人前に連れ出す必要があるのです。それが隣人祭りではないかと思います。

考えてみれば、葬儀も隣人祭りも、天岩戸に引き篭もったアマテラスを外に連れ出す「岩戸開き」のようなものかもしれません。隣人祭りで、孤独な人の心に太陽の光が射すのです。

わが社の社名のサンレーには「太陽の光」という意味がありますが、陽が射さない暗い場所にひきこもっている人を太陽の光の当たる場所に導くこと。冠婚葬祭や隣人祭りを問わず、これがわが社の使命ではないかと思います。

なんとか、わたしたちは「ゆたかな人間関係」を再構築していかなければなりません。

それこそが、「最小不幸」どころか「最大幸福」の社会を創造する礎になると信じます。

やっぱり、ツィッターでつながるだけでなく、生身の人間同士が会わなければ!

さ と し わ か る か

「人と人とがつながる」ことの大切さを訴えている素晴らしい本があります。

福島令子著『さとしわかるか』(朝日新聞出版)です。

著者は、東京大学教授の福島智氏の母親です。

福島智教授は九歳で失明し、18歳で失聴した方です。いわゆる「盲ろう者」と呼ばれる障害者です。あのヘレン・ケラーと同じですね。福島教授は点字でたくさんの本を読み、勉強し、ついには東大教授になりました。そして、その傍らには、いつもお母さんがいました。

『さとしわかるか』の冒頭に、2007年4月の東大の入学式で福島教授が祝辞を述べたエピソードが出てきます。福島教授は、九歳のときに天体望遠鏡を両親から買ってもらう約束だったのに失明したので星を見ることがかなわなくなったという話をしたのです。

それを壇上で聞いていた東大の岡村定矩副学長は、後に著者にこう語ったそうです。

「祝辞の内容から、天体がお好きで宇宙に関する御造詣も深い方なのだと分かりました。同じ壇上に上がっていた私は感激で泣けて困りました。実は私も天体の研究者なのです」

この言葉には著者も胸を打たれたそうですが、福島教授は今でも宇宙に関心を持っており、祝辞の最後のほうでは次のように述べます。

「私は先ほど、『宇宙人に会うのが夢だ』と申し上げました。その夢は今も変わりませんが、実は既にその夢の一部は実現しています。なぜなら私たち全員は地球上にあって、太陽の周りを回りながら、そして天の川銀河の回転の乗りながら、大宇宙を共に旅する存在であり、まさに宇宙を共に生きている『宇宙人』同士だからです」

そんな母子に一筋の希望を与えてくれたものは点字でした。盲学校の入学式で歌った校歌には次のような歌詞が出てきます。

「月さえ 日さえ照らさぬも さやかに照らす 六つの星」

著者は、「六つの星」とは6つの点の点字のことだなあと気がついて、ぐっと胸に迫るものがあったそうです。点字は、たった6つの点の組み合わせでできているのです。

現在世界中で主に使われている6点の点字は、フランスの盲人ルイ・ブライユの考案です。それまでの盲人は、文字を表すことに苦労をしていましたが、今や世界中に点字が広まりました。

ブライユは盲人たちにコミュニケーションの手段を与えたわけですが、智少年の場合は点字だけでは足りませんでした。なぜなら、彼は視覚だけでなく、聴覚をも失ってしまったからです。

福島令子氏は、盲ろう者である息子のために、ある日、途方もない方法を考えつきました。まず、6つの点に対応させて、智少年の指をポンポンと叩きます。智少年の左手の人差し指、中指、薬指、右手の人差し指、中指、薬指。それを点字の1の点から6の点に見立てたのです。

その後、著者はゆっくり、はっきりと智少年の指に点字の組み合わせでタッチしました。

「さ と し わ か る か」

智少年は、「ああ分かるで」と答えました。

著者は、「通じた! 声を使わなくても言葉が智に通じた! 私は有頂天になった」と書いています。

「奇跡の人」と呼ばれたヘレン・ケラーがサリヴァン先生との出会いによって「ウォーター」という言葉を手の平で学ぶ感動的な場面はよく知られています。著者と智少年が指で会話した瞬間は、ヘレン・ケラーの「ウォーター」に匹敵する重要な瞬間でした。まさに、「世界初」の指点字が交わされた瞬間だからです!

SFの世界を生きる

こんな物すごい発明までも可能にしてしまう母の愛!

『聡分かるか』の「あとがき」で、福島令子氏は次のように書いています。

「人生にはときに思いもかけないことが起きることがあります。でも、どんなときも明るい発想ができたらいい。そのほうがまわりも元気になり、希望が持てます。幸いなことに、智は、すべての事柄を肯定的にとらえ、善意に解釈できる人間に育ってくれました。それが母としてももっともうれしいことです」

わが社では、「何事も陽にとらえる」をテーマにしています。「何事も陽にとらえる」すなわち「すべての事柄を肯定的にとらえる」とは、生きるうえでの最高の技術であり知恵なのかもしれません。

『さとしわかるか』はお母さんの書いた本ですが、福島智氏本人による『生きるって、人とつながることだ!』(素朴社)という本もあります。この本は、盲ろうの東大教授から現代人へのメッセージになっています。

福島智氏は1994年に「徹子の部屋」に出演したとき、黒柳徹子さんの「あなたのような盲ろうの方は、日本にどのくらいいらっしゃいますか?」という質問に次のように答えます。

「推計2万人。でも、そのほとんどがひっそりと家に閉じこもっておられると思います。ヘレン・ケラーは有名ですが、みなさんの身近にも盲ろう者がいることを、ぜひ知っていただきたいですね」

なんと、日本に2万人もの目も耳も不自由な方々がいたとは!わたしは、まったく知りませんでした。

そんな光も音も存在しない世界をどう生きるのか。福島智氏は、なんと自分はSFの世界を生きているといいます。そして、ある研究会で次のように語るのです。

「私はSFが大好きなんですよ。盲ろうというのは、いわば、SF的状態なんですね。光も音もないという世界に、どうやって対処していくか。これは、非日常的な状況の中で、あらゆる可能性を追求し、想像力をぎりぎりまで働かせていくというSF的発想が役立つんです。盲ろうになった私が生きていくうえで、SFはすごく役に立ちましたね。一番好きな作家は、小松左京です」

福島智氏は大の本好きで、いろんな本を点字で読みます。かつて盲ろうとなって落ち込んでいた彼に、いろいろな人が元気づけようと障害者関係の本を紹介してくれたりしたそうです。

そうした本の多くは、「見えなくなったけど、僕はがんばったのだ!」とか「重い障害を克服して、私は人生を切り開いたのよ!」といった内容のものでした。それらの本には実体験の重みがあり、感動的でもあるのですが、落ち込んでいる著者にしてみれば、こうした本を読んでも少しも元気が出なかったそうです。

一方、小松左京の『日本沈没』などのパニックSFに見られる、極限状況における人間の生きざまが、〝盲ろう〟という一種の極限状況のもとで生きる福島智氏にとって、不思議なエネルギーを与えてくれたのでした。

『日本沈没』『復活の日』『さよならジュピター』『首都消失』……小松左京は、これでもかこれでもかというくらい、極限状況下の人間を描きました。それらは、すべて福島智氏の「こころ」のエネルギーになっていったのです。

でも、彼が一番好きな小松作品は、『果てしなき流れの果てに』だそうです。本当に、人間の幸福とか文明について考えさせてくれるからというのです。

史上もっとも感動的な著者と読者の交流

福島智氏が小松左京の大ファンだと知って、ある小松左京の知人が著者を本人に会わせてくれます。憧れの作家に会った著者は緊張しながらも、自分がいかに小松作品によって救われてきたかを伝えたそうです。2人は大いに意気投合しました。

その後、しばらくして2人は再会します。

酔っぱらった小松左京は、次のように言い出します。

「僕はこれまでいろいろ書いてきたけど、福島くんのような人が点字で僕の作品を読んでくれているとは思わなかったなあ。前に会ったとき、僕の作品が『生きる上での力になった』って言ってくれたよね。僕はあのあと1人になってから、涙が出てきて仕方がなかった……」

それに対して、福島智氏は答えます。

「ええ、目が見えず、耳が聞こえないっていう盲ろうの状態自体が、言わば、〝SF的世界〟ですからね。でも、いったんそう考えてしまうと、何だか楽しくて、明るい気分になってきますし、不思議に生きる勇気や力がわいてくるんです。どんな状況におかれても、SFのように、きっと何か新しい可能性が見つかるはずだっていうふうに……。小松先生の作品には、人類の文明や社会のあり方を問い直すというテーマと同時に、圧倒的な逆境に立ち向かう人間の姿の素晴らしさ、そして、人の人生や幸福というものの意味を考えさせられるモチーフが裏にあると感じました。『復活の日』、『地には平和を』、『こちらニッポン……』、『継ぐのは誰か?』、そして『果てしなき流れの果てに』。みんな、そうですね」

そのとき、小松左京は絶句して、全盲の通訳者によれば、やっと次の言葉を絞り出したといいます。

「僕は……、こういうふうに僕の作品を読んでくれている人が、たった1人でもいた、とわかっただけで、これまでSFを書いてきた甲斐があったよ……、僕は……」

そこで声は途切れました。小松左京は泣いていたのです。この会話は、史上もっとも感動的な著者と読者との「こころ」の交流ではないでしょうか。

小松左京氏の他にも、福島智氏は多くの人々と知り合い、縁を深めていきます。本当に彼ほど人間関係が豊かな人はいないのではないかと思うほど、たくさんの人がその周りに集まってきます。

生きることは、つながることか

フランスの作家サン=テグジュぺリは、「真の贅沢とは人間関係の贅沢である」という言葉を残していますが、まさに福島智氏は「人間関係の贅沢」を満喫している人です。

もちろん、盲ろう者であるとか東大教授であることも影響しているかもしれませんが、それよりも、わたしは彼がユーモアに富んだ人であることが最大の原因だと思います。本講の至るところにも、ダジャレを含めて福島智氏のユーモアが満ち溢れています。

そして、究極の人間関係が夫婦であるとするなら、福島智氏は良き伴侶を得ました。奥さんは、もともとボランティア関係の仕事をしていましたが、盲ろう者である彼と結婚するにあたり、心配する両親や親族を根気強く説得して、見事に愛を実らせました。

人生の前半を母親に支えられ、現在は妻に支えられている著者は、こう述べます。

「私が住むこのコンディションの悪い『ホームグラウンド』での一緒のプレー(人生)を、あなたがエンジョイしてくれていることは、いつもさりげなく伝わってきます。少なくとも私にとっては、それがどれほど嬉しいことかわかりません」

「人生の幸福や夫婦の豊かな時間の共有にとって、障害の種類や程度、そして有無が、何ら本質的なものではないことをあなたの存在をとおして、より確かに、より深く確信することができました」

いま、お互いに対する思いやりを忘れている、すべての夫婦に読んでほしい文章です。

最後に、福島智氏は「学術博士」の学位を授与された自身の論文について触れています。

論文名は、「福島智における視覚・聴覚の喪失と『指点字』を用いたコミュニケーション再構築の過程に関する研究」です。

A4判で462ページにもなるというこの論文を書くことによって、2つのことがわかったと述べます。

1つは、視覚・聴覚などから得られる感覚的情報は、ただばらばらに与えられ認識されるものではなく、感覚的情報にも一定の「文脈」があるのではないかということ。

もう1つは、盲ろう者になった前後の福島智氏の内面をつきつめることで、人の存在が深い孤独に根ざしながらも、同時に他者により支えられているという認識にたどりついたことです。福島智氏は次のように述べます。

「つまり、一方で生存に伴う根元的な孤独の深さがあり、他方でそれと同じくらい強く他者の存在を『憧れる』というダイナミックな関係性がそこにはある。そして、孤独の生を生き抜くためには、他者の存在とそれを確信するためのコミュニケーションが不可欠と結論づけた」

わたしは、「隣人」というものを考える上で、この福島智氏の言葉から非常に多くのヒントを与えられました。

そう、生きるって人とつながることなんですね! 福島智氏は、〝盲ろう〟という世界の様子をわたしたちにリアル・レポートするとともに、人間にとって他者の存在が不可欠であるという真理を教えてくれます。

五木寛之氏は、人間と人間のあいだをつなぐ「心のシナプス」の重要性を訴えていますが、まさにそのことを福島智氏は存在そのものをもって示してくれているのです。

福島智という人は、間違いなく人類社会における重大なミッションを担っています。

隣人関係における心温まるエピソード

「無縁社会」などという言葉が流行語となる現在、家族や親族などの「血縁」が弱まっていることとともに、地域社会の人同士の絆である「地縁」も弱まってきています。そんな中、「隣人」というのが社会のキーワードになってきますが、わたしは親しみやすい表現として「となりびと」という言葉を使っています。

わが社では、2009年の4月1日から9月15日まで、「サンレー隣人ハートフル・エピソード」を募集しました。

「隣人との心のふれあい・助け合い」「隣人関係における心温まるエピソード」をテーマに体験談を広く募集したのですが、全国から600を超えるご応募をいただきました。

どのエピソードも素晴らしく、隣人との心の交流を通じて、人として生きる上で一番大切な「思いやり」や「感謝」の心が胸に迫ってきます。

大賞に選ばせていただいたのは、三重県亀山市の67歳の男性による次のようなエピソードでした。

「懐かしい長屋の温かい人のつながり」

終戦直後、日本中が貧しかった。その日食べるものすらない状況であった。

父は、昭和21年に復員し、出征以前に勤めていた会社に復帰したが、仕事らしきものはほとんどなかった。会社の社宅は、10軒続きの長屋であった。今では、想像もできないであろうが、まるで我が家のように隣近所の人は上がり込んで来た。そんなつき合いであるので、家族同様であった。

それから3、4年しても、まだ貧しい生活は続いていた。そんなある日、父も母も働きに出て、私と弟2人の時、隣のおばさんが丼に一杯盛った御飯を持って来てくれた。

「おばさんちの田舎から、お米を送って来てくれたので御裾分けです」

大きな丼を私の手に持たせた。喉から手が出るほど食べたくなった。弟2人も、白い御飯に生唾を飲み込んでいた。白い御飯など、何日も食べていなかった。

「お父さん、お母さんが帰ってからね」

食べたいのを堪え、水屋に仕舞った。夕方、父と母が帰るなり、

「隣のおばさんがね、白い御飯を食べてくださいって持って来てくれたよ」

早速、水屋から出して見せた。すると母は、家の丼に移し、丼を洗って母の実家から送って来た林檎を三ヶ丼に入れて礼を言いに行った。

その日の夕飯、私と弟2人の茶碗に蒸した白い御飯が一杯出された。父と母の茶碗は、おからであった。子供達だけに食べさせてくれたのである。父は、安い三級の焼酎を飲みながら、いつも黙黙としているのに、にこにこしながら。

「どうだうまいか、よかったな」

と上機嫌であったことを忘れることはない。

懐かしい時代の思い出は今も鮮やかに蘇る。貧しい生活ではあったが、あの長屋には、仄仄とした温かい人のつながりがあった。

ここには、家族や隣人との心のつながりが描かれています。このエピソードに出てくる「御裾分け」という心の交流も、今ではすっかり見られなくなってしまいました。

しかし、かつての日本人は、何か珍しい物、おいしい物を貰ったとき、自分たちだけで食べてしまわないで、隣人に御裾分けするという文化があったのです。

これは明治の文豪であった幸田露伴の幸福についての考え方につながると思います。

露伴は、幸福を引き寄せる3つの工夫としての「幸福三説」を唱えました。第1は「惜福」で、これは福を使い尽さないこと。第2は「分福」で、これは恵まれた福を分かつこと。そして第3は、社会のために貢献する「植福」である。

当時は貴重であった米を隣家に御裾分けするという行為は、まさに「分福」ということに他ならないと思います。

次にご覧いただくには、福岡県北九州市の64歳の女性によるエピソードです。

「隣のおばちゃん」

「あっこちゃん、ちょっと……」

隣家に面した縁側から控えめな声で私を呼んだのは、隣に住むおばちゃんである。声をかけられた時、私たち家族は数時間前に息を引き取った祖母の枕元で泣いていた。

彼女は亡くなった祖母の着物を1枚貸して、と言う。どうするのか尋ねると、

「今からおばあさんの行く道に、火が燃えて熱いところがあるそうなんよ。ちょっとでも熱くないよう着物の裾を濡らしてあげたいと思ってね」

濡れた着物は自分の衣紋掛けに掛けておくから、と続ける。

70歳を目前に逝った私の祖母と、あまり歳の離れていないおばちゃんとは、とても仲が良かったのだが、何かの拍子に気まずくなり、ここ数年は物も言わない状態が続いていた。言いたいことも山ほどあっただろうに、彼女は祖母を『長年の親しき友』として自分なりの方法で送ろうとしている。

あれから随分歳月が経った。私達の暮らした家は、現在、母と妹夫婦が住んでいる。すっかり過疎地になった実家周辺は、高齢のひとり暮らしの女性も少なくない。そこで比較的若くて面倒見のいい妹は、幾人もの高齢者から頼りにされているようである。

妹によると、独居老人の安否はゴミ出しの様子で分かると言う。元気な人は指定日に必ず出すが、具合を悪くした人は自宅前でもゴミを出せない。

隣のおばちゃんの場合、収集日にゴミが出ていないことから、家の中で倒れているのを発見され病院に運び込まれたそうだ。付き添った妹に何度も礼を言った彼女は、再び自宅に戻ることなく逝ってしまった。連れ合いを早く失い、子供もいなかった隣のおばちゃんは最期までひとりでよく頑張ったと思う。

還暦も過ぎ、今のところ元気な私は、お世話になった周囲の人たちに何かできることはないか、真剣に考えている。

最後に、隣人関係を考える上で忘れてはならない「平等」ということの大切さを強く感じさせてくれるエピソードを紹介したいと思います。兵庫県神戸市の78歳の男性によるエピソードです。

「敷居をまたげない人は居ない」

戦前の私の小学生のころの話である。

妹が10円札3枚が入っている朝鮮名で、朝鮮宛の切手の貼ってない手紙を拾って来た。私の町内の外れに10軒ほどの朝鮮人が住んでいたが、その中の妹と同級生の子が居る家へ行けば「落とし主が分かるだろう」と、母と妹が尋ねて行った。就学が遅れて妹より年かさの同級生の高村さんの家では「朝鮮の親元への送金を落とした」と、父親が泣いていた。

父親は、古布・古新聞などを集めて生計を立てていたが、自分らは食べるものも食べずに、朝鮮の親元へ送金していた。家計がたいへんなことを知っていたので、父親がその時にかき集めた一銭玉十数枚を「謝礼」として出したても、母は断ったらしい。

そして母は、これを機会に「娘さんをうちに遊びに来させてください」と言うと、その母親が驚いたように「遊びに行ってもよいのですか」と言う。当時は町内で「朝鮮の子どもと遊んではいけない」と言われていた。

その年かさの娘さんは遊びに来て、妹たちに朝鮮の遊びを教えたり、私の母の台所を手伝って朝鮮料理を作ったりした。それが近所では少しずつ評判になっていった。

娘さんが遊びに来るようになり、数日すると町内の顔役が来て「朝鮮人に敷居をまたがさないでくれ」と言う。すると、まだ元気であった祖母は「うちの敷居をまたげない人は居ない。人種差別をしてはいけない。そんなことを言いに来るのなら、うちの敷居をまたがないでくれ」と帰ってもらった。朝鮮人蔑視の時代だから勇気の要る言葉である。

それ以後は、他の子どもも朝鮮の子と少しずつ遊ぶのが増えていくのであった。

終戦直後の祖母の葬式には、「このぐらい居たのか」と思うほどの多くの朝鮮人が参列した。他の部落からも参列したと思う。そして朝鮮人たちが集団帰国をする時には「最期に日本で良い思いをしたことは忘れない」と、多くの人があいさつに来た。

ここには、日本人が忘れてしまった大切な心が詰まっていると感じました。そして、その心とは「となりびと」の心なのだと気づきました。