ユダヤ教の聖典
ユダヤ教の聖典といえば『旧約聖書』がすぐに思い浮かぶが、実はユダヤ教にはこうした「旧約」という呼び方は存在しない。それはあくまでも、「新約」つまり神との新しい契約という概念を持ったキリスト教側に分類にすぎないからである。
また、一般の日本人は、『旧約聖書』が一冊の本であると考えていることが多い。しかし、教派によって若干の差があるものの、実際には、39もの異なった書物の複合体であり、そして本来、そのひとつひとつが章としてではなく、独立した本(ブック)として存在しているのである。そうした書物群は、宗教書というより歴史書、あるいは契約書といった内容である。
ユダヤ教は、いわゆる『旧約聖書』を「トーラー(律法)」「ネイビーム(預言者)」「ケトゥビーム(諸書)」の三つの基本的な部分に分類している。略してそれを「TNK(タナハ)」という。すなわち本来の意味でのトーラーである「モーセ五書」と「預言者」、そして他の文書とである。この三つが集まって、いわゆる『旧約聖書』となる。「モーセ五書」の最古の部分は前10世紀に遡るが、ケトゥビームの最も新しい部分は前2世紀より遡ることはない。
「モーセ五書」は、「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」から成る。ハリウッド映画の「天地創造」や「十戒」のスペクタル・シーンでよく知られているように、「アダムとイヴ」「カインとアベル」「ノアの箱舟」「バベルの塔」「エジプト脱出」「モーセの十戒」をはじめとしてスリリングな場面が次から次に展開する文学作品でもある。
ユダヤ人は、「モーセ五書」すなわち古い律法であるトーラーをそれぞれの時代に適用するにあたって解釈や注釈を加えてきた。これらは久しく口伝されてきたが、紀元の境をはさんだ数十年間に、ユダヤ教の教師であるラビたちがこれらの伝承を編集した。これが「ミシュナ」である。ミシュナは「繰り返す」が語源だが、一般には「教え」といった意味である。
ミシュナはほぼ全体として「ハラハー」、すなわち法規の書物であり、神学と説話の「アガダー」と対照をなす。紀元200年頃に完成したミシュナは、6巻の「スダリーム」に分類される63篇の口伝律法を含んでいる。すなわち、種子の巻である「ゼライーム」、祭日の巻である「モエード」、婦人の巻である「ナシーム」、損害の巻である「ネズィキーン」、聖物の巻である「コダシーム」、そして清浄の巻である「トホロート」だ。ミシュナに含まれない伝承は「バライタ」と呼ばれ、補遺である「トセフタ」に収集された。
しかし、ミシュナについての解釈がいろいろ生じ、それらがまとめられて「ゲマラ」と呼ばれた。ゲマラは「補完」を意味する。ミシュナとゲマラは次第に一つに集大成されていき、「タルムード」となった。
タルムードは「偉大な研究」を意味するが、この集大成ができる過程はパレスチナとバビロニアで異なる。前者は「エルサレム・タルムード」あるいは「パレスチナ・タルムード」と呼ばれ、4世紀末に成立した。6世紀に成立した後者は「バビロニア・タルムード」と呼ばれ、こちらのほうが分量も多く、重要視されている。普通は、タルムードといえば、このバビロニア・タルムードをさす。
ユダヤ人は今日に至るまで、毎日の生活のあらゆる面において、絶えずタルムードに教えられ、導かれ、慰められ、戒められてきた。事実上、彼らの聖典とは「タルムード」なのである。だが、タルムードは膨大なもので、全20巻、1万2000ページ、250万語以上、重さ75キロである。
なにしろユダヤ人5000年の知恵が集大成されたものだから、これを学ぶことは容易ではない。そのため「タルムード学校」が至るところにあり、一般のユダヤ人も、くり返しくり返し学ぶのである。2000年以上もの間、ユダヤ人たちが自分たちのアイデンティティを失わなかったのは、まさにタルムードのためだとも言えよう。日本人向けの著書も多いラビ・マーヴィン・トケイヤーは、「ユダヤ人がタルムードを守ってきたよりも、はるかにタルムードがユダヤ民族を守ってきた」と述べている。その意味で、現実に続いてきたユダヤ主義とは、タルムード主義だと言うこともできる。
キリスト教会は、この事実を無視しようとし、キリスト教の成立後、ユダヤ教は消滅したかのように扱っており、タルムードについてもあまり知ろうとしない。しかし歴史を通じて、タルムードの深い影響を恐れたキリスト教会は、くり返し焚書や禁書を命じてきた。実際、ユダヤ人が他民族に比べて学問があり、道徳的に高い生活を歴史的に続けてきたのは、民全体が常にタルムードを学び続けてきたからだと言えるだろう。
トーラーに次いで『旧約聖書』を成すネイビームは、預言者を意味する「ナービー」の複数形である。預言者とは、神の言葉を預かり、神の意思と裁きを人々に伝える仲介者をさす。『旧約聖書』において、これらの預言者たちが活躍する書は「前の預言者」と「後の預言者」の二つに大きく分けられる。
前の預言者の書は、「ヨシュア記」「士師記」「サムエル記(上・下)」「列王記」という、イスラエルが民族として登場した後の神と人との関係をテーマにした4巻である。
後の預言者の書は、預言者自身が民と王に語りかけるという体裁を持っている。「イザヤ書」「エレミヤ書」「エゼキエル書」の三大預言書と呼ばれるものに、12人の預言者たちの預言を集成した「十二小預言書」の四巻である。
これらの書は、預言者たちが激動の時代に指針を与え、トーラー、すなわち律法への回帰を訴えかけるユダヤ教思想のエッセンスとも言えるだろう。
トーラー、ネイビームに次ぐケトゥビームは、ヘブライ語で「書かれたもの」という意味である。神への賛美歌集、歴史書、金言集、黙示的預言書から恋愛歌まで、さまざまなジャンルの文学的諸書を集成したものである。
ヘブライ語聖書では、これらの諸書を4つに分類する。第一は詩文書で、「詩篇」「ソロモンの箴言」「ヨブ記」。第二は五つの巻物で、「雅歌」「ルツ記」「哀歌」「伝道の書」「エステル記」。第三は預言書で、「ダニエル書」。第四は歴史書で、「エズラ記」「ネヘミヤ記」「歴代記(上・下)」である。
これらの諸書は、ユダヤ人の民族的伝承から神への賛美、そして神義哲学に至るあらゆる文学的ジャンルを網羅しており、音楽や絵画にも多大なる影響を与えてきた。まさに、ヘブライズムの粋と言えるだろう。
こうしてトーラー、ネイビーム、ケトゥビームのTNK(タナハ)を概観して見ると、『旧約聖書』の本質とは、図書館のごとき文書の集大成であることがわかる。それぞれに含まれる書物の成立年代も、紀元前10世紀から紀元前2世紀にわたっており、口伝の詩歌などは紀元前12世紀頃にまでさかのぼる。これを日本に当てはめてみると、8世紀の『古事記』『日本書紀』から、10世紀の『古今和歌集』、11世紀の『源氏物語』、13世紀の『平家物語』、14世紀の『徒然草』を経て、17世紀から18世紀の井原西鶴や近松門左衛門の文学的作品、さらには19世紀の『蘭学事始』や『金色夜叉』までが含まれてしまうことになる。もしそれが刊行されたとしたら、日本歴史・文学大全集とでも呼ぶべきものになるだろう。『旧約聖書』とは、このように途方もなく巨大なスケールを持った書物なのである。