真宗王国を築きあげた蓮如 その組織づくりの超ノウハウに学ぶ
●蓮如ゆかりの地をたずねて
9月末に北陸本部の社員旅行に行ってきました。佐久間会長が一班に、私は二班に参加して、北陸の社員のみなさんとの親睦を深めることができました。
初日の福井県は芦原温泉の湯にも癒されましたが、何より二日目のコースにある「吉崎御坊」の訪問を非常に楽しみにしていました。言わずと知れた、蓮如上人のゆかりの地です。
俗に「真宗王国」と呼ばれる北陸は、蓮如が人々の暮らしのなかに地下水のように染み込み、多くの説話、伝説を通して生々しく息づいている土地でした。それは現在でもそうです。この土地で語られる蓮如のイメージは、敬し、うやまうといった聖人に対するものよりも、むしろ門徒や信徒と家族兄弟のように接した彼の人間味を伝えるものが目立ちます。
浄土真宗の祖である親鸞は「親鸞聖人」と呼ばれるのが自然ですが、蓮如の場合は「蓮如上人」というよりも、「蓮如さん」となつかしく呼びかける雰囲気です。「蓮如さんの歯」だとか、「蓮如さんのお腰畑」だとか、「蓮如さんの煎り豆」とか、数多くの伝承が残され、おそらく北陸で歴史上もっとも親しまれ、語られてきた人物こそが蓮如でしょう。
北陸以外のサンレーグループのみなさんにはなじみが薄いかもしれませんが、蓮如は日本宗教史に燦然と輝く巨人です。本願寺教団の中興の祖であり、彼なしには、今日の東西本願寺の隆盛はありえなかったとされます。
生涯で五度の結婚をし、子どもの数が27人。平均寿命が50歳そこそこの当時にあって85歳まで生き、ほぼ半世紀にわたって法主職に君臨。一向一揆を組織して宗教コミューンを導き、寂れはてていた本願寺教団を日本最大の宗教組織にまで大成させました。その異常なまでのエネルギーとバイタリティは他に例を見ません。
教団運営と人心掌握術に抜群の才覚をもったカリスマである蓮如は、根っからの職業的宗教者であり、その宗教的資質は「弟子一人ももたず」「寺は小棟をむね」とする親鸞とは対照的でした。
本願寺教団の強みとは、親鸞と蓮如という二人の資質の異なる宗教的天才を抱え待ったところにあったと言ってもよいでしょう。
親鸞は個人それぞれの信仰の確立を求めて、ひとすじの道をまっすぐ歩いてゆきました。ひとり暗夜に灯をともした人です。親鸞は本質的に求道の人でした。しかし、蓮如は違います。親鸞がともした純粋な信仰の明かりを、闇のなかにうごめく無数の人々に一人でも多く手渡そうとしました。嵐にゆれる灯火を、決して消すまいと必死の努力を続けました。
親鸞は個人的信仰を、蓮如は大衆的信仰を、それぞれ確立した人だと言えるでしょう。作家の五木寛之氏は著書『蓮如』に次のように書いています。
「蓮如は親鸞とちがって、曲がりくねったデコボコ道を、ときには妥協し、ときには演技しながら、彼なりに必死で戦い抜いたのです。親鸞を求道者とするなら、蓮如は伝道者と言うべきかもしれません。両者は一つの真理をめざしながら、それぞれに異なった道を歩むことになるのです。蓮如は宗教的共同体のうちに中世民衆のアイデンティティを確立した人でした」
●蓮如の歴史をひもとくと
蓮如は応永22年(1415年)、本願寺第七世であった父の存如とその侍女の間に誕生しました。存如が20歳のときの長男ですが、その後、存如が正妻を娶(めと)ることになりました。それを知った蓮如の実母は、当時六歳の蓮如に鹿子の小袖を着せて、絵師にその肖像画を描かせたあと、本願寺から姿を消します。
当時の本願寺は「人せき絶えて、参詣(さんけい)の人ひとりも見えさせ給わず、さびさび」とした窮乏状態にありました。蓮如はそうした苦境のなか、43歳まで部屋住みの生活を送りつつ、親鸞の遺著を中心に教義の研鑽を深めたのです。
長禄元年(1457年)、実父の存如が死去。蓮如は実父の正妻の子との間で、血縁の一家衆を巻き込む壮絶な跡目争いの末、本願寺第八世を継ぎます。それからの蓮如の布教は果敢でした。法主就任後、真宗では仏光寺派がもっとも繁栄していましたが、同派は名帳に名を記せば往生が決定されるという「名帳絵系図」による布教方法をとっていました。蓮如はそれを親鸞の教えに反する邪義異説であるとして徹底的に攻撃し排除しました。
仏光寺派に限らず、真宗の他派も同様の異端が蔓延(まんえん)していましたが、蓮如は奮然と排斥し、仏壇の本尊や名号に自ら裏書きして、精力的に布教しました。同時に「御文(御文章)」と呼ばれる独自の文書による伝道を行ないました。御文は他力念仏の真意をわかりやすく示した消息(手紙)形式の法語で、読む者に不惜身命(ふしゃくしんみょう)の念仏者を自覚させるアジテーション的な効果をもっていました。
蓮如の努力で本願寺教団の勢力が強化され、各地に門徒が組織化されるに従い、当時の宗教界のボスである比叡山衆徒は警戒感を強め、本願寺を既存仏教の敵と見なすようになります。寛正(かんしょう)6年(1465年)、比叡山衆徒が京都大谷本願寺を襲撃、蓮如は近江に逃げのび、以後、各地をまわります。
布教の拠り所として農民たちを中心とした「講」がすでにつくられていましたが、蓮如の布教とともに単なる宗教結社の枠を超え、自治単位となり、やがて一向一揆の組織的基盤となっていきました。来世の往生が約束されている彼らにとって死は恐れるに足らず、仏法を守るために徹底的に戦う決意がありました。つまり武装蜂起すれば、強力な即戦力となるわけで、一向一揆の無敵の強さの秘密もそこにあったのです。
そして文明3年(1471年)、北陸へ進出した蓮如は越前国河口庄の吉崎に御坊を建立。北陸地方は真宗高田派の地盤で、天台系の諸行を採り入れ、いわば異端的な要素がありましたが、そこへ蓮如はあえて乗り込んだのです。両者は衝突し、結局、本願寺側が勝利して、高田派は北陸から一掃されました。
そこを拠点として、蓮如は周辺地域を本願寺勢力で固めていきました。
そして寂しい台地にすぎなかった吉崎は、みるみるうちに巨大な宗教都市として激変しました。本堂、坊舎、庫裡(くり)、書院、鐘楼、門などのほかに、門弟たちの坊舎が建ち並び、やがて「多屋」と呼ばれる宿坊が続々と軒をつらねます。この「多屋」というのは、各地の末寺の出張所をかねた門徒たちの宿泊所で、非常時の備えにもなるという多目的の建物でした。こうして山上が整備されると、商人や、職人、交通業者なども続々と集まってきます。
寺に出入りする仏画師や表具師、大工、馬方、流れ者の奉公人、浪人、芸人や博奕(ばくち)打ちや酌婦(しゃくふ)などもいただろうと思われます。そして都からやってきたありがたいお坊さんの姿をひと目でも拝みたいという、素朴なお参りの団体も各地から訪れてくるようになり、やがて同時に陰鬱な北陸の台地に忽然と出現した不思議なメルヘン都市を見物する客がどっと押し寄せてきはじめるまでは、あっという間でした。それは地上に出現した幻の都市であり、実在の蜃気楼のようにも感じられたのでしょう。
●ファンタジックな聖地の誕生
日本海沿いの土地に特有の重苦しい気候の中、ファンタジックな聖地が出現したのです!それは金色の浄土の幻想に彩られ、また同時にあらゆる雑多な階層の人々が、平等な人間としてふるまえる解放区でした。そこには、ありとあらゆる「遊び」もありました。それは蓮如ブームでもありましたが、それ以上にこの世の「理想土」としての吉崎ブームでもあったのです。心にひびく和讃の声とともに、一方では庶民の猥雑なエネルギーが爆発する歓喜の都としての吉崎も人々を魅了したのでした。
毎年、春になると吉崎では盛大に蓮如忌が行なわれます。4月下旬といえば北陸では遅い春の盛りですが、10日間にわたって催されるその蓮如忌に向けて、4月17日に京都の東本願寺から行列が出発します。人々は車に蓮如の御影を乗せて徒歩で吉崎まで巡行するのです。蓮如忌が終わると、再びそれを京都へ送る8日間の旅が行なわれます。ながい巡行のあいだに立ち寄る宿では、鐘を鳴らし、暗くなれば提灯をつけて行列を迎えます。子どもや犬までも走り寄り、信心深い人々が隣の集落まで行列につきそって見送る姿も見られます。
この伝統行事は、何と1752年から二百数十年にわたって現在でも毎年続いています。吉崎だけでなく、北陸各地ではかねてから蓮如忌が盛大に行なわれてきました。それはギョキ(御忌)とも呼ばれますし、金沢のようにレンニョサンと呼ぶところもありました。能登では、珠洲市のヘンジャ祭りが有名です。その日は飲めや歌えやのドンチャン騒ぎをやらかすのですが、この陽気なフェスティバルの背後にも、蓮如らしい伝承があります。つまり、蓮如さんは「人の世は無常じゃが、しかしくよくよするな。わしの命日には大いに陽気にやるがよい」と遺言をした、と。
このように蓮如には常に「祝祭的」なエネルギーの匂いが漂います。吉崎の爆発的な賑わいもそうですし、「講」のあり方もそうです。そこでは信仰について語り合う敬虔さと同時に、談笑し、共に飲食し、歌い騒ぐ、「遊び」の要素も大きかったのです。そこには生き甲斐のない農民たちにとって参加することが喜びであるパーティーがあったのです。
●蓮如とジャンヌ・ダルク
さて、北陸進出後17年目に歴史に残る大規模な一向一揆が勃発しました。蓮如を事実上の最高責任者とする農民部隊の一向一揆は、小領主や土豪僧と連合しながら、加賀守護家の富樫正親と決戦し、完全な勝利をおさめたのです。まさに真宗王国成立の瞬間でした。
以後、織田信長によって滅ぼされるまで加賀は「百姓の持ちたる国」として1世紀にわたり門徒農民中心の自治国となります。100年間にもわたって農民だけのコミューンが繁栄したなど古今東西に例がなく、加賀は世界史上の奇跡であったと言えるでしょう。
蓮如の真面目(しんめんもく)は、まさにここにありました。混沌たる戦乱の世にあって、搾取の対象としか見られることのなかった貧しい農民ら一般民衆の土壌に、本願寺教団という浄土往生の絶対保証機関、精神的支柱を骨肉化させ、彼らに生きる意味と力を与えたのです。蓮如と同時代の人物にかの聖処女ジャンヌ・ダルクがいますが、フランスの民衆を導いた彼女と同様に蓮如も大いなる宗教的解放者であったと言えるでしょう。
その秘訣は、蓮如のはかり知れない人間的魅力にありました。法主でありながら、決して気取らず、豪快そのもの。親鸞の難解な思想を大衆向けにわかりやすく説き直し、それを熱っぽく何時間でも語り、相手を「知」と「情」の両面から念仏信仰でからみとってしまう強力な浸透力をもっていました。
「救われようもない凡夫」としてうっちゃっておかれている者こそ、わが同朋であるとして、蓮如は心血を注いで働きかけました。その蓮如であればこそ、彼らもその教えを全面的に信じきったのです。
晩年の事業として、蓮如は文明10年(1478年)、京都山科に本願寺を再建しました。その見事な荘厳(しょうごん)は「仏国の如し」と称されたほどでした。その後、明応6年(1497年)には、戦力的にも重要地点である大阪のほぼ中央に石山御坊を建立します。石山本願寺の前身です。
その翌年、布教宣伝、教化拡大、権力維持に粉骨砕身し、空前の大教団をつくりあげた蓮如は病に倒れます。薬の服用を拒み、念仏を称えつつ、85歳で大往生。まさに完全燃焼の生涯でした。
●蓮如の「講」は互助会のルーツ
私たちは互助会という組織を運営し、また会員の拡大を考えていくうえで、蓮如から教えられるものがあまりにも多いという他はありません。蓮如がプロデュースした「講」とはもともと互助会の先祖とされていますし、組織の拡大における「御文」の活用。そして、さまざまな娯楽による「遊び」を提供して、民衆に真宗の教えを広めたところは、私が常にいう「宗遊」そのものです。
何よりも、源信、法然、親鸞といった「浄土」の実在を説く者の流れを受け、蓮如は吉崎や本願寺という幻想空間を創造して、人々に極楽の夢を見せたのです。これらすべてが、サンレーのさらなる躍進のヒントとなります。今年の北陸の社員旅行は本当に有意義な旅でした。
百姓の持ちたる国の跡に立ち
浄土の夢を人に伝えん 庸軒