映画『ボクは坊さん。』と僧侶のオーラ
こんにちは、一条真也です。
10月24日(土)から日本映画『ボクは坊さん。』が全国公開されています。
わたしが理事を務める一般社団法人・全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)がこの映画をサポートしている関係で、一般公開よりかなり早い時期に鑑賞していました。映画のチケットも大量に買わせていただいております。
■ふつうの青年が僧侶になる成長物語
映画『ボクは坊さん。』の公式ホームページの「イントロダクション」には、「日々迷い不安もある。そんなボクが、24歳でお寺の住職になり、自分の道を見つけるまで。」として、以下のように書かれています。
「白方光円、24歳。突然の祖父の死をきっかけに、四国八十八ケ所霊場、第57番札所・栄福寺の住職になったばかり。この寺で生まれ育ったけれど、住職として足を踏み入れた”坊さんワールド”は想像以上に奥深いものだった! 初めて見る坊さん専用グッズや、個性豊かな僧侶との出会いにワクワクしたり、檀家(だんか)の人たちとの関係に悩んだり。お葬式や結婚式で人々の人生の節目を見守るのはもちろん、地域の”顔”としての役割もある。職業柄、人の生死に立ち合うことで”生きるとは何か? 死ぬとは何か?”と考えたりもする。坊さんとしての道を歩み始めたばかりの光円に何ができるのか。何を伝えられるのか。光円は試行錯誤を繰り返しながら、人としても成長していく……。」
「ボクは坊さん。」を観た率直な感想は、ふつうの青年が僧侶になっていく成長物語(ビルディングス・ストーリー)としてはよく描けているのですが、そこで終わってしまっているところが「もったいないな」と思いました。
この映画の原作は、白川密成著『ボクは坊さん。』(ミシマ社)で、内容は白川氏の実人生に基づいているそうです。しかしながら、現在38歳の白川密成氏が24歳のときのエピソードに最も重点が置かれており、「未熟さ」ばかりが印象に残る気がしました。書店員から僧侶になるまでの修行の過程をしっかり描いてほしかったです。
特に気になったのは、幼馴染(おさななじみ)の京子と真治から葬式について聞かれたとき、僧侶になったばかりの光円は「葬式以外にも、いろいろ仕事はあるんよ!」と必死になって弁明する場面です。明らかに葬儀という営みを軽く見ており、違和感がありました。
■法話で「ボク」とは何事か!
拙著『永遠葬』(現代書林)にも書きましたが、葬儀こそは宗教の核心です。特に、日本人の葬儀のほとんどは仏式葬儀です。よく「葬式仏教」とか「先祖供養仏教」とか言われますが、これまでずっと日本仏教は日本人、それも一般庶民の宗教的欲求を満たしてきたことを忘れてはなりません。その宗教的欲求とは、自身の「死後の安心」であり、先祖をはじめとした「死者の供養」に尽きるでしょう。そのことを主人公にはもっと理解してほしかったです。
後に光円はイッセー尾形演じる栄福寺の檀家の長老・新居田の葬儀の導師を務めます。この場面はなかなかの導師ぶりで良かったのですが、葬儀後の法話で「ボク」と言っているのはいただけませんでした。わたしは成人の男性で自分のことを「ボク」と言う人間をあまり信用しないことにしているのですが、いつまでも甘い少年気分のままではいけません。しかも、僧侶が葬儀後の法話で自分を「ボク」と言うとは何事か!
監督もここで光円が一人前の僧侶になったことを表現したいのであれば、「私」と呼ばせるべきでしょう。もっとも、原作にも「ボク」と書いてあったのでしょうか?
原作の話になりましたが、『ボクは坊さん。』というタイトルからは、一般の人々に僧侶に親しみを持ってほしい、あるいは「僧侶というのは別に偉くないんですよ。みなさんと同じ人間なんですよ」といった媚(こ)びる姿勢を感じてしまいます。しかし、「日経ビジネス」の記者で僧侶でもある鵜飼秀徳氏の書いた『寺院消滅』という本がいま大きな話題になっていますが、日本仏教は存亡の危機に立っています。
また、「無縁社会」とか「葬式は要らない」などといった言葉が登場するのも、日本仏教の僧侶たちから「宗教者としてのオーラ」が消えたことが大きな原因であると思います。
僧侶は親しみやすいだけではいけません。檀家をはじめとした一般の人々は「宗教者としてのオーラ」「聖職者としての威厳」を僧侶に求めているのです。その意味で、光円の祖父であり先代住職であった瑞円にはそれがありました。
そもそも原作に書かれてある寺院業界内のエピソード(例えば、戒名印刷用プリンターとか、僧侶用のバリカンとか、般若心経や木魚の着信音など)、そんなものは面白くもなんともありません。そういう覗(のぞ)き見趣味的な内容は現役の僧侶が書くべきことではないでしょう。
寺院とか葬儀社といった存在はただでさえ世間から誤解されやすい部分を持っていますので、気をつけなければいけません。『ボクは葬儀屋さん』的なタイトルの本もよく目にしますが、たいていは初めて扱った遺体の臭いがすごかったとか、周囲から偏見の目で見られたとか、くだらない内容のものが多いように思います。たしかに実体験に基づくエピソードは大切ですが、そこで終わってしまっては小学生の作文と変わりません。そこから「死とは何か」「葬儀とは何か」といった思想を語らなければなりません。そう、体験を抽象化するという作業が必要なのです。
そもそも体験至上主義というものは、私小説の悪しき伝統にも通じます。葬儀の素晴らしさを描いた名作映画「おくりびと」の原作として知られる青木新門氏の『納棺夫日記』(文春文庫)には、体験談プラス崇高な思想がありました。