スペシャルメッセージ サンレーグループ社員への特別メッセージ 2005.3

ホテルと百貨店は資本主義の華 西武とダイエーが見た夢の跡

ホテルと百貨店は資本主義の華
 みなさんには「社長訓示」として私のメッセージを毎月お届けしていますが、実は話したいこと、伝えたいことはもっともっと溢れるようにあります。そこで、これからは通常の社長訓示とは別枠で特別訓示を時々お送りしたいと思います。
 今回はまず、ホテルと百貨店の話から始めます。私は現在、九州ナンバーワンの百貨店である株式会社井筒屋の社外相談役をやらせていただいていますが、「百貨店は不条理産業である」と中村眞人社長は常々述べておられます。
 一般的な商売の観点から見れば、明らかに無理なこと、理不尽なことでもお客様は当然のように百貨店に対して要求してこられる。でも、そういった要求を無視するのではなく、しっかりと受け止めて、業務に反映させない百貨店は生き残っていけず、ましてや勝ち残ってはいけない。そのようなことを中村社長はおっしゃっておられるのだと思います。
 私は、「ホテルもまったく同じで、不条理産業ですよ」と申し上げました。ホテルも百貨店も顧客のいわば不条理な要求に正面から取り組まなければならないビジネスだと言えます。そして、ホテルと百貨店にはサービス業と流通業という業種を超えた大きな共通点があります。
 それは、ともに人々に「夢」を与え、「文化」を発信する存在であるということです。都市における夢と文化の城と言ってもよい。
 その意味で、ホテルと百貨店は資本主義の華だと言えるでしょう。人々の夢、ゆとり、あこがれ、ロマンといったものが凝縮した場所であり、ホテルと百貨店ほど文化的な産業はないと言えます。そう、不条理産業とは文化産業の別名なのですね。しかし、それだけに経営的視点から見ると、非常に難しい部分がある。それは何よりも、わが国におけるホテルおよび百貨店のほとんどが赤字であるという事実が雄弁に物語っています。
 北九州市には「文化の砂漠」などという有難くない異名がついていますが、この砂漠の地で井筒屋も、わが松柏園ホテルも、ともに一番の老舗として文化産業としての役割を果たしつつ、かつ経営的に成功を収めるべく着実に歩んでいます。
資本主義という発明
 百貨店の歴史をふりかえってみますと、19世紀半ば、商業の天才アリステッド・ブシコーによって世界初のデパート「ボン・マルシェ」がパリに産声をあげました。ブシコーによるデパートという発明は、ものを買うというもっとも人間的な行為を百八十度転倒してしまったという点で、まさに革命的な意味を持っていました。すなわち、デパートにひとたび足を踏み入れた買い物客は、必要によって買うのではなく、その場で初めて必要を見出すことになったのです。
 ボン・マルシェは同時代に建設されたシャルル・ガルニエのオペラ座にイメージを重ね合わせてつくられましたが、商品が劇場、買い物客が観客だとすると、肝心のオペラは当然商品ということになります。そして、ブシコーはこの「商品のオペラ」の傑出した演出家だったのです。
 ウインドー・ディスプレイは、それぞれが、ある種の物語性を含んだオペラの情景ないしは楽曲を構成している。  つまり、ゆるやかな序章から始まって、クライマックスに至り、大団円を迎えるというように、ウインドーの前に立った顧客は、ディスプレイを見ながら、売り出しのテーマに基づいた商品のオペラを楽しむことができるように工夫されているのです。もちろん、楽しんだ分だけ、言い換えれば、物語を享受した分だけ、デパート側の「これを買いなさい」というサブリミナル・イメージは顧客の深層心理にしっかりと植え付けられてしまうことになります。
 ディスプレイの基本は、店内に一歩足を踏み入れた顧客が思わずハッと息を呑むような、不意打ちによる驚異(メルヴエーュ)の喚起にありました。すなわち、必ずしも、洗練された趣味のよさや色彩の調和などには囚われない、人の意表をつく仕掛けがボン・マルシェの大売出しのときの特徴でした。
 たとえば、「白物セール」のときには、それぞれの売り場が白い生地や商品だけを優先的に並べたばかりか、上の階の回廊や階段の手擦りを白い生地で覆いつくし、造花も白、靴も白、さらに家具にも白のレースをかぶせるなど、全館をすべて白で統一し、白いソックスで「ボン・マルシェ」という文字をつくって店内のいたるところに掲げるようにしていました。1923年の「白物セール」では、「北極」というテーマに従って、アール・デコ調にセットされたシロクマやペンギンが、ホールに入った顧客を出迎えるようになっていました。
 要するに、ブシコーにとって、商品のディスプレイとは「ボン・マルシェ」という劇場を舞台にして展開する大スペクタクル・ショーに他ならなかったのです。
 当時のフランスを代表する作家エミール・ゾラは、ボン・マルシェを「現代商業の大聖堂(カテドラル)」と断定しました。多くの新興宗教の信者がそうであるように、このカテドラルに日夜詣でる信者たちの大部分は女性でした。そして、ブシコーの集客戦術の大部分は、女性信者の心理を巧みに捉える魔術的宗教家の人心収攬術に酷似していました。
 すなわち、オペラ座か大聖堂を思わせる豪華絢爛たる店舗、天上の楽園かと見まがう内部のオプティカルな装飾、スペクタクル・ショーとしてのディスプレイなどのハードウエアについても、廉価販売、バーゲン・セール、目玉商品といった販売技術そのものに関するソフトウエアについても、ブシコーが心を砕いたのは、ただただいかにして女性客をボン・マルシェにひきつけるかということだったのです。
  『デパートを発明した夫婦』というボン・マルシェに関する著書を持つ共立女子大学教授の鹿島茂氏は、「デパートを発明したこのブシコーこそが資本主義を発明した者なのである」と述べています。
百貨店は都市の文化
 日本においては明治後期に、呉服店が新しい形式を取り込み、百貨店へと脱皮していきました。もともと明治期には勧工場というものがあり、同じ施設の中に通路をはさんで、経営者の異なるさまざまな売店が並び、日用品から文房具、室内装飾品、洋物、呉服など、幾種類もの商品が陳列、販売されていました。
 その後、勧工場が衰えを見せはじめた明治末期頃には、百貨店独自で博覧会を開くなど、人々に新しい時代の夢を与える存在にもなっていました。「今日は三越、明日は帝劇」という有名な文句からもわかるように、百貨店はセレブのサロン、あるいは接待所としての役割を持つものとして建設された帝国劇場と並んで語られる存在にもなっていったのです。
 百貨店で行なわれる催し物や、そこで売られる商品は、これからの新しい時代の文化的な家庭生活にふさわしい品物、欠かすことのできない必要なものとして人々に認識されていきました。百貨店の商品や催し物などを通して、人々はこれからのあるべき文化生活を単に頭の中だけではなく、具体的な形として知ることができたのです。
 大正末期には松坂屋が銀座に初めて進出し、次いでそれまで神田今川橋にあった松屋が銀座に本拠を移しています。その際、松坂屋は洋家具、電気器具、楽器、貴金属、図書など、時代の風潮にのっとった時流商品部門を充実することを心がけました。また松屋は意図的に図案関係の部門を充実させ、流行に敏感になるべく「流行研究会」まで発足させています。
 この両百貨店に昭和初期に銀座支店を開設した三越を加えて、銀座は流行・文化の一大発信基地となったのです。
 昭和初期には百貨店は、地方に住む人にとって東京の名所の一つとなり、さらに東京に住む人にとっては娯楽場、都市の中の散歩道や休憩所としても利用される存在になっていました。百貨店でつくり出された流行が、都市の文化として東京および全国に広まっていったのです。
ホテルという呼び名
 今度は、ホテルの歴史について見てみましょう。イエス生誕時のエピソードにも登場するように、旅人を泊める宿屋は古代から存在しました。中世から近世初期にかけて宿屋のことをイギリスではインやタヴァン、フランスではオーベルジュ、オランダではハーバーグと呼んでおり、ホテルという言葉はまだ使われていませんでした。やがて18世紀も後半に入ると、都市の大旅館は「ホテル」と呼ばれるようになりました。その頃まだ細々と生きながらえていた、客室20〜30室程度の小規模旅館(イン)と区別するために、大旅館だけに使われたのがそもそもの始まりでした。
 もともとは「旅人や客を温かくもてなす」という意味のフランス語を語源とし、「客を温かくもてなすための大きな建物」という発想から、収容能力の大きい大型旅館に使われ始めたとみるのが妥当でしょう。
 ついでながら付け加えておくと、料理店をさす「レストラン」という言葉も、フランス語で「元気を回復させる」という意味で、これも18世紀の末ごろ、パリで使われ始めたのが世界に広がるきっかけであったと言われます。なるほど、食事をすれば人は元気を回復することになるわけですから、この言葉もなかなか言い得て妙ですね。「何度も帰るところ」を意味するフランス語から派生した「リゾート」も同様です。
幕末日本にもホテルが誕生
 欧米のホテル史をたどるときりがないので、日本の話に絞りますが、幕末の1860年(万延元年)にはすでに横浜ホテルが開業し、これを皮切りに横浜はホテルブームを迎えますが、海外では日本人たちがホテルという異文化を体験していました。司馬遼太郎の『翔ぶが如く』は、1872年(明治五年)にパリを訪れた薩摩藩士・川路利長たちがホテルの豪華さに圧倒される場面を描いています。
 土佐人の河野敏鎌などは、「土佐二十四万石と威張っていたが、この宿一つにもおよばぬなあ」と言って感嘆しました。そのホテルの建物は五階建て600室、従業員だけで500人という、日本の小さな大名の家臣ほどの数がいる。玄関を入ると、威圧されるような大空間のまっただ中に卑小な自分を発見していまう。この大空間は、重厚で華麗な調度によって芸術的変化を与えられており、何よりも驚かされるのは、壁や天井を明るくしているガス灯でした。
 さかのぼれば、幕末に咸臨丸に乗り込んだ福沢諭吉も異文化体験をしています。サンフランシスコのホテルでは、絨毯が敷き詰められている上を人が靴で歩き回るのを見て、「そんな贅沢なものの上を靴で歩くのを見たときには途方もないことだ」と大いに驚いています。後に「脱亜入欧」を唱える諭吉の考え方にこのホテル体験が何らかの影響を与えていると思われます。
 宿泊施設という性格に社交場としての機能が加味されたホテルが日本に流入したのは、開国後のことです。はじめに、東洋の小さな島国に興味を抱いてやってきた外国人が居留地に建てられた日本家屋をホテルに仕立て、次に本格的な洋館を建ててホテルとしました。その新たな宿泊施設は、在留外国人の一種の社交場になって、西洋文化流入の窓口の役割を果たしました。その代表格が、1873年(明治6年)に横浜に開業した外国人経営のグランドホテルで、関東大震災で倒壊するまで西洋文化の殿堂として活躍しました。グランドホテル開業のちょうど20年後に横浜に生まれた作家の獅子文六は、子どものころに見たそのホテルについて「それは、宮殿の印象以外ではなかった。ことに夜が美しかった。当時、あんなにカンカン灯火をつける所は他になかった。階下に大食堂があり、食事時に音楽をやっていた。ブラスバンドであったが、嚠喨(音が朗らかの意)そのものの音に聞こえた」と思い出を語っています。
 一方、進取の精神に富んだ日本人がホテル建設に挑みました。これからは西洋建築の時代になると読んだ二代清水喜助は、いち早くホテル建設を手がけ、時代が明治と改元されたときに築地ホテル館を完成させました。また大倉財閥を築いた大倉喜八郎は、「近代化ができず、外国人に笑われている」日本の現状を大いに憂い、「なんとか欧米人が感心するようなホテルはできないものか」が口癖でした。彼のそんな志が、初代帝国ホテルおよびホテルオークラの開業につながったのです。
総合シティホテルの誕生
 ホテルが一般の人々に認知されるようになったのは、大正時代に入ってからです。東京駅ホテル(現在の東京ステーションホテル)などが繁盛しました。そして、そのホテルの簡便性や快適性が完全に認知されたのは、1938年(昭和13年)開業の第一ホテルにおいてでした。寝台車の料金を目安にして室料を設定し、626室の巨大な規模で全館冷暖房完備とすると、盛況を極めました。一流の帝国ホテルもまだ冷暖房を導入していない時期のことで、これによって顧客を奪われたのは東京・新橋界隈の多くの旅館でした。心ない旅館の経営者は嫌がらせに、第一ホテルの玄関前に多量の馬糞をまいたといいます。
 現在のようにホテルが社交場として気軽に利用されるようになったのは比較的最近のことです。庶民にとって敷居の高かったホテルが広く利用されるようになった原因は色々とありますが、まず真っ先にあげられるのがモータリゼーションの進展、航空機のジェット化と新幹線の登場、さらにはジャンボ機の就航など、一口に「交通革命」と呼ばれる現象です。交通革命のおかげで、外国からの観光客が急増したばかりでなく、日本人の国内旅行も飛躍的に増え、それがホテルへの需要を大きく喚起する結果となったのです。
 その他にも見逃すことのできない原因があります。そもそも日本のホテルが急速に発達し始めたのは東京オリンピック直後の昭和40年代ですが、この時期は日本人の生活意識に微妙な変化が見られた時代でした。高度成長に支えられた昭和元禄の風潮のなかで、日本人の海外旅行熱は徐々に高まり、外国に旅行した日本人が国内に帰ってからもホテルを身近なものと考えるようになったからです。それが一般の日本人をも巻き込んで、ホテルという公共的な施設を誰にでも親しまれる存在にしたと言ってよいでしょう。
 ホテルも高度成長に対応して、それまでの宿泊施設一本やりの方針から脱皮して、結婚式をはじめ祝賀会、各種パーティーといった社交の機能を重視するようになり、和・洋・中華の料飲提供はもとより、バー、パブ、イタリアン・レストランなどのテーマ別の飲食施設を工夫したり、アスレチッククラブ、プールなどのスポーツ施設を設けたり、神殿やチャペル、衣装、美容、写真などのブライダル施設、ファッションを中心とする出店をアーケードに設けたりして、新しい顧客の掘り起こしに努めるようになりました。いわゆる、総合シティホテルの誕生です。
 こうしたホテル側の努力が顧客のニーズとうまくマッチして、ホテルへの需要が爆発的に換気される結果となったのです。
市民産業から総合生活産業へ
 先日、東京出張の際に新橋から銀座界隈を歩きました。くだんの第一ホテルや帝国ホテルの前も通って銀座に入り、松坂屋や松屋も覗いてみました。かつてほど文化の発信基地としての熱気はないにせよ、日本の百貨店およびホテルの歴史のメイン舞台となった銀座は、やはり今でも魅力あふれる場所です。
 銀座をブラブラ歩く、すなわち銀ブラは昔も今も心ときめくもの。そして、銀ブラを楽しむ私は、いつしかプランタン銀座とホテル西洋銀座の前にたどり着き、複雑な思いにとらわれました。プランタン銀座は、パリの超有名百貨店であるオ・プランタンの日本版で、かつてダイエーグループが悲願の末に開業しました。ホテル西洋銀座は西武流通グループ、つまりセゾングループがそのイメージシンボルとしたホテルであり、劇場や映画館まで内包した進化したシティホテルとして話題を呼びました。
 西武とダイエー、現在の日本の経済界を大きく揺るがしている二つの企業集団。近江商人から衆議院議長にまで昇りつめた堤康次郎が築き上げた西武王国は二人の息子、清二氏率いる流通グループと義明氏率いる鉄道グループに二分されました。その後、流通グループはセゾングループと改称しましたが、西武の名を唯一残す西武百貨店だけが「ひとつの西武」の象徴とされたのです。
 父親から莫大な不動産を受け継いで「日本一の土地持ち」となった義明氏は日本全国にプリンスホテルをはじめとして、スキー場やゴルフ場を建設、日本のホテル王、そしてレジャー王の名を欲しいままにしていました。一時は資産三兆円を持つ世界一の大富豪だったそうです。
 一方、正当な後継者には選ばれなかった清二氏は、西武百貨店や西友ストア、ファミリーマートなどの流通企業を核として「市民産業」という新しいイデオロギーを生み出します。「市民産業」はのちに「総合生活産業」という言葉で表現されるようになりますが、清二氏の言葉を借りて簡単に説明するなら、「麻薬、人身売買(売春も含む)、武器。この三つ以外のもので消費者が求めビジネスになるなら、どんな事業でもやる」ということです。
 そして出版・映画・劇場・美術館といった文化事業から不動産・保険・信販とあらゆる業種に進出したセゾンが最後に狙ったのが世界的なホテルチェーンであるインターコンチネンタルホテルズでした。2,000億円もの投資は90年代半ばからバブルの負の遺産の代名詞となりましたが、清二氏は、弟の義明氏のプリンスホテルチェーンに対抗するホテルがどうしても欲しかったのでしょう。詩人および作家の顔も持つ清二氏が、ホテルと百貨店こそ文化産業の極みであり、総合生活産業のシンボルであることに気づかなかったはずがありません。すでに百貨店を持っていた彼は、ホテルがどうしても欲しかったのだと思います。しかし、その無理が企業家としては命取りになった
ホテルと百貨店は多角化のシンボル
  ダイエーもしかり。流通業界の革命児・中内功氏率いるダイエーが本業以外の分野にのめり込んでいったのは、バブル期の80年代後半でした。大規模小売店舗法は運用が強化され大型店の出店は事実上、閉ざされました。本業への投資が困難になったことで、過剰流動性のもとで資金の向かった先が多角化事業でした。92年にリクルートを総額400億円超で買収し、同年に日本ドリーム観光を合併。94年には傘下にあったダイエーファイナンス、リッカー、朝日トラベルサービスの三社を合併させて、ダイエーオーエムエムシー(現オーエムシーカード)を発足。小売りを軸に情報事業、不慣れなゴルフ場開発に代表されるレジャー事業、サービス事業などを手広く手がける企業グループへと賭け上がりました。
 ダイエー多角化の最大のシンボルとなったのがプランタン銀座に代表される百貨店事業、そして福岡ドームおよびシーホークホテルなどのホテル事業でした。天性の商売人・中内功でさえも百貨店とホテルの魔力に取り付かれたのでしょうか。プロ野球のホークス球団も手中に収め、グループの年商が5兆円を超えていた頃のダイエーのスローガンは凄まじいの一言です。すなわち、「総合生活情報文化提案企業集団」。なんと、二文字の熟語が七つもくっついているのです!
 総合シティホテルは宿泊・宴会・料飲・カルチャー・スポーツといったハイライフを演出するあらゆる機能を備えています。また、百貨店はその「百貨」の名の通り、あらゆる生活に関するモノがそこで売られている。つまり、ホテルも百貨店もそれぞれが総合生活産業の雛形であり、シンボルと言えるでしょう。総合生活産業の完成には、どうしてもホテルと百貨店の存在が欠かせないのです。
 その後、紆余曲折の後、ダイエーが産業再生機構に送られたことは周知の通りです。パ・リーグでリーグ優勝した福岡ダイエーホークスが西武ライオンズに惜しくもプレーオフで敗退し涙を呑んだ、わずか一週間後のことでした。そして、その同じ日にパ・リーグの覇者となったライオンズの親会社・西武鉄道グループの大株主保有比率の虚偽記載問題が明るみになり、堤義明氏の引退が発表されたのです。昨年(2004年)の10月15日の日経新聞の一面トップの見出しは「ダイエー、機構に支援要請」であり、次のセカンドとなる見出しが「堤氏、西武グループ全役職辞任」でした。
 そして今年の3月2日の日経新聞の一面はトップ記事が「丸紅連合、ダイエーを支援」で、セカンドが「西武虚偽記載 堤前会長ら立件へ」となっています。本当に、ダイエーと西武は最後の最後まで深い因縁で結びついていた。
西武とダイエーの思い出
 私が学生の頃、中内功、堤清二、堤義明の三人は私にとってのヒーローでした。サンレーグループをいつかダイエーグループのように多角化したいと本気で思ったし、セゾンのように文化と経済の橋渡しをし、プリンスホテルのように松柏園ホテルを日本全国に展開するのが夢でした。
 社会に出てからの私は、広告代理店の東急エージェンシーに入社しました。東急グループの情報基地のような存在であった同社で、ライバルであった二つの西武を倒すべく戦略を毎日のように練りました。特に、東京・渋谷でセゾンが西武百貨店、パルコ、WAVE、LOFTといった店舗を展開した頃、東急が東急百貨店、東急ハンズ、109、ワン・オー・ナインで逆襲、ついには最終兵器として東急文化村を開設した時期、まさに私は最前線で記号の銃撃戦を行なっていたのです。今となっては夢を見ていたような気がします。
 あの頃の渋谷、つまり昭和末期の渋谷こそは、昭和初期の銀座と並んで、東京のみならず日本史上においても最も熱気があり、輝いていた祝祭的な街であったと私は断言できます。
 そして、現在では電通に奪われてしまいましたが、当時の東急エージェンシーの最大のクライアント、つまり得意客はセブンイレブンを中核とするイトーヨーカドー・グループでした。つまり、ダイエーグループの宿命のライバルです。そのようなわけで、私はあくまでも、東急とイトーヨーカドーの側に立っていました。それゆえに、西武とダイエーについては研究しつくした思い出があります。
 その後独立して、ハートピア計画でプランナーをやっていた頃には、福岡ドームの双子として建設されるはずであった「ファンタジードーム」なるテーマパークの企画コンペに関わりました。そこで、三菱商事および東急エージェンシー連合軍のプランナーとして参画し、ダイエー側の経営陣ともよくお会いしたこともありました。もちろん、稀代のカリスマ・中内功氏にも。
 私の処女作である『ハートフルに遊ぶ』のテーマのひとつは、産業構造の変化でした。産業の主役が製造業から流通業およびサービス業に移るというのが私の主張でしたが、あの頃の日本には、三菱や三井や住友に代わって西武・東急・ダイエー・イトーヨーカドーといった企業集団が経済界の頂点に立つといった予感が確かにありました。そして、日本人の新しいライフスタイルを提案し続ける中内功、堤清二、堤義明といった人々は豊かな新時代への水先案内人であり、巨大なオーラを放つカリスマに他なりませんでした。
 その中内功、堤清二の両氏は経済界から完全に引退。ホテル王・堤義明に至っては、3月3日、ついに逮捕されたのです。三人のカリスマは全員、不本意な形で舞台から退場してしまいました。今さらながらに栄枯盛衰、盛者必衰といった言葉が脳裏をよぎります。この言葉は決して西武やダイエーだけのためにあるのではない。企業買収を派手に繰り広げるIT関連をはじめとして現在隆盛をきわめている幾多の企業にも当てはまりますし、もちろん冠婚葬祭互助会やハウスウエディング会社などで拡大戦略を続けている同業他社にも当てはまることなのです。
西武とダイエーから学んだこと
 ひるがえって、わがサンレーの場合を考えますと、かつては西武やダイエーほどのスケールはなかったにせよ、全国展開そして多角化に走った時期がありました。しかし、その後、方針を180度転換して、「選択と集中」を打ち出し、シェアナンバーワンの地域のみで営業展開、また本業の冠婚葬祭と直接関連のないあらゆる事業から撤退しました。
 もちろん、私だって人間ですから、会社を閉めるのは淋しかったし、撤退した地域の社員のみなさんとのお別れ会の後はいつも一人で泣いていました。会長も私も、この10年は本当に淋しい思いをたくさん味わってきました。しかし、その臥薪嘗胆の時期があったからこそ、今がある。おかげさまで、当社の昨年の業績は過去最高の結果を出すことができました。
 総合生活産業という途方もないロマンを夢見た西武とダイエー。当社も淡い夢を見た時期もありましたが、今は空より高く海より大きな志を持ちつつも、地に足をしっかりつけて生き続けています。総合生活産業の雛形であり象徴たるホテルに関しても、松柏園ホテルは婚礼に特化して大成功を収め、今またローマ風結婚式場ヴィラ・ルーチェで大きな話題を呼んでいます。まさに総合シティホテルであった松柏園グランドホテルも高齢者にターゲットを絞ったサンレーグランドホテルとして生まれ変わり、これまた大成功。本当に、みなさんの努力に支えられてすべてが良い方向へと向かっており、私ほど幸運かつ幸福な経営者はいないと心の底から感謝しております。
 私も現役の経営者であり、ジャーナリストや評論家ではありませんから、本当は西武やダイエーといった人様の会社のことについて色々と発言するのは控えるべきだと思います。しかし、私は西武とダイエーに感謝の念を抱いているのです。かつては若き日の私に夢を与えてくれ、今また多くの大事なことを教えてくれた。『人生にとって大事なことは、すべて幼稚園の砂場で学んだ』という本がありますが、経営にとって大事なことのすべてを、私は西武とダイエーから学びました。
 また、日本一の富豪であった堤康次郎、義明親子の考え方、生き方については正直言って疑問を感ずるところ大ですが、堤清二、中内功の両氏については確実に志を抱いていたと信じており、私は今でも尊敬しています。
 「日本の物価を二分の一にする」と宣言して流通革命を推進した中内功。常に経済と文化のリンクを意識し、社会の中における美しい企業のあり方を追求した堤清二。彼らの心中には「日本人を豊かにする」という強い想いがあったはずだし、二人ともやはり日本の経営史に名を残す人物なのです。最終的な評価は歴史が下すとだけ今は言っておきましょう。
 それにしても、栄華を極め、かつそれを継続し続けなければ認められない実業界とは、なんと過酷でハードルの高い世界でしょうか。
拝金主義の終焉
 本日、3月3日の雛祭り。宇佐紫雲閣竣工披露祝賀会の帰りに堤義明会長逮捕の報に接しました。先の福岡ダイエーホークスの高塚猛社長の逮捕で「金を稼げれば、それでよい」時代が終わったのに続き、今回は「金を持っていれば、それでよい」時代の終焉を実感します。長く続いた日本の拝金主義が崩れ去ろうとしている。そして、真に顧客から、社会から必要とされる心ある企業だけが存続していける時代が始まろうとしています。
 サンレーグループの方向性は、あらゆる点で絶対に間違っていない。必ずや、陽はまた昇る!これこそ、わざわざ別枠の特別訓示として多くの言を費やしましたが、私がどうしてもみなさんに伝えたかった、もっとも言いたかったメッセージなのです。