人は、かならず心で動く。 これが、ハートフル・マネジメントだ!
●ハートフル・マネジメントとは
『ハートフル・ソサエティ』に続く平成心学の第二弾として、『孔子とドラッカー〜ハートフル・マネジメント』を出版しました。
まず、本書はマネジメントについての本です。
「マネジメント」という考え方は、世界最高の経営学者であるピーター・ドラッカーが発明したものとされています。ドラッカーといえば、世界中の経営者にもっとも大きな影響力を持つ「経営通」ですが、彼が発明したマネジメントとは何でしょうか。
ドラッカーの大著『マネジメント』によれば、まず、マネジメントとは、人に関わるものです。その機能は、人が共同して成果をあげることを可能とし、強みを発揮させ、弱みを無意味なものにすること。これが組織の目的です。また、マネジメントとは、ニーズと機会の変化に応じて、組織とそこに働く者を成長させるべきものです。組織はすべて学習と教育の機関です。あらゆる階層において、自己啓発と訓練と啓発の仕組みを確立しなければなりません。
このように、マネジメントとは一般に誤解されているような単なる管理手法などではなく、徹底的に人間に関わってゆく人間臭い営みなのです。にもかかわらず、わが国のビジネス・シーンには、ナレッジ・マネジメントからデータ・マネジメント、はてはミッション・マネジメントまで、ありとあらゆるマネジメント手法がこれまで百花繚乱のごとく登場してきました。その多くは、ハーバード・ビジネス・スクールに代表されるアメリカ発のグローバルな手法です。
もちろん、そういった手法には一定の効果はあるのですが、日本の組織では、いわゆるハーヴァード・システムやシステム・アナリシス式の人間管理は、なかなか根付かないのもまた事実です。情緒的部分が多分に残っているために、露骨に「おまえを管理しているぞ」ということを技術化されれば、される方には大きな抵抗があるのです。
日本では、まだまだ「人生意気に感ずる」ビジネスマンが多いと言えるでしょう。仕事と同時に「あの人の下で仕事をしてみたい」と思うビジネスマンが多く存在するのです。そして、そう思わせるのは、やはり経営者や上司の人徳であり、人望であり、人間的魅力ではないでしょうか。会社にしろ、学校にしろ、病院にしろ、NPOにしろ、すべての組織とは、結局、人間の集まりに他なりません。人を動かすことこそ、経営の本質なのです。つまり、「経営通」になるためには、大いなる「人間通」にならなければならないのです。
●孔子とドラッカーの意外な共通点
今から約2500年前、中国に人類史上最大の人間通が生まれました。すなわち、孔子です。ドラッカーが数多くの経営コンセプトを生んだように、孔子は「仁義礼智忠信孝悌」といった人間の心にまつわるコンセプト群の偉大な編集者でした。彼の言行録である『論語』は東洋における最大のロングセラーとして多くの人々に愛読されてきました。
特に西洋最大のロングセラー『聖書』を欧米のリーダーたちが心の支えとしてきたように、日本をはじめとする東アジア諸国の指導者たちは『論語』を座右の書として繰り返し読み、現実上のさまざまな問題に対処してきたのです。
そして、ドラッカーを最高の経営通、孔子を最大の人間通としてとらえる私は、両者の思想に大きな共通点を発見しました。
40歳を迎えるにあたり、『論語』を40回読んだとき、『論語』はマネジメントの書であり、ドラッカーは現代の孔子であると私は思いました。
タイムマネジメントに代表される経営者としての心がけは、まさに「修身」そのものです。自分を律するとは、自分をマネジメントすることです。さらに家庭を円満にし、仕事の成果をあげれば、組織をマネジメントし、社会に貢献することができます。
経営者やリーダーといった存在は、結局のところ「君子」をめざさなければならないと言えるでしょう。君子などというと、過ちのない完璧な人間のように思われますが、すべての人間は過ちをおかします。問題は過ちをおかした後の処置なのです。『論語』に「小人の過ちや必ず文(かざ)る」とあるように、小人のように過ちをうまく取りつくろってはなりません。「人焉(いずく)んぞ隠さんや」で、どうせわかることなのです。
では、過ちとは何か。「子曰く、過ちて改めざる。これを過ちという」わけです。過失や失敗は許されるが、それを改めないで繰り返すことは許されず、それこそが真の過ちなのです。
人はこういう身近のこと、すなわち「下学」から「上達」していかなければなりません。それが孔子の考えた礼楽社会における個人のあり方でした。そして、「子曰く、君子は上達す、小人は下達す」とあるように上達しうるものこそが君子なのです。
孔子は、意志さえあれば誰にでも上達できるのであり、できないのは、その本人に上達する意志がないのだとしました。上達して君子に至れば、他人からの「信」を得ることができる。孔子は、すべての人から信頼された。信頼されたがゆえに人々は彼を迎え、その意見を聞きました。孔子は人々に求められたのです。いずれの社会であれ、どのような体制であれ、信用というものがなければ人間はその社会においても、何事も成しえません。
「エグゼクティブ、すなわち物事を成すべき地位にある者の仕事は、成果をあげることである。物事を成すということは、成果をあげることである」とは、ドラッカーの名著『経営者の条件』の書き出しの一文ですが、これは明らかに『論語』の世界です。エグゼクティブとは君子のことなのです。
孔子は「政治」に、ドラッカーは「経営」に、それぞれ主眼を置きながらも、両者ともに最終的な人間の目標は社会への貢献に置きました。
また、孔子は何よりも「礼」というものを最重要視しましたが、礼とはつまるところ、相手を尊重する精神です。ドラッカーが多くの著書で述べてきたことも、結局は「礼」の大切さではなかったかと私は思っています。それは、最近のライブドア事件を見てもよくわかります。
ホリエモンには礼がなかった。ノーネクタイのことではありません。株主に対する礼、顧客に対する礼、社員に対する礼、そして何より社会に対する礼…これらの必要性を産業社会において一貫して訴え続けてきたのが、ドラッカーでした。
さらに、孔子は「智」を大切な徳目とし、教育や学習を重視しました。ドラッカーは、「知識」の重要性を生涯説き続け、ナレッジ・マネジメントを提唱し、生涯学習をすすめたことで知られています。
孔子もドラッカーも、その正体はコンセプトの達人であると私は思います。古代の中国において、仁義礼智忠信孝悌といったさまざまな徳目を発見した孔子という人間通、「知識化」「選択と集中」「目標管理」などマネジメントにおけるほとんどの概念を発明したドラッカーという経営通、ともに人類史に残るスーパー・コンセプターに他なりません。
●新しい「死」のとらえ方
孔子とドラッカーは、「死」のとらえ方でも共通していると思います。正確には「不死」のとらえ方といったほうがよいかもしれませんが。
孔子が開いた儒教における「孝」は、「生命の連続」という観念を生みだしました。祖先崇拝とは、祖先の存在を確認することであり、祖先があるということは、祖先から自分に至るまで確実に生命が続いてきたことになります。また、自分という個体は死によってやむをえず消滅するけれども、もし子孫があれば、自分の生命は存続していくことになります。私たちは個体ではなく一つの生命として、過去も現在も未来も、一緒に生きるわけです。
つまり、人は死ななくなるわけです!
「遺体」という言葉の元来の意味は、死んだ体ではなくて、文字通り「遺した体」。つまり本当の遺体とは、自分がこの世に残していった身体、すなわち子なのです。親から子へ、先祖から子孫へ、「孝」というコンセプトは、DNAにも通じる壮大な生命の連続ということなのです。孔子は、明らかにこのことに気づいていたと思います。
一方、ドラッカーは、著書の書名にもなった「会社という概念」について考え抜きました。まさにこの「会社という概念」も「生命の連続」に通じます。世界中のエクセレント・カンパニーやビジョナリー・カンパニーやミッショナリー・カンパニーというものには、いずれも創業者の精神が生きています。エディソンや豊田佐吉やマリオットやディズニーの身体はこの世から消滅しても、志や経営理念という彼らの心は会社の中に綿々と生き続けているのです。
重要なことは、会社とは血液で継承するものではなく、思想で継承すべきものであるということです。創業者の精神や考え方をよく学んで理解すれば、血のつながりなどなくても後継者になりうる。むしろ創業者の思想を身にしみて理解し、指導者としての能力を持った人間が後継者となったとき、その会社も関係者も最もよい状況を迎えられるのではないでしょうか。
逆に言えば、超一流企業とは創業者の思想をいまも培養して保存に成功しているからこそ、繁栄し続け、名声を得ているのかもしれません。もちろん、会社や組織の発展には、「継承」とともに「変化」というものが求められますが。いずれにせよ、孝も会社も、人間が本当の意味で死なないために、その心を残す器として発明されたものではなかったかと私は思っています。
ここで孔子とドラッカーはくっきりと一本の糸でつながってきますが、日本の数多くのリーダーを指導した陽明学者の安岡正篤もこれに気づいていました。安岡はドラッカーの” The age of discontinuity”という書物が『断絶の時代』のタイトルで翻訳されたとき、「断絶」という訳語はおかしい、本当は「疎隔」と訳すべきだが、強調すれば「断絶」と言っても仕方がない時代であるなどと述べています。そして安岡は、その疎隔・断絶とは正反対の連続・統一を表わす文字こそ「孝」であると明言しているのです。
「老」すなわち先輩・年長者と、「子」すなわち後進の若い者とが断絶することなく、連続して一つに結ぶのです。そこから「孝」という字が出来上がりました。つまり、「孝」=「老」+「子」なのです。そうして先輩・年長者の一番代表的なものは親ですから、親子の連続・統一を表わすことに主として用いられるようになったのです。人間が親子・老少、先輩・後輩の連続・統一を失って疎隔・断絶すると、どうなるのか。個人の反映はもちろんのこと、国家や民族の進歩・発展もなくなってしまいます。あらゆるものの発展には継承と変化が欠かせないのです。
●性善説・性悪説にみるマネジメント
さて、孔子の約200年後に孟子が登場して、儒教を発展させました。性善説で有名ですが、ドラッカーの思想はこの孟子にも通じます。
人間の本性は善であるのか、悪であるのか。これに関しては古来、二つの陣営に分かれています。東洋においては、孔子や孟子の儒家が説く性善説と、管仲や韓非子の法家が説く性悪説が古典的な対立を示しています。西洋においても、ソクラテスやルソーが基本的に性善説の立場に立ちましたが、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も断固たる性悪説であり、フロイトは性悪説を強化しました。
そして、共産主義を含めてすべての近代的独裁主義は、性悪説に基づきます。毛沢東が、文化大革命で『論語』や『孟子』を焼かせた事実からもわかるように、性悪説を奉ずる独裁者にとって、性善説は人民をまどわす危険思想であったのです。
独裁主義国家の相次ぐ崩壊や凋落を見ても、性悪説に立つ「悪のマネジメント」が間違っていることは明らかです。マネジメントとは何よりも、人間を信じる営みであるはずです。ドラッカーによる「人が主役」のマネジメントは、「善のマネジメント」です。マクレガーらの産業心理学者が取り上げた「X理論」「Y理論」なども、結局は性善説と性悪説に行き着きます。ここでも、ドラッカーは徹底して人間というものを信じ抜きました。
ドラッカーのマネジメントとは、現代の儒教であるとしか私には思えません。そういえば、ドラッカーが最もリスペクトする経営者である渋澤栄一は、『論語』を座右の書とし、「論語と算盤」つまり倫理と利益を両方追求して、社会貢献に努めた人物です。
そして孟子をこよなく敬愛し、『孟子』の解説書として『講孟雑記』なる書を著した人物が吉田松陰です。彼ほど、ドラッカーが社会発展の条件として示した「継続」と「変化」を思いつめて求めた者はいません。彼がめざし、志半ばにして倒れながらも、ついには彼の後継者たちは人類史上に残る社会的イノベーションに成功した。人は、それを明治維新と呼びます。
●月光経営というコンセプト
最後に、月光経営についてお話したいと思います。幻冬舎文庫から出ている『ロマンティック・デス 月を見よ、死を想え』は月そのものの本ですし、前作『ハートフル・ソサエティ』でも月のことをたくさん書きました。それほどまでに月を愛している私ですが、最近、「月光経営」という奇妙な考えが浮かび、頭に棲みつきました。
イソップ寓話のなかに「北風と太陽」という話があります。旅人の外套(がいとう)を脱がせる競争をしていて、北風がビュービュー強く吹きつけても、旅人は寒さのあまり強く外套を握りしめるだけでした。一方、太陽がポカポカと暖かく照らしたところ、旅人は暑くなって、ついに外套を脱いでしまうという話です。
人を動かすときの典型的な二つの方策の比喩として知られ、北風政策と太陽政策、北風経営と太陽経営、といった具合に使われます。月光経営とは、北風経営でも太陽経営でもない第三のマネジメントなのです。
それは、こういうことです。
ブッダは満月の夜に生まれ、満月の夜に悟りを開き、満月の夜に亡くなったといいます。ブッダは月の光に影響を受けやすかったのでしょう。彼が開いた仏教とは、満月の夜に祭りや反省の儀式を行なう「月の宗教」であると言えます。その仏教では、月光を「慈悲」に例えます。実際、やわらかな月光を浴びていると、たまらなく瞑想的で優しい気分になり、慈悲そのものに包まれている気分になってきます。
リストラの嵐が吹きつけ社員を寒がらせる北風経営でもなく、ぬくぬくと社員を甘やかす太陽経営でもなく、慈悲と徳をもって社員をやさしく包み込む月光経営。これこそ、心の経営、つまりハートフル・マネジメントのイメージそのものとなります。
いじめ、虐待、自殺、殺人、テロに戦争と、人類の不幸は未だ解消しない。私たちは心なきハートレス社会に向かっているのだろうか。そうならないための私なりの具体的な方策を『ハートフル・ソサエティ』で提示したつもりです。
私は、人間を救うものは人間以外にないと信じます。一人ひとりの人間が人間であることを自覚して、人間として何をすべきか、何をしてはならないか、というもっとも基本的な理性にめざめるなら、いま私たちを苦しめている人間内外の汚染や汚濁を取り除くことは不可能ではありません。
今すぐに「人間を救うものは人間だ」ということを自覚することが大切です。そして、そこでは経営者の存在というものが、きわめて大きな意味をもってきます。効率主義一辺倒で地球環境を破壊するだけが経済ではありません。本来、「豊かさの提供システム」である経済は、人類を幸福にするために存在しています。
ハートフル・ソサエティにおいては、人々を幸福にできる心ある企業の存在が不可欠です。そのためにもっとも必要とされるものこそが「心の経営」としてのハートフル・マネジメントではないでしょうか。データ・マネジメントやナレッジ・マネジメントには、その本質に利己的なものが潜んでいますが、これから求められるのは、人の心の成長をどう支えていき、生きがいを共有できるかという利他的なハートフル・マネジメントなのです。マネジメントというものは、単なる理論的な手法や分析的な手法を超えて、人間の総合力が問われる最高のアートになり得るのです。
それはもう総合的な「人間関係学」さらには「幸福学」とさえ呼べるものです。経営者と従業員、上司と部下のみならず、先輩と後輩、コーチと選手、教師と生徒、医師と患者、親と子、夫と妻、そして恋人同士、といったようにありとあらゆる人間関係においてマネジメントの視点が必要とされるのです。スポーツも教育も医療も恋愛も、これからはハートフル・マネジメントです!
●利益とは何か?
もちろん心の経営といっても、利益は大問題です。利益とは何でしょうか。
日本初の経営コンサルタントとして知られる堀紘一氏は、利益とは影のようなものであると述べています。
たとえば、太陽のような意味のある実態を考えてみましょう。太陽は照るときもあれば、照らないときもあります。
しかし地球上のどんなところでも、冬の北極でも南極でも一年中一度も太陽が照らないということはありません。そして太陽が照ると、影ができます。そんなものは要らないと言っても、太陽という実態が照れば影はできるのです。
ビジネスにおいて、世の中の人に役立つような商品あるいはサービスを提供する。場合によっては、人々はそれに見向きもせず、買ってくれないかもしれない。利用してもらえないかもしれない。でも本当に価値のある商品、意味のあるサービスであれば、必ずその値打ちを認めてくれる人が現われる。そういう認めてくれる消費者、ユーザーが必ず出てくる。それは、いわば太陽のような存在です。
真価を認めてくれる人がいれば、売上は必ず立ち、そういう人がたくさんいれば、要らないと言ってもできる影のように、必ず利益が上がるのです。
ドラッカーは名著『現代の経営』において、「事業体とは何かを問われると、たいていの企業人は利益を得るための組織と答える。たいていの経済学者も同じように答える。この答えは間違いなだけでない。的はずれである」と述べています。私が思うに、ドラッカーが言いたかったことは、実態と影を混同するなということではないでしょうか。目的は、あくまでも実態である太陽が光を放つことです。金儲けということに極意があるとすれば、それは意味のある、価値のある商品・サービスを提供することであり、それに尽きるのです。
そして、低成長時代を迎えた今日、かつての高度成長期に燦燦と輝いていた太陽の光を求めるのには無理があります。バブル期には灼熱の太陽がビジネス社会を照らしあげ、非常に濃い影ができました。しかし、あまりの暑さのため、また日射病を避けるため、人々は木陰や建物のなかに逃げ込み、影そのものが消えてしまうという結末になってしまったのです。バブル崩壊とは、濃い影が一瞬にして消滅することではないでしょうか。
●ハートフル・マネジメントへの進化
そこで現在のような低成長期には太陽よりも月が必要となります。暑くもなく、日射病になる心配もない月光はいつまでも地上に浮かびあがっています。また、高度成長期において、私たちはいたずらに「若さ」と「生」を謳歌してきましたが、来るべき超高齢化社会の足音は「老い」と「死」に正面から向かい合わなければならない時代の訪れを告げています。太陽から月への主役交代とは、それらを見事に象徴しているのです。
慈悲の光を放ち、おだやかな影をつくるものこそ月光経営です。各企業がそれぞれの社会的使命を自覚し、世の人々の幸福に貢献し、徳業となることをめざすならば、その結果として利益という月の影ができるのです。
満月の夜に影ふみをしながら、経営という最高の遊びを楽しむこと、それがハートフル・マネジメントです。
『孔子とドラッカー』は、月光の書です。月光とは、月が自ら発した光ではない。それはあくまで太陽の反射光です。同様に、本書に登場するさまざまな考えやエピソードは、すべて先人という太陽からの光を月である私が反射して、読者諸兄のもとにお届けしたにすぎません。
「人の心はお金で買える」と言った人物がいましたが、もちろん、人の心はお金で買えません。人の心を動かすことができるのは、人の心だけです。
いま、大いなる心の経営、つまりハートフル・マネジメントの扉が開きます。
かつて、孔子の思想的子孫と言うべき明の王陽明は「心学」を開き、日本の石田梅岩は「石門心学」を唱えた。本書が、まったく新しい「平成心学」としてのハートフル・マネジメントを用意する草莽の一冊になれば、これに勝る喜びはないと私は思っています。
人心を金で買えると馬鹿が言ふ
人はかならず心で動く 庸軒