仏教の聖典
仏教の聖典は「経典」あるいは「お経」と呼ばれる。「経」という漢字には、「タテイト、動かないもの、不変の真理」といった意味があり、儒教の書物の分類でいうと「聖人の制作したもの」を指す。仏教の経典はインドまたは西域の国語から漢文に翻訳された。この場合には「スートラ」というインド語に「経」という漢字を当てはめたのである。
インドにおける「スートラ」とはもともと「糸」や「紐」を意味し、「モノサシに使う紐」にもなり、簡潔な「教訓」や「金言」などの文を指すようになった。仏教では、ブッダや、ブッダの弟子が説いた教義を記した書物のことをスートラと呼んだ。仏教聖典の重要な部分を占めるこのスートラは、一定の形式をそなえ、短いものでも数十語、長いものになると数百ページにおよぶものさえある。スートラの他、教団の規律を規定する「律」、哲学的理論を展開する「論」とあわせて、「経」「律」「論」の三蔵という。三蔵法師の「三蔵」だが、これで仏教聖典が構成されるのである。
したがってスートラすなわち「経」は聖典をなす三部門のうちの一つにすぎないわけだが、中国や日本では仏教聖典の全体を示すことが多い。「一切経」とか「大蔵経」という場合は、経・律・論のすべてを含める。なお現在の「大蔵経」には、中国人や日本人の著書で重要なものも収録されている。
「大蔵経」の量は膨大である。
「汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)」という言葉がある。牛が汗をかくほどの重さと、棟につかえるほど蔵書が非常に多いことで、転じて、多くの書籍を意味する。まさに「大蔵経」の世界がこれに当てはまるだろう。
「如是我聞(にょぜがもん)」すなわち、「このように私は釈尊から聞いたのだが」と最初に書けば何でも経典になる。あの『法華経』でさえ釈迦入滅後1000年以上も後になって作られたというが、その後も多くの経典が続々と作られている。仏教には『聖書』や『コーラン』のような啓典がないゆえに、経典の無限の成長を許したのである。
仏教経典は紀元後2世紀頃から、次々にインドのサンスクリット語原典から漢訳され、それを受け取った中国人は、大量の文献はすべてブッダの口から説かれた言葉の記録であると聞かされた。だがよく読んでみると、同じ仏教経典でありながら教理的に矛盾するものがあり、また矛盾する理由もそれら経典自身の中で説明されていることを発見した。それによると、ブッダは聴衆の能力に応じてそれぞれにふさわしい教えを説いたのであり、説法の内容にレベルの差があるのは当然だというのである。いわゆる「方便」である。
そこで中国の宗教組織者は、仏教経典のどれが高レベルで、どれが低レベルであるのか、どれがブッダの真意で、どれが方便説であるのかに最大の関心を抱いた。そして、経典を分類し、位置づけを行うことに情熱を傾けたのである。
最初に登場するのは6世紀の智顗で、『法華経』を最上位に置き、これのみがブッダの真意であるとした。他のすべての経典は、『法華経』を説くための準備であり、補助にすぎないとして順位が定められた。智顗の天台宗のみならず、三論宗、法相宗、華厳宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗などもそれぞれが所依の経典を定めて最上位に置き、それ以外の経典を従属的地位に置いたのである。
しかし、「原始仏教」の経典をはじめ、保守的な傾向の経典は比較的同じような内容が繰り返されるものが多く、型にはまった教説が大部分であった。「論」と呼ばれる哲学的理論が展開される書物は、部派によって保守的なものから革新的なものにいたるまでバラエティに富んでいる。また理論的な傾向は「論」だけでなく、「経」にも認めることができる。これについて、仏教学の第一人者・渡辺照宏は著書『お経の話』に次のように書いている。
「一般社会ないしは初心者むけの説法においては害して理よりも情に訴える要素が強い。ここでは人間的存在の理論的な分析や、最高の宗教理想に到達するための超世俗的修行の段階などではなくて、そのかわりに日常生活の中の道徳や生活信条が説かれ、とくに仏陀の人格への帰依がすすめられた。信仰の対象としての仏陀についての物語(その前生涯の寓話をふくめて)が述べられ、奇跡やそれに近いことが真実として語られた。出家修行者にとっては仏陀は聖者の模範例にすぎなかったが、一般信者にとっては仏陀は最初から不思議な存在であり、人間のみではなくて神々や魔物たちからも畏敬されている人物と考えられていたのである」
このような見方からすれば、すべての仏教教団によって異議なく承認されるような統一的な聖典のようなものは最初から一度も存在したことがなかった。このことは、仏陀の入滅直後にマハーカーシャパたち正統派が編集した聖典が教団全体の統一見解を示すものではないという事実によっても裏づけされる。どうやら当時の仏教教団は、中央集権を必要としない性格だったようだ。
というわけで、仏教には啓典や根本経典のようなものは存在しないが、あえていえば、『般若心経』が「経典の中の経典」と表現されることが多い。『般若心経』は、古代よりアジア全土で広く親しまれてきた。日本においても、戦時中に仏教各派が合同法要を営もうとしたとき、一緒に読める唯一の経典として『般若心経』の名前があがったほどである。
しかし、浄土真宗が強硬に反対して、この企画自体が立ち消えになった。なぜ、浄土真宗が反対したか。それは、『般若心経』が「空」の思想を説いているからである。浄土真宗は、阿弥陀如来は絶対的な存在であるという考えに立つ。しかし、絶対的な存在など何もないという「空」の思想と矛盾するわけである。もともと仏教そのものが「空」を根本原理とする宗教であるはずだが、浄土真宗の中では、阿弥陀如来によって浄土を約束されるという信仰に変容しているのだ。その意味で、浄土真宗という宗派は仏教に籍を置きながらも、その正体は一神教にきわめて近いことがわかる。その場合、阿弥陀如来がヤハウェやアッラーのような唯一絶対神に相当するわけだ。極楽浄土という他界観も、仏教としては本来異色であり、やはりキリスト教やイスラム教の天国に近い考え方である。
それはさておき、『般若心経』が最も多くの人に知られた経典であることに異論はないだろう。『般若心経』とは何か。順を追って説明していきたいと思う。
まず、『般若心経』とは何よりも大乗仏教の経典である。代表的な大乗経典としては『般若経』『華厳経』『維摩経』『勝鬘経』『法華経』『浄土三部経』などがあるが、同じ大乗経典といっても内容はさまざまである。起源も異なり、思想的に矛盾することさえもある。大乗経典のうちのあるものは、大乗側の人々が「小乗経典」と呼ぶもの、すなわち上座仏教の経典と同じくきわめて古い時代の思想内容を持つ。ただし資料としては古くても、大乗経典の方が形をなすのは遅れた。上座部派の人々が教団の権威を樹立するために早くから聖典の確立の努力した一方で、大乗の人々はこの点に関して自由な考えを持っていたからである。
大乗経典といっても単一ではないが、渡辺照宏はそのポイントを三つ挙げている。第一に、現存の経典の内容から、般若系、華厳系その他を区別することができること般若系のうちの主なものはおそらく華厳その他に先立って成立したのだろうが、般若系に属する経典の中には後代のものもあるとされる。
第二に、成立や伝承の地方を区別で。きる場合もあること。それぞれの経典の冒頭に記された地名は必ずしも事実に相応するものではないが、たとえば『般若経』の主要部分がインド南部で成立したということは多くの学者によって推論された。『維摩経』がヴァイシャーリー、『勝鬘経』がアヨーデャーと関係すると推測できる理由もある。また『法華経』がもともと特殊グループの聖典であり、『阿弥陀経』がインド文化圏の西境で作られたことも想像できるのである。
第三に、同じ大乗経典の中にも高級な形而上的思想の展開から、単純な信仰にいたるまでさまざまの層を含むこと。大乗仏教者といううちにはバラモン出身の哲学者から庶民まで、幅広い教養のレベルを網羅しているので、論理でも説明方法でも、また比喩の使い方にしても、実にさまざまなレベルの差が見られる。大乗経典はすべて高尚なものと思い込むことも誤りなら、その一、二を読んですべてつまらないと断定するのも正しくないのだ。
さて、その名の通りに「大きな乗り物」として多くの人々の救済をめざす大乗仏教における経典は、当然、さまざまな聴衆を予想している。その根本的特質は、瞑想体験の描写であると言うことができる。日常経験を超えた非日常的な体験を生き生きとした具体的な形で表現する。たとえば一座の指導者であるブッダが瞑想に入ると、その瞑想中の体験を列席者がすべて把握する。瞑想の中には無数の世界にいる無数のブッダやボサツやその他の存在の行動や言語などが出てくるが、それらを列席者はリアルなものとして同時に体験するのである。そこには距離や時間といったさまざまな制約はもはや存在しないのだ。瞑想中のブッダが一言も発せずとも聴衆はさまざまな教えを受け取る。これこそがすべてであり、瞑想からさめたブッダと聴衆との問答はただ付け足しでしかないのである。
だから準備のない読者が大乗経典を読んでも理解できないばかりでなく、デタラメが書いてあると思うかもしれない。渡辺照宏は、『お経の話』で述べる。
「大乗経典を読んで正直に印象を述べると、“つまらない”とか“冗長”とか“退屈”とか、ときには“ばかげている”とか感じることがあるのは事実である。これは多くの宗教の聖典に共通することである。ところが聖典にもとづいて作られた論書は哲学書として、思想の書として読んでも、もとの聖典以上に教えられることが多い。宗教的立場からいえば、それはわれわれの(私の、といってもよいが)信仰が足りないからであるといわれるであろう。しかし実際のところ、キリストのことばを記した福音書よりもむしろパウロの書簡の方が判りよいし、アウグスティヌスやトマスやマイスター・エックハルトやルッテルや、あるいはまた現代の神学者たちの著述の方がさらにいっそう親しみやすい。実をいうと信仰の乏しいわれわれは、これら人間的な解説や歴史を通してはじめて神のことばを理解するのである。大乗経典についてもそれと同じことが言えよう。実はわれわれはやはりインドや中国の仏教哲学者たちの解釈の眼を通して大乗経典を読んでいるのである」
仏教哲学の開祖であり、大乗哲学の開祖は2世紀前半に南インドに出たナーガールジュナであるといわれる。『中観論』の著者として知られる彼は、『般若経』にもとづいて「空」と「縁起」を解明した。その思想はのちに中観派という一派によって継承されている。ナーガールジュナを継承しながらも、4世紀後半にはアサンガ(無着)とヴァスバンドゥ(世親)の兄弟は『般若経』『華厳経』『勝鬘経』をもとに唯識派を立てた。この派では特に瞑想を重視し、そのため別名を「ヨーガチャーラ」と呼ばれた。「ヨーガすなわち瞑想をこととする人たち」という意味だ。
私たちは、ふつうこれらの仏教哲学者の解釈によって大乗経典の思想を理解するわけだが、彼らはつねに経典を絶対的権威として引用する。しかし、哲学者たちは経典を根拠としながらも、『聖書』におけるキリスト教の神学者たちと同じように、その解釈には苦心した。ましてやキリスト教とは比較にならないほど、仏教の場合は多くの経典が存在したのである。そのうえ哲学者たちが活躍した時期にもなお新しい経典が作られていったため、問題はいっそう複雑だったのである。
大乗経典の中で最も分量の大きいものが『般若経』である。漢訳では4巻あるが、このうちのはじめの3巻が玄奘の訳した『大般若波羅蜜多経』、略して『大般若』600巻であり、残りの1巻は玄奘以外の訳者によるさまざまな『般若経』である。玄奘は仏教経典の漢訳における最大の貢献者であり、玄奘以前の経典を「旧訳」、玄奘以後を「新訳」と呼ぶほどだ。彼は660年正月から663年10月までかかって『大般若』の翻訳を完成し、完成直後の664年2月に入滅した。
玄奘訳の『大般若』は16部の経典の集成である。それぞれの部は独立しているが、すべてが「般若」という思想によって統一されている。「般若」は、「仏の智恵」を意味するサンスクリット語「プラジュニャー」の音写である。物事を分析的に解明する一般の知識と異なった、直観的で総合的な悟りの叡智だとされる。大乗仏教では、ボサツがめざして修行実践すべき六つの完成徳目の最後に「般若波羅蜜」を掲げ、智恵の完成によって悟りが完璧となることを示すのである。
『大般若』の最初の5部は、ほぼ同じ内容のもので章別や順序も共通点が多い。だが第6部以下はそれぞれ独自の内容と構成を持っている。しかも、第6部「勝天王」、第7部「文殊」、第8部「濡首」、第9部「金剛」、第10部「理趣」、第16部「善勇猛」など、それぞれ別の名で呼ばれ、異訳のあるものが多い。
まさに最長最大の経典である『大般若』をわずか300文字に満たない経文(きょうもん)に凝縮したものが『般若心経』なのである。玄奘は『大般若』600巻とともに、そのエッセンスである『般若心経』の漢訳も行ったのである。『般若心経』は、正式には『般若波羅蜜多心経』という。「般若」は仏の智恵、「波羅蜜多」は完成、「心」は精髄または真言を意味する。すなわちこの経には、「仏の智恵が完成するための真言」が説かれているのである。「マントラ」とも呼ばれる真言とは、平たく言えば「呪文」のことである。そして仏の智恵の完成とは、「空」の思想を体得することに他ならない。
短いながらも、大乗仏教の根本思想である「空」の理法が説かれている『般若心経』には二種類ある。いわゆる大本(広本)と小本(略本)が存在し、一般に流布している玄奘三蔵役は小本にあたる。大本には「如是我聞〜」ではじまる序と「〜信受奉行」で終わる結語がついている。以下は玄奘三蔵訳の『般若心経』の全文である。
般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄
舎利子 色不異空 空不異色
色即是空 空即是色 受想行識亦復如是
舎利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄不増不減
是故空中 無色 無受想行識
無限耳鼻舌身意 無色声香味触法
無限界 乃至無意識界 無無明
亦無無明盡 乃至無老死 亦無老死盡
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
菩薩薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃
三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提
故知般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒
是無上咒 是無等等咒 能除一切苦
真実不虚故 説般若波羅蜜多咒
即説咒曰 羯諦 羯諦 波羅羯諦
波羅僧羯諦 菩提僧婆訶
般若波羅蜜多心経
大意は、観自在ボサツが深遠な智恵の完成を実践していたときに、五蘊・十二処・十八界といった万物の構成要素はすべて実体のない空であることを見抜いた。舎利子よ、迷いにはじまって生老死に終わる十二因縁も空であり、それらの克服も空である。四つの聖なる真理も、真理の認識も、悟りも、空である。ボサツも、過去現在未来のブッダもみな智恵の完成によって、心にこだわりなく、最高の悟りに到達する。したがって、智恵の完成こそは偉大なる呪文であり、その呪文とは、こうである。ガテー・ガテー・パーラガテー・パーラサンガテー・ボーディ・スヴァーハー(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、悟りよ、幸いあれ)
呪文は本来訳さないものとされ、漢訳でもチベット語訳でも音写している。最後の「スヴァーハー」は神々に呼びかける間投詞で、インド最古の文献『リグ・ヴェーダ』以来、「祝福」を意味する。「般若波羅蜜多」すなわちプラジニャー・パーラミターは実践であり、瞑想であり、自由であり、万能の偉大な力である。そのプラジニャー・パーラミターを観自在という一人のボサツにしぼり、呪文によって結ぶのが『般若心経』なのである。
『般若心経』ほど、大乗仏教が伝わった国々において広く読まれているものは他にない。インドでも中国でも日本でも、さかんに研究され、数多くの註釈書が存在する。阿弥陀仏を信仰する浄土教以外は、あらゆる宗派が『般若心経』を重要視しているのである。
最近の日本では、生命科学者である柳澤桂子氏による「心訳」や、作家の新井満氏による「自由訳」など、さまざまな新しい『般若心経』が刊行され、それぞれベストセラーになっている。経典を書き写す写経でも圧倒的な人気であり、仏教への関心の高まりとあいまって「般若心経ブーム」と呼ぶべき現象さえ見られる。
特に、40年近くも病に苦しみながら、科学的解釈で美しい現代語に訳した柳澤氏の『生きて死ぬ智慧』は、「いのちの意味」を求める幅広い人々の支持を受けた。
柳澤氏によれば、ブッダという人はものすごい天才で、真理を見抜いた。他の宗教も同じだが、偉大な宗教というものは、ものを一元的に見るということを述べており、『般若心経』も同じである。
科学者としての柳澤氏は言う。私たちは原子からできている。原子は動き回っているために、この物質の世界が成り立っている。この宇宙を原子のレベルで見てみると、自分のいるところは少し原子の密度が高いかもしれない。戸棚のところにも原子が密に存在する。これが宇宙を一元的に見たときの景色である。一面の原子の飛び交っている空間の中に、ところどころ原子が密に存在するところがあるだけなのだ。そして、柳澤氏は同書の「あとがき」で次のように述べる。
「あなたもありません。私もありません。けれどもそれはそこに存在するのです。物も原子の濃淡でしかありませんから、それにとらわれることもありません。一元的な世界こそが真理で、私たちは錯覚を起こしているのです」
「空」をわかりやすく解釈した名文である。このように宇宙の真実に目覚めた人は、物事に執着するということがなくなり、何事も淡々と受け容れることができるようになる。柳澤氏によれば、これがブッダの悟ったことであるという。もちろん、ブッダが原子を考えていたわけではないが、物事の本質を見抜いていたのである。現代科学に照らしても、ブッダがいかに真実を見通していたかということは驚くべきことなのだ。また、「自由訳」の新井満氏は、「『般若心経』とは、私たちに“生きる力”を与えてくれる、釈迦からのメッセージだったのだ」と述べている。
この『般若心経』における「空」の思想は中国仏教思想、特に禅宗教学の形成に大きな影響を及ぼした。玄奘による漢訳『般若心経』が日本に伝えられたのは八世紀、奈良時代のことだった。遣唐使に同行した僧が持ち帰ったという。以来、1200年以上の歳月が流れ、日本における最も有名な経典となった。仏教思想の核心である「空」がきわめてシンプルに語られている『般若心経』とは、多くの日本人にとって仏教そのものであるかもしれない。