平成心学塾 聖典篇 知れば知るほど面白い #006

イスラム教の聖典

イスラム教の啓典である『コーラン』は、正しくは『クルアーン』と呼ばれるべきで、それは「読誦」を意味する。というのは、神の啓示を受けたとき、ムハンマドはヴィジョンによって教えられた原典を読誦せざるをえなかったからだ。聖書の一連の預言者たちの最後となる預言者ムハンマドに対して、大天使ガブリエルは神の言葉を伝えたのである。ある意味で『コーラン』とは、『旧約聖書』と『新約聖書』を否定するのではなく、それらを補強し、かつ凌駕する『新・新約聖書』なのだ。

この原典は預言者の最初の聴衆にあるがままに伝えられたが、今度は彼らがそれを読誦し、ラクダの肩甲骨や皮片の上にそれを書き記した。しばらくしてムハンマドへの神の啓示は終わり、3年後にしか再開しなかった。それ以来、神の啓示は規則的になされ、預言者は秘書にそれらを口述筆記させた。少しずつ、信者は断片的な原文集を作成した。ムハンマドが死んで、完璧で唯一の訂正本を確立する必要が生じたのである。

初代カリフのアブー・バクルは、『コーラン』の章である「スーラ」の最も古いコレクションを集めさせたが、三代目カリフのウスマーンのときになって初めて、唯一認められると言明された決定文が定着し、その後、伝統によってすべての異なった校訂本が破棄された。ウスマーンが確立した教典「ウルガタ」は今日なお神の啓示の正統な書とされている。

『新・新約聖書』としての『コーラン』の分量は、ほぼ『新約聖書』と『旧約聖書』の中間くらいである。全体が114のスーラに分かれているが、各章の長さはまちまちである。だいたい初期の章ほど短く、時代が下るほど長くなるので、長いものから順に配列されている現存の『コーラン』の構成は、ほぼ時代順とは逆の順序になっていると考えてよい。各章には、たとえば第2章「牝牛」、第3章「イムラーン一家」、第4章「女」といったように名称がついているが、これはその章の主題を表わすものではなく、単なる名前にすぎないものである。そもそも『コーラン』の各章には、第12章「ヨセフ」を除いて、一貫したストーリーというものがないのである。

『コーラン』は絶えず、神の「しるし」あるいは「メッセージ」を解読する知性の必要を強調する。イスラム教徒は世界を注意深く、そして好奇心をもって見つめるべきなのである。後にイスラム世界が自然科学という素晴らしい伝統を築くことができたのは、この態度によるものだ。キリスト教の場合と違って、イスラムでは自然科学が宗教に対する危険と見られることは決してなかった。自然界の働きについての研究は、それが超越的な次元と源泉を持っていることを示す。それについて、私たちはただ「しるし」と「象徴」によって語ることができるだけなのである。預言者の話であれ、最後の審判の物語であれ、天国の悦楽であれ、それらは文字通りに解釈されるべきではない。それらは、より高い表現不可能なリアリティの比喩としてのみ解釈されるべきものである。

だが、すべてのうちで最大の「しるし」は『コーラン』そのものである。事実、その個々の節は「しるし」を意味するアラビア語の「アヤト」と呼ばれている。西洋人は『コーラン』を難しい本だと思う。それは主に翻訳の問題である。アラビア語は特に翻訳するのが難しい言語である。普通の文学や政治家の演説でも、例えば英語に翻訳された場合、しばしば気取った大袈裟で疎遠な印象を与えるが、このことは疑いもなく『コーラン』についても言える。それは高度に暗示的な言葉で書かれているのだ。特に初期の章は、人間の言葉が神の衝撃の下で砕かれ、バラバラにされたという印象さえ与える。

イスラム教徒はしばしば『コーラン』を翻訳で読むと、別の本を読んでいるように感じるという。それはアラビア語の美しさがまったく伝えられていないからである。その名前が示しているように、それは声高く朗唱されるべきものであり、言葉の響きがその効果の本質的な部分なのである。

イスラム教徒は言う。彼らがモスクで『コーラン』が朗唱されるのを聴くとき、音の神的次元に包み込まれているように感じる、と。いやむしろ、ムハンマドがヒーラ山でガブリエルに抱擁されたときのように、あるいは、彼がどちらを向いても地平線上に天使を見たときのように感じるのだ、と。それは単に情報を得るために読まれるべき書物ではないのである。それは神的なものの感覚を生み出すはずのものであり、早いテンポで朗唱されるべきものなのだ。

イスラム教徒は、正しい仕方で『コーラン』に近づくことによって超越の感覚を、究極的なリアリティーの感覚を、そしてこの世の無常な過ぎ去り行く諸々の現象の背後にある力を経験するのだと主張する。それゆえ、『コーラン』を読むことは霊的な訓練なのだ。

それを理解することはヒンドウー教徒やユダヤ教徒には可能でも、キリスト教徒には難しい。なぜなら、サンスクリット語がヒンドウー教徒にとって、ヘブライ語がユダヤ教徒にとって、そしてアラビア語がイスラム教徒にとってそうであるような聖なる言語というものを、キリスト教徒は持っていないからである。神の言葉とはイエスのことであり、『新約聖書』のギリシャ語には聖なる要素は何もないのである。

しかしながらユダヤ教徒は「トーラー」に対して、イスラム教徒と同じような態度を持っている。ユダヤ教徒が『旧約聖書』の最初の五書を読むとき、彼らはしばしばそれらの言葉を声高く朗唱し、神がシナイ山でモーセに自分を啓示したときに用いたとされているそれらの言葉を味わうのだ。時として彼らは、聖霊の息の前で炎が揺れるように前後に体を揺する。このような仕方で『聖書』を読んでいるユダヤ教徒は、明らかにキリスト教徒とは違った書物を読んでいるのである。キリスト教徒は、トーラーすなわち「モーセ五書」の大部分をきわめて退屈で訳のわからないものだと思うのだ。

ムハンマドの初期の伝記作家たちは絶えず、アラブ人が初めて『コーラン』を聞いたときに感じる不思議や衝撃について述べている。彼らの多くはその場で回心し、この言葉の尋常ならざる美を説明できるのは神のみであると信じるのだ。回心者はしばしばその経験を、埋もれていた憧れを神聖な侵入が呼び起こし、感情の洪水を導き出したように感じるという。

『コーラン』の経験なしには、イスラム教が根づくことはきわめて難しかっただろう。イスラエル人たちが彼らの古い宗教的結びつきから離れ、一神教を受け入れるのには、ほぼ700年を要したのである。だがムハンマドは、この難しい移行をアラブ人がなんと2、3年で達成するように導いて行ったのである!詩人および預言者としてのムハンマドと、テクストおよび神の顕現としての『コーラン』とは、間違いなく芸術と宗教の深い統合を示す驚くべき例証に他ならない。

『コーラン』が成立することによって、その本来の意図が実現された。すなわち「トーラー」や「福音書」を手にしていたユダヤ教徒やキリスト教徒と同じく、「啓典の民」の共同体の一員となるための道が、アラブ人にも開かれたのである。

『コーラン』には二つの大きな主題がある。一つは神の唯一性とその力についてであり、もう一つは神との関係における人間の本性と運命についてである。神は、宇宙、人間、精霊の唯一の創造者であり、温情にあふれ公正である。神は「全知者」または「全能者」といったその属性に由来する呼び名を得ている。人間は主から特権を与えられた奴隷だが、堕天使イブリースつまりサタンによってしばしば誘惑され、神の命令をないがしろにすることがある。イブリースはアダムを崇めることを拒んだために、天界から追放された天使である。

最後の審判の日にはすべての死者が甦り、重さが量られ、地獄か天国へ永遠に送られることになる。『コーラン』ではいくつもの聖書の物語、「アダムとイヴ」「ヨセフの物語」「アブラハムとイシュマエルの唯一神信仰」や数多くの道徳的な説示が再解釈され、そうした道徳が預言者の生涯に関する伝承とともに、イスラム教の聖法「シャリーア」の基盤を作っている。寛大であり、であることが勧められ、メッカの商人たちの利己主義が厳しく非難されている。

『コーラン』に次ぐイスラム教の聖典が『ハディース』である。「伝承録」という意味で、ムハンマドの口頭による教えを集めたものだ。生前から弟子たちによって収集されたが、数十万ある中で、『ハディース』は長い口承の対象になった。それから文集として集められ、まずそれを報告した証人により、次に題材の順序により分類された。もっとも確かなものとされている六つの伝承録は、9世紀後半からのもので、預言者ムハンマドの没後200年以上もたっている。

『ハディース』の内容は多岐にわたっている。ムハンマドの人格の多様な面、『コーラン』の教えを補完する神学的で道徳的な教え、イスラム教の教団組織に関する預言者ムハンマドの決定。全体として聖行である「スンナ」の基本要素を形作り、それは社会と文明の新しいタイプを生み出すものだ。これらの伝承は、特にスンナ派教徒における教会法の基礎となった。ある場合には伝承が『コーラン』を廃止できると認められるほどであり、すべてのイスラム教徒にとって『ハディース』はきわめて重要である。

ムハンマドその人に遡ることがない場合でも、『ハディース』の多くは、イスラム教が生まれてから2世紀の間の内部における激しい論争を反映している。『ハディース』の増殖、そしてしばしば見られる矛盾は、『コーラン』が残した不確かな点を解決しなければならなかった当時の難しい事情を示している。