平成心学塾 聖典篇 知れば知るほど面白い #003

儒教の聖典

孔子は紀元前551年に生まれた。ブッダとほぼ同時期で、ソクラテスより80数年早い。孔子とその門人の言行録が『論語』であり、『聖書』と並んで世界で最も有名な古典だと言えよう。

儒教における書物といえば、「四書五経」という言葉がよく知られている。すなわち、『論語』『大学』『中庸』『孟子』の四書と、『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋左氏伝』の五経である。しかし、本来は四書に先立って五経が存在したのである。

まず古代において、儒教の中心となる書物は「経書」と呼ばれ、それを解釈する学問は「経学」と呼ばれた。もともと『易』『書』『詩』『礼』『楽』『春秋』のいわゆる「六経」があり、それはまた「六芸」とも呼ばれた。ただ『楽』は音律を主としたもので他の経書と違った。そのため、テキストとして同等に取り扱うには問題があるということで、「六経」から『楽』を除いて「五経」と称した。いわゆる「四書五経」の「五経」である。

『易』は占いの書物であり、『書』は歴代統治者の号令の書物であり、『詩』は歌謡の書物であり、『礼』は儀礼の書物であり、『春秋』は魯国の歴史の書物であるなど、「五経」とはいずれも自然に積み重なった記録である。そこには一貫した主張もなければ体系もない。

また「五経」は著作年代が古く、そのため正確な解読が困難であり、専門にこれを研究し、その成果を伝授する人物が必要とされた。

そこで前漢の武帝は、「五経」それぞれに博士の官職を設置したのである。この五経博士は国家の庇護のもとその職務に従事した。その当時の政治が儒教を基本にしたものである以上、儒家の尊崇する「五経」の校定や解読が曖昧であることは許されなかったからである。五経博士の設置によって経学が公認され、五経という語も定着した。

漢代には隷書という書体が一般的であったので、五経博士は隷書で書かれたテキストを使っていた。「当時の文字」を意味する隷書は今文(きんぶん)と呼ばれ、今文で書かれたテキストを今文経(きんぶんけい)という。

ところが、武帝の時代に秦以前の古い書体で書かれたテキストが発見されたのである。前漢末からさかんに研究されるようになったこの古文テキスト全般は、今文経に対して古文経と呼ばれた。『周礼(しゅらい)』などが古文経にあたる。

漢代の今文経では『儀礼(ぎらい)』や『春秋』の解説書である『春秋公羊伝』などが現存し、古文経では『周礼』『毛詩(もうし)』や『春秋』の解説書である『春秋左氏伝』などがある。なお『易経』は、古今文の両方において内容がほぼ同じである。

五経は儒教経典の中核をなすが、漢代以後は五経以外の書、すなわち『春秋公羊伝』『穀梁(こくりょう)伝』、古文の『左氏伝』そして『論語』『孟子』が徐々に儒教書として重視されていく。

その儒教の創始者とは、言うまでもなく孔子である。孔子は特に古典の中から、おそらく内容重視で『詩』と『書』とを取り上げ、それを門人たちと研究した。『論語』には『易』のことも取り上げられているが、これを否定する学説もある。また『礼』や『楽』もしばしば問題になっているが、特にテキストをあげているわけではない。いわば孔子という人物は、当時積み重なっていた古典を最初に整理して研究した人物なのである。

いわゆる五経が人間生活のルール書とされたのは、ただ単に古いためであった。もちろん、古いということは多くの教訓を含んでもいるのだが、『論語』とは孔子一門における師弟の問答という手段によって、新しく開発された人間生活のルール書である。それはこれまでのような文書の積み重ねではなく、生きた社会の倫理を追求した中国最初の書物だったのである。そのため、五経に次いで尊重されるようになった。

孔子の門人は3000人にのぼったという。いささかオーバーな数字だとしても、孔子が中国最初の教師であったことは間違いない。しかしその子である鯉は孔子より早く没し、やがて孫の伋がその道を修め、魯の繆公の師になった。いわゆる子思のことである。この子思が著したとされるのが『中庸』である。

「四書」の一つである『中庸』は、同じく「四書」の『大学』とともに、もともとは五経の『礼記』の中に編入されたていたものだ。

いわゆる儒教の経典というものは古代人の記録の集成であり、これをはじめて考究した『論語』も孔子一門における問答の書であった。そこには古代人の智恵と、師弟による問答から導き出された、社会における人間の倫理が語られている。しかし、師弟問答の場で取り上げられた多くの徳目についての分析はほとんどない。「仁」にしろ「孝」にしろ、孔子は人によって道を説いており、そこに明確な徳目の定義などはないのである。

しかし『中庸』という書物は、最初から「中庸」ないし「中和」というコンセプトと真正面から取り組み、いわゆる道の根源は「天」にあって、人間はそれから離れることはできないという思想から展開しており、他の儒教書とはまったく趣を異にしている。

この点は、儒教と対照的な道教の思想に近いと言える。道教は魏晋六朝の士大夫層を支配していたが、その士大夫の興味を引くだけの内容を備えていたのだ。当時の思想界にも強い影響をおよぼした儒教関係の書物といえば、この『中庸』と『易』の二つであると言っても過言ではない。それゆえ、六朝から唐にかけて『中庸』の注釈が作られたのである。

また六朝から唐にかけては、道教の思想のみならず、仏教の思想が次第に士大夫層に浸透した。デリケートな論理構造を持った仏教思想に対する憧れが生じるとともに、仏教に対する激しい反発も起こった。後者を代表する人物こそ、唐の韓愈である。当時の皇帝がブッダの遺骨である仏舎利を迎えようとしていたが、それに対して過激な上奏を行ったために、韓愈は遠く潮州に左遷された。

この韓愈の思想を表明したものに「原道」という文があるが、彼はその中で儒教の伝統となった「道」を取り上げている。それによれば、この道は堯→舜→禹→周公→孔子→孟子と伝わったが、孟子が死んだ後は伝わらなくなったと述べている。この伝統論は、実は『孟子』に基づくものであり、こういったいわゆる道統を発掘したのが、韓愈の「原道」だったのだ。その「原道」にはまた、『礼記』の一部である『大学』の中から多くを引用しているし、「原道」の書き出しそのものが、同じく『礼記』の一部である『中庸』の書き出しを真似ている。

その意味では、韓愈は思想的に進んでいたわけではないが、数多い古典の中から「四書」を選んだのは韓愈にはじまることは間違いない。韓愈は、いわゆる古文家を開いた人物として知られ、世に「唐宋八家」と称せられるように、その影響は強く、宋にまで及んだ。宋学者たちが「四書」を重要視したのも、おそらくは韓愈の影響があったものとされる。

とりわけ、『論語』は孔子の著、『大学』は孔子の門人である曽参などの著、『中庸』は孔子の孫である子思の著、『孟子』は子思の門人に学んだ孟子の著として、そこに孔子→曽子→子思→孟子といった伝統を設定した結果、はじめ「四子」あるいは「四子書」と呼ばれていたものが、次第に「四書」という呼び方に落ち着いていったと思われる。

北宋期、儒教経典の決定版として「十三経(じゅうさんけい)」が確定した。『易』『書』『毛詩』『周礼』『儀礼』『礼記』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』『論語』『孝経』『爾雅(じが)』『孟子』の13種である。

南宋時代になると、朱子学を創設した朱熹すなわち朱子が現れ、『礼記』の中から『大学』と『中庸』を取り出して、『論語』『孟子』とともに儒学学習の入門書として位置づけ、これを正式に「四書」として重視したのである。また朱子は、『大学章句』『中庸章句』『論語集注(しつちゅう)』『孟子集注』といったすぐれた注釈書も著し、これらは儒学研究に大きな影響を及ぼすことになる。この朱子による顕彰以後、「四書」という言葉は完全に定着し、「五経」とあわせて「四書五経」と呼ばれるようになった。

「四書」の順序については、初学者の学習に便利であるということで最初は「大学・論語・孟子・中庸」とされた。朱子の『大学章句』には、子程子の言葉を引いて「大学は初学が徳に入る門であり〜論孟はこれに次ぐ」と書かれている。すると当然ながら『中庸』は「聖人の学問における究極の説である」ということになる。ただ、「四書」をまとめて普及させるためには、『大学』と『中庸』がそれぞれきわめて短いため、「大学・中庸」をまとめて一冊にするのが便利であると考えられ、「大学・中庸・論語・孟子」という順序になった。現在では、孔子→曽子→子思→孟子の伝統によって「論語・大学・中庸・孟子」とするものが一般的である。

では、『論語』とはいかなる書物か。

それは、何よりも日本において最重要視された聖典である。江戸時代の儒学者である伊藤仁斎が「宇宙第一の書」と呼び、昭和の陽明学者である安岡正篤が「最も古くして且つ新しい本」と読んだ本、それが『論語』である。安岡はまた、「現代を把握し正しい結論を得ようと思えば、『論語』で十分である、といっても過言ではない」と述べている。

西洋の人々は何か困った問題に直面すると、『聖書』を開いて、イエスの言葉に従って方針を立てることがしばしばある。同様に、日本の政治家や経営者といったリーダーの多くは、『論語』に出てくる文句を思い浮かべ、それによって行動や態度を決してきたのである。

『論語』は、千数百年にわたって私たちの先祖に読みつがれてきた。意識するしないにかかわらず、これほど日本人の心に大きな影響を与えてきた書物は存在しない。特に江戸時代になって徳川幕府が儒学を奨励するようになると、必読文献として教養の中心となった。武士階級のみならず、庶民の間にも広く普及したが、そのことは落語や川柳にまで『論語』が登場したことからもわかる。また、名優の心得をさとした本に『役者論語』という名がつけられたり、『葉隠』が別名『鍋島論語』と呼ばれたりした。

たとえば、「和をもって貴(たっと)しと為(な)す」とか「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」とか「義を見て為さざるは、勇なきなり」とか「後生畏るべし」とか「己の欲せざるところ、人に施すこと勿(なか)れ」といったよく知られ、現代でもよく使われる言葉は、すべて『論語』に由来する。すなわち、古代中国の言葉を集めた『論語』は現代の日本ともつねに交響している。古典とは人々に智恵を与え、生きる力の源となるものであり、誰にとっても当てはまる共通の言葉が豊富に残されているものだが、その最たるものこそ『論語』なのである。

その『論語』には何が書かれているか。

最初の最初の言葉、つまり巻一の学而(がく)第一の篇の冒頭には、「学んで時に之を習う。亦(また)悦ばしからずや」とある。この「学んで習う」とは、具体的にどういうことをしたのか。一般的な解釈なら、教科書で学び、ノートを取り、それを後でまた復習するということになる。しかし、それなら「時に」復習する必要があるだろうか。むしろ、不時に、つまり時を定めずに習うべきではないだろうか。

『史記』の「孔子世家」の末には、司馬遷当時のこととして、「諸生、時を以て礼を其家に習う」とあり、これが参考になる。これは漢代の諸生が、孔子の存命中に行われたことをそのまま繰り返したことと思われるが、『論語』研究の第一人者として知られる宮崎市定は、著書『論語の新しい読み方』に次のように書いている。

「孔子はもともと礼の師であった。礼とは大にしては朝廷の国家的な大儀式から、下は郷党、個人の家における吉凶祭喪の儀式を含み、これには常に音楽が伴う。その礼を助けて俸給、あるいは謝礼を貰うのが学徒の生活手段であった。そこで論語本文にいう学習の対象は、実際には礼であったと見て差支えない。次に習には習武という用法が示すように、総ざらえの意味がある。京都の『みやこ踊り』は地元の祇園では温習会というのだそうである。すると、時にこれを習う、とは、期日をきめて弟子たちが総出で、温習会を開くことになる。たしかにこれは孔子学園の最も楽しい行事だったのであろう」

また、『論語』には「君子」という言葉が多く登場する。君子は小人に対して用いられ、初めは地位のある人を意味したが、後には有徳の人を指すようになってきた。孔子ももちろんその用法に従っているが、重要なことは君子はいわゆる聖人とは異なるということである。現実の社会に多く存在しうる立派な人格者であり、生まれつきのものではない。憲問篇に「君子は上達す」とあるように、努力すれば達しうる境地、それが君子なのだ。そこで『論語』において君子という場合には、願望の意が込められていることが多い。

君子に関する記述をつなぎあわせていくち、『論語』とは古代中国のマネジメント書でもあったことがわかる。20世紀のマネジメントの巨人であるピーター・ドラッカーが提唱した時間活用のタイム・マネジメントや、「知」を重視したナレッジ・マネジメントなどの原型を『論語』に見ることができる。逆に言えば、世界初の経営書とされる『経営者の条件』をはじめとして一連の著書でドラッカーが説き続けた「人間尊重」の経営者像とは、限りなく君子のイメージに重なってくるのである。孔子は古代のドラッカーであり、ドラッカーは現代の孔子であると言えるかもしれない。ともに、社会における人間の幸福なあり方を追求したのである。

誰よりも孔子その人が君子であったと言える。儒教の君子というと、堅苦しくストイックな印象があるかもしれないが、孔子は決して、しかつめらしい説教家ではない。たとえば雍也(ようや)篇では、孔子が淫乱の評判がある不品行な女性と密会して弟子に非難されたりしている。述而篇のように間違いを指摘されることもあれば、陽貨篇などでは冗談も飛ばしている。先進篇では、不当な税金の取り立て役をつとめる弟子に激怒し、陽貨篇で自分も腕をふるいたいと率直に胸のうちを明かしている。

このように孔子は完全無欠な聖人としてではなく、血の通った生身の人間として描かれているのである。それは、きわめて人間臭い人物像だと言えよう。孔子が人類史上最大の「人間通」とされた秘密もそこにあった。何よりも、孔子は人間らしい人間だったのだ。

孔子は、古来よりあった「仁義礼智忠信孝悌」に代表される儒教の徳目を再編集した人物である。その孔子が『論語』で語ることは、もとより道徳が中心である。ただその道徳は「人の道」つまり「人間としての生き方」と言い直した方がより適切であるように、きわめて現実的かつ人間的なものである。これほどまでに日常的な生活から政治の問題まで広く配慮の行き届いた古典は、おそらく世界でも珍しいだろう。窮屈な道徳主義を予想した読者は、『論語』の楽天的な明るさに打たれるとともに、宗教が醸(かも)し出す神秘的な雰囲気がないことに驚くことだろう。

述而篇の「怪力乱神を語らず」という言葉は有名であり、これによって儒教が神の問題や死後の問題とは無縁であり、それゆえ宗教ではないといった誤解のもととなっている。しかし、本書を読んでこられた読者なら、これがまったくの誤解で、儒教ほど宗教らしい宗教はないことを理解されていることと思う。

儒教は、神や死後といった超自然的な問題について言葉ではなく、祭礼や葬礼といった儀礼によって語る宗教なのである。

しかし『論語』を読む限り、公治長篇に「老者はこれを安んじ、朋友はこれを信じ、小者はこれを懐(なつ)けん」とあるように、孔子の望みが日常生活での平安にあったということもまた事実だろう。老人には安心され、友人には信用され、若者には慕われたいというのである。日本における最大のロングセラーの一つである岩波文庫版の『論語』を訳した中国哲学者の金谷治は、その「はしがき」に次のように書いている。

「非人間的な聖人孔子を予想した読者は、この書物の中で、じょうだんを言ったり、自分の過失を指摘されて感謝したりしている孔子を見出して、とまどうであろう。孔子は親しみ深く、ものやわらかな態度で、われわれに語りかけてくるのである。それは、恐らくは簡古なすぐれた文章の力によるところも大きいであろう。そして、孔子が強調した仁の徳は、肉親の間での自然な愛情から発した、一種の調和的な情感をもとにしたものである。道徳の基礎は何よりもまず人間自身のうちにあった。そして、そのたくましいまでの人間肯定の精神こそ、いつの世にも、またどこででも、いかに強調されてもしすぎることのない『論語』の真価であるとしてよかろう」

たくましいまでの人間肯定の精神を持つ孔子は、努めて人生を楽しんだ人でもあった。「礼楽」というものを重んじ、音楽を愛した。「礼」が音楽を通じて実現されると考えていたからである。もともと音楽というものは、人間の心をやわらげるものである。「礼」は、天と人、君と臣、親と子、といったように二つのものを結びつける力を持っているが、ややもすると、形式に流れやすい一面がある。そうなると、逆に二つのものを離すことになってしまう。もともと「礼」というものは分(ぶん)を尊ぶので、使い方を誤ると、自然にその弊害が生じるのである。

「君臣の礼」といえば、君と臣の間にけじめをつける。「親子の礼」といえば、親と子の間にけじめをつける。その他、夫婦でも兄弟でもみな同じことである。そうすると、一方に「礼」をすすめていった場合、とかく「忠信の薄」ということになりがちである。かえって心が離れてしまうわけだ。そして、その弊害を消していくのが音楽なのである。

音楽は何よりもハーモニーという「和」を尊ぶものであり、二つのものを合わせる力がある。人々が集まって、一緒に音楽を奏すれば、そこにみんなの心が一つになる。また、過去の音楽を聞いていると、過去の人と現在の人の心が一つになってくる。これが音楽の持つ力だ。さらに「礼楽」について考えると、「礼」の根本は何よりもまず天=宇宙=神を祭ることであり、その天=宇宙=神と人間が交流するためのコズミック・アートが「楽」なのである。

また音楽のみならず、孔子は酒を好んだ。

というより、「礼楽」における音楽と同じく、「礼」を実践するには酒が欠かせないと孔子は考えたのである。郷党篇には「酒に量なし、乱におよばず」という言葉がある。私たちはよく、酒も飲まず、煙草も吸わない人を「聖人君子のようだ」などと言うが、孔子が酒を嗜(たしな)んでいたのは間違いない。儒教には他の宗教のように、酒を飲んではならないという戒律はない。逆に「礼」には酒も必要であり、実際に郷(村)から中央に推薦される者を郷飲酒礼と呼ばれる酒席で送別するという「礼」があったのである。

ブッダが酒を飲む姿は想像しにくいし、イエスも血に見立てた赤葡萄酒は飲んだかもしれないが、美味そうに飲んだとはとても思えない。その点、孔子は楽しく笑いながら酒を飲む姿が目に浮かぶようであり、何だか楽しくなってくる。

そう、「楽しい」ということが『論語』の本質かもしれない。『論語』には「楽しからずや」とか「悦(よろこ)ばしからずや」といったポジティブな言葉が多く発見できる。仏教経典や聖書には人間の苦しみや悲しみは出てきても、楽しみや喜びなど見当たらない。2500年前に書かれた『論語』にポジティブな言葉が多いのは大いに評価すべき点だろう。孔子は肉料理をはじめとした食にこだわり、きれいな色の着物を好んだ。

音楽を愛し、酒を飲み、グルメでファッショナブルだった孔子。そのうえ、2500年後の人間の心をつかんで離さないほど「人の道」を説き続けた孔子。彼には大いなる人間讃歌、現世肯定の精神が横溢していると言えよう。その孔子が生んだ儒教の世界とは、封建的だとか堅苦しいだとかいった浅薄な見方を超越した、このうえないハートフル・ワールドであるという事実を、何よりも『論語』そのものが豊かに教えてくれるのである。