冠婚葬祭互助会とは何か
●公共性・福祉性の高い冠婚葬祭互助会
冠婚葬祭互助会はきわめて特異な業種である。
そもそも互助会部門と施行部門とは全く異質な業種であり、前者は金融業、後者はホスピタリティ・サービス業と位置付けることができる。すなわち、冠婚葬祭互助会とは金融業およびホスピタリティ・サービス業が等分に混ざり合った複合産業といえよう。
互助会は相互扶助精神を活動の基本理念としながらも、そこには一方で経営体としての消費者保護への責任がなければならない。そのためには適正利潤を求めながら、それを消費者に還元する方法が講じられなければならない。それは施行時における付加価値と言ってもよい。
互助会の母体となる企業がしっかりしているからこそ、会員は毎月の掛金を掛け、必要時に役務を提供してもらう。これは会員と互助会の信頼関係以外の何ものでもない。いつ発生するかわからない結婚式と葬儀の二大儀式に対して、前受金を積み立てていく。金額の多寡ではない。預ける側も預かる側も、そこに社会的責任と信頼がなければこの事業は決して成功しない。会員が増えればプールされる金額も当然増加する。その金額の全てが会員の預かり金だと自覚しなければ、互助会はとうの昔に指弾の対象になっていたことだろう。
公共性・福祉性の高い互助会事業に携わる者は、一私企業の利潤追求とは違い、社会への奉仕者としての誇りを持つべきである。
●冠婚葬祭互助会の最大の使命は、日本の儀礼文化を継承すること
掛金を掛けてくれる会員に対して冠婚葬祭の施行という役務提供をすること、これが一般に考えられる互助会の使命である。しかし、もっと大きな視点から互助会の使命というものを考えてみたい。
オリンピックや万国博覧会といった国際的なイベントや、その開会式・閉会式に代表されるように、儀式や祭典とは人類にとって、万国共通の民族感情であり人間の本能的欲求の集団的象徴といってよい。そうした人間感情の最も素朴な欲求として、結婚式ならびに葬儀をあげることができる。
その生涯において、ほとんどの人間が経験する結婚という慶事には結婚式、すべての人間に訪れる死亡という弔事には葬式という形式によって、喜怒哀楽の感情を近隣の人々と分かち合うという習慣は、人種・民族・宗教を超えて、太古から現在に至るまで行われている。この二大セレモニーはさらに、来るべき宇宙時代においても当然継承されることが予想される「不滅の儀式」であり、人類の存続する限り永遠に行われるであろう。
しかし、結婚式ならびに葬儀の形式は、国により、民族によって、きわめて著しく差異がある。これは世界各国のセレモニーというものが、その国の長年培われた宗教的伝統あるいは民族的慣習といったものが、人々の心の支えともいうべき「民族的よりどころ」となって反映しているからである。
●儀式とは「文化の核」である
わが国の儀式も例外ではない。結婚式ならびに葬儀にあらわれたわが国の儀式の源は、小笠原流礼法に代表される武家礼法に基づくが、その武家礼法の源は『古事記』に表現される「日本的よりどころ」なのである。すなわち『古事記』に描かれたイザナギ、イザナミのめぐり会いに代表される陰・陽両儀式のパターンこそ、後醍醐天皇の室町期以降、今日のわが国の日本的儀式の基調となって継承されてきたのである。
太平洋戦争以降、わが国の社会形態が大きな変革を遂げ、欧米文化の著しい影響を受けたにもかかわらず、神前・教会式・仏式・人前といったそのスタイルの別なく、今日の結婚式の中に、花嫁が白無垢(打掛)から振袖(色直し)にかかわる形において、日本民族としての陰陽両儀式の踏襲が見事に表現されている。
結婚式のみならず葬儀、さらには各種通過儀礼を総合的にとり行う冠婚葬祭互助会の最大の使命とは日本の儀礼文化を継承し、「日本的よりどころ」を守る、すなわち日本人の精神そのものを守ることなのである。
その意味で冠婚葬祭互助会とは、茶の湯・生け花・能・歌舞伎・相撲など、日本の伝統文化を継承する諸団体と同じ役割、いや、儀式というさらに「文化の核」ともいえる重要なものを継承するという点において、それ以上の役割を担っているのである。
●通過儀礼が日本人の心を救う
結婚式、葬儀という互助会にとっての二大役務に次ぐ通過儀礼の施行は、第三役務と呼ばれている。どうしても利益率が低く、また特別施行のイメージにもつながることから、通過儀礼に対して積極的でない互助会は多い。しかし、茨城の七五三や沖縄の長寿祝いなど、ビジネスとしても市場が大きいものもあり、互助会の将来を考える上で通過儀礼の存在は欠かすことができないといえる。
日本人の精神生活にとっても、通過儀礼の存在は大きい。
初宮参り、七五三、成人式で子供の成長を祝う。長寿祝いや法事で親戚が一堂に集まる。そのような通過儀礼こそは、家族や一族の絆を強め、いわば「心の縁側」を作る機能を果たすのである。子供の七五三も祝わない、年寄りの長寿祝いもしないような家庭には心の絆など存在しない。逆にそういった通過儀礼をきちんと行っていれば、いじめ、家庭内暴力、家庭内別居、親子断絶など起こらないであろう。なぜなら、通過儀礼とは人のために祝ってあげるという「やさしさ」や「思いやり」の心を育てるからである。そして、自分のために祝ってもらうことによって「感謝」の心が生まれるからである。
少年はナイフによる殺人、少女は売春が流行という退廃した現在の日本において、互助会がきちんと通過儀礼を行う慣習作りをすることの意義は非常に大きいのである。
●イメージキャピタルに恵まれた互助会事業
イメージキャピタルという言葉がある。これからの企業にとって、生き残るために最も大切なのは資金よりイメージであるといわれる。現在でも、企業ごとにイメージには大きな差がある。また、人々の心に潜在するイメージも会社によって違う。これは、経済資本に対して幻想資本(イメージキャピタル)と呼ばれる。
これからの企業は、幻想資本がなければ誰も雇えず、仕事も取れず、商品も売れず、株すらも売れないという状況になる。幻想資本というのは、CIやブランドイメージではない。あえて言うなら、会社のキャラクターやイメージリーダーというようなものである。したがって、単純で具体的であることが大切である。
そのため、安定した大企業で会社の顔が特定できないようなところは、高いイメージや豊富な幻想資本を持つことが大変困難といえる。逆に、小さいけれども急成長していて注目を浴びやすいベンチャー企業などは幻想資本を持ちやすい。
●企業にとってのイメージとは
現在さすがに産業界にもイメージが大切ということが浸透したようで、CI戦略に工夫をこらす企業も増えてきた。中には売上の1%を森林保護団体に寄付したり、海洋生物保護団体に寄付したり、といったことを打ち出す企業も現れた。イメージ戦略が大切ととらえている点でも、企業イメージをエコロジー方向にしようという点でも間違ってはいないのだが、こういった試みはいっこうに功を奏さないようだ。
それは、「売上の1%を寄付する『だけ』」という態度に敗因があるのである。もちろん、企業側にとっては「売上の1%『も』寄付する」という画期的かつ大胆な発想である。しかし、残念ながらそれは、賢くてひねくれたイメージ消費者たちにとっては「なかなか気合の入った宣伝費」としか考えてもらえないのである。たとえ社長が本気で森林保護に関心があって、日曜日にそのためのボランティア活動をやっていたとしても同じことである。
●企業の活動自体が価値観を体現する
また売り上げの1%という金額がいかに巨額で、実際に森林保護団体の根幹を支えていてもダメなのである。そんな小手先ではなく、企業の活動自体が価値観を体現していなくてはサポーターはつかない。この例のようにエコロジーというカラーを打ち出すならば、その企業の主な業種自体がそういったエコロジカルなものを目指していなければ意味がないのである。
だいたい「売上の1%」というが、その売上げというのは何の売上げなのか、それはどんな作り方をしているのか、作ることによって地球にどんな影響があるのか、そこが消費者にとって大切な問題なのである。例えば、かの製薬会社が非加熱血液剤でHIV患者の犠牲の上に莫大な利益をあげて、その一部を赤十字に寄付してもダメだということだ。
いわば、「売上の1%」とは、酔っぱらった父親が家族に買って帰る寿司の折詰やたこ焼きや甘栗と同じなのである。そんなことをした おかげで、よけいやましさが際立ってしまい、かえってみっともなく見えてしまうのである。現在のような高度情報化社会においては、こういったことが常にガラス張りなのである。
●互助会事業の価値観・世界観
これからの企業は、「なぜ」この仕事をしなければならないのか、という価値観・世界観を明確にする必要がある。同時にその価値観・世界観に賛同する人には、こういうふうに力を貸してくれと具体的に提示する必要もある。そして、力を貸してもらえたら今後は貸してくれた力によって何ができたのかを報告しなければならない。
価値観と世界観の提示、具体的欲求、成果の報告。この3つがそろって初めて、イメージキャピタルは増大する。消費者がサポーターになるとは、このようなことである。
これまで見てきたことからもわかるように、冠婚葬祭互助会は公共性・福祉性が高く、儀礼文化の継承やひいては日本人の精神生活を守るといった、価値観・世界観を明確に提示できる業種である。したがって、互助会事業はイメージキャピタルに恵まれており、高度情報化社会において将来の明るい事業なのである。
●互助会はボランタリー経済そのものである
「ボランタリー・エコノミー」が時代のキーワードとなっている。「自発する経済」と訳されるが、平たく言うと、ボランティア活動と経済活動の融合である。ボランタリー・エコノミーは教育からNPO活動まで、基本的には「すすんで人の役に立つ」ということでお金が回るというしくみだ。強いものが弱いものを支配するとか保護するというモデルではなく、相互に関係がつながることがボランタリー・エコノミーの力である。
近代に登場した赤十字、YMCA、協同組合、幼稚園などはみんなボランタリー組織であった。そして、日本の共同体にはもともと「結」や「講」といったボランタリー組織が存在した。この「結」や「講」こそ、互助会のルーツなのである。互助会はボランタリー・エコノミーそのものであるのだ。
●冠婚葬祭互助会の特殊性と普遍性
冠婚葬祭互助会の特殊性および普遍性は、その精神、理念を「相互扶助」に求めている点にある。このことはきわめて日本的な風俗・習慣に根ざした「結」や「講」にさかのぼる。
「結」は、奈良時代からみられる共同労働の代表的形態で、特に農村に多くみられ、地域によっては今日でもその形態を保っているところがある。この共同労働は労働の相互提供であり、田植えや収穫時期、あるいは屋根のふきかえなどを通して労働力が対等に交換されることを原則としている。また、この相互の労働力の交換は、その根底に労働に対する「賃借」の観念があり、そのことが今日に至って互助会活動の「役務提供」に姿を変えて反映したといえる。
一方、「講」は、「無尽講」や「頼母子講」のように経済的「講」集団を構成し、それらの人々が相寄って少しずつ「金子」や「穀物」を出し合い、これを講中の困窮者に融通し合うことをその源流としている。いわゆる互助的無利息融通組合ともいえるもので、この「講」の歴史は鎌倉時代までさかのぼることができる。特に、この経済的「頼母子講」の特色は、親と呼ばれる発起人と数人ないし数十人の仲間で組織が作られ、一定の給付すべき金品を予定し、定期的にそれぞれ引き受けた口数に応じて、くじ引きや入札の方法で、順次金品の給付を受ける仕組みとなっている。このシステムは関西に始まり、江戸時代に関東へと広まり、庶民の金融機関として全国に普及した。
●現代によみがえる相互扶助システム
「講」はまた、日本の同業組合の先駆でもある。鎌倉時代の僧・重源は全国の山岳寺院の「講」参加を呼びかけ、源平の争乱に焼け落ちた東大寺の復興をなしとげた。衰微した中国の天台山復興も「講」を用いて日中共同プロジェクトで成功させた。
実は、いま寺院や美術館で見られる運慶や快慶を頂点とする鎌倉美術や鎌倉建築のほとんどが、「講」の遺産なのである。また、鎌倉後期に仏教の戒律を復興し、真言律宗を組織した叡尊や忍性は、「講」を募って癩病救済や貧民救済の事業を起こしたが、日本の福祉事業のルーツもほとんどこのような「講」から始まったのである。この2人の活動は日本のボランタリー活動の最初の頂点を築くものとして、また、介護問題が重視されている今日的な課題の発端を築いたものとして、いま、とりわけ高く評価されている。
このような「結」と「講」の2つの特徴を合体させ、近代の事業として確立させたのが冠婚葬祭互助会の経営システムである。日本的伝統と風習文化を継承し、「結」と「講」の相互扶助システムが人生の二大セレモニーである結婚式と葬儀に導入され、互助会を飛躍的に発展させる要因となった。
以上からもわかるように、冠婚葬祭互助会は公共性・福祉性・文化性の高い事業なのである。互助会の本質と今後の社会における重要な役割をしっかりととらえ、くれぐれも単なる金融業としてだけでなく、ホスピタリティ・サービス業とのバランスを図っていかなければならない。