青い鳥
『青い鳥』のモデルとなった作品
「青い鳥」という言葉を聞けば、だれでもそれが「幸福」の代名詞であることを知っているでしょう。それほど有名なメーテルリンクの『青い鳥』には、モデルとなる作品があったことをご存じですか。ドイツ・ロマン派の作家であるノヴァーリスの『青い花』という小説がそれです。
ある夜、青年ハインリヒの夢に青い花があらわれますが、その花弁の中に愛らしい少女が見えます。そのときから、やみがたいあこがれにとらわれたハインリヒは旅に出ます。その旅は、自分の正体が詩人であることに目覚めていく彼の内面の旅にほかなりませんでした。
青い花とは、彼にとっての「理想」であり、「黄金時代」であり、なによりも「あこがれ」そのものでした。この『青い花』に影響を受けて書かれたファンタジーこそ、『青い鳥』でした。花にしろ鳥にしろ、青いものを探す旅とは、「あこがれ」を求める内面への旅なのです。ルドルフ・シュタイナーは、青は人間の心の色であると述べています。
『青い花』へのオマージュともいえる『青い鳥』を書いたモーリス・メーテルリンクは、「20世紀の小ノヴァーリス」などと呼ばれました。生涯にわたってノヴァーリスを敬愛していた彼にとっては名誉なニックネームであったことでしょう。
メーテルリンクは、1862年にベルギー北部のフランダースで、もっとも古い貴族の家の子として生まれました。その血筋を誇りとし、フランス語と並んでベルギーの公用語であったフランダース語とその文化の普及に尽力しました。
フランダースといえば、童話の名作『フランダースの犬』が有名です。この作品が書かれたのは1872年、メーテルリンクが10歳のときでしたが、作者はイギリスの女流作家のウィーダでした。薄幸の少年ネロが大聖堂の中に飾られたルーベンスの絵の前で愛犬パトラッシュと凍死するという悲劇的な物語には、あきらかにアンデルセンの『マッチ売りの少女』の影響が見られます。実際、『マッチ売りの少女』と『フランダースの犬』の両作品は、そのラストシーンにおいて、キリスト教的な「死」のイメージを決定づけたといえるでしょう。しかし、それは、あくまでも日本においてです。
『マッチ売りの少女』の国際的な知名度に比べて、『フランダースの犬』はベルギーをはじめとしたヨーロッパ諸国でほとんど評価されませんでした。ただ日本においては、1975年にフジテレビ系列の「世界名作劇場」でテレビアニメ化され、絶大な人気を誇りました。とくに、最終回で天使が舞い降りてきて、凍死したネロとパトラッシュを天国に連れていくシーンが強烈な印象を残しました。当時は小学生だったわたしも含め、日本中の少年少女がこのシーンに涙し、キリスト教の「帰天」のイメージが焼きつけられたといえます。
クリスマスイヴ、貧しい木こりの家では…
メーテルリンクの話に戻しましょう。彼は人文主義の名門であるガン大学に入学し、詩作の才能を発揮するとともに、哲学や文学への関心を示しました。ところが、彼の両親は法律の世界に進むことを要求します。
大学卒業後に法曹界に入ったメーテルリンクでしたが、パリで数カ月を過ごすうちに、ヴィリエ・ド・リラダンをはじめとしたフランス象徴主義の詩人たちと知り合い、彼らと親交を深めます。その経験は、その後のメーテルリンクの作品に大きな影響を与えました。
1889年に最初の戯曲である『マレーヌ姫』を書き、有名になります。その後も『ペレアスとメリザント』などの神秘的で瞑想的な象徴主義的作品を書きつづけますが、最大の成功作は1908年に書いた『青い鳥』でした。この作品によって、1911年にはノーベル文学賞を受賞します。
クリスマスイヴ、貧しい木こりの家では二人の子どもが寝ていました。兄のチルチルと妹のミチルです。二人の部屋には醜い妖女が現れ、「これからわたしの欲しい青い鳥を、探しに行ってもらわなけりゃいけないよ」といいます。
妖女から、ダイヤモンドのついた魔法の帽子を貰ったチルチルとミチルは、光やイヌやネコやパンや牛乳や砂糖や火や水たちと一緒に不思議な冒険の旅に出かけます。「思い出の国」で青い鳥を見つけますが、これは籠に入れると黒い鳥に変わってしまいました。子どもたちは、その後も「夜の御殿」「森」「墓地」を訪れ、こわい思いをしながら青い鳥を探しつづけます。
「森」の中で青い鳥を見つけますが、捕まえられませんでした。「夜の御殿」では捕まえることに成功しますが、死んでしまいました。「幸福の花園」を経て、最後に訪れた「未来の王国」でも青い鳥を捕まえますが、赤くなってしまいます。
こうして、子どもたちは妖女との約束を果たすことができず、失意のうちに家に帰ってきます。そこへ隣に住んでいるおばあさんがやって来て、病気の娘がチルチルの飼っている鳥を欲しがっていると告げます。
そういえば、鳥を飼っていたことを思い出し見てみると、おどろいたことに青い色に変わっています。さんざん探し回った青い鳥は自分たちの家にいたのでした。二人がこの青い鳥を病気の娘にあげると、娘の病気がよくなってお礼にやって来ます。ところが二人で餌をやろうとしたときに、青い鳥は逃げて飛んでいってしまいます。
『青い鳥』と仏教思想
この童話は戯曲ですが、声をあげて泣く娘に向かって、チルチルは「いいよ。泣くんじゃないよ。ぼくまたつかまえてあげるからね」と、やさしく語りかけます。そして、舞台の前面に進み出て、見物人に向かって大きな声で次のように呼びかけるのです。
「どなたかあの鳥を見つけた方は、どうぞぼくたちに返してください。ぼくたち、幸福に暮すために、いつかきっとあの鳥がいりようになるでしょうから」(堀口大學訳)
『青い鳥』には、さまざまな興味深いテーマを見ることができます。たとえば、動物でも植物でも、みんな人間のように話すことができるということ。すべての存在には生命があり、人間以外のモノにも感情があるというのです。これは万物の中に生命を認める「アニミズム」の世界そのものです。キリスト教文明の社会には、なじまない考え方です。キリスト教文明は近代科学を生み、さまざまな文明の利器を発明してきた一方で、森をはじめとした自然環境を破壊してきました。
仏教に造詣の深いことで知られる作家の五木寛之氏は、『青い鳥』の中に「山川草木悉有仏性(ルビ・さんせんそうもくしつうぶっしょう)」とか「草木国土悉皆成仏(ルビ・そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」といった仏教の思想を読み取っています。つまり、山にも川にも、草や木にも、魚や獣にも、この世界に存在するものすべてに命があり、意味があるという考え方です。そして、仏の前には万物は平等であるというのです。
キリスト教の世界観では、人間は自然を支配します。ところが仏教の世界観では、人間は自然と共生します。五木氏は、著書『青い鳥のゆくえ』(角川書店)で次のように述べています。
「〈自然を支配せよ〉ではなく、〈自然と共生せよ〉という言葉こそじつは人間にあたえられるべき思想なのです。メーテルリンクは、そのことを心の深いところでつよく感じていたのではないでしょうか。近代は目に見える世界、実証される世界だけを認めようとしますが、目に見えない世界の豊かさ、大きさを忘れ去ってはいけない、と『青い鳥』は語っているのではないか」
まるで「本当に大切なものは目には見えない」というメッセージで知られるサン=テグジュペリの『星の王子さま』を連想させますが、実際、サン=テグジュペリは自分がメーテルリンクの後継者であることを意識していました。そのことは、のちの第四講で述べます。
赤ちゃんが生まれる前にする約束
また、興味深いといえば、チルチルとミチルが最後に訪れる「未来の王国」です。ここでは、これから将来生まれてくる子どもたちが出番を待っています。彼らは、人間が長生きするための妙薬を33種類も発明するとか、だれも知らない光を発見するとか、羽がなくても鳥のように飛べる機械を発見するとか、とにかく人類のために何か役立ちたいという大きな志を抱いています。
運命の支配者である「時」のおじいさんの言葉にも興味がつきません。彼は、子どもたちの生まれるときは運命によって決まっており、それを変えることはできないといいます。また、人間は地上に生まれるとき、たとえ発明などではなく、罪でも病気でもよいから何か一つは土産(ルビ・みやげ)を持っていかなければならないというのです。これは人間の使命というものについて考えさせてくれます。
そして、子どもたちが将来の自分たちの両親についてよく知っているというのも非常に興味深いといえます。最近は「スピリチュアル」な世界が流行していますが、赤ちゃんや幼い子どもたちは生まれる前のことを覚えているばかりか、自分たちが親を選んで生まれてくるという考え方が世界中で広まっていることをご存じですか。
赤ちゃんは生まれる前に、お母さんと約束して、今度の人生ではどういった使命を果たすのかを心に決めているというのです。でも、彼らが地球に到着した時点で、宇宙はその記憶を消してしまいます。ごくたまに、記憶が残っている子どもが存在する。そのような考えを信じている人々がたくさんいます。
神秘学や心霊主義にも詳しかったメーテルリンクは、そのような思想をどこかで学んだのかもしれません。
さらには、「幸福」のシンボルである青い鳥とは、ずばり結婚相手のことを暗示しているという見方もできます。じつは有名な『青い鳥』には後日談ともいうべき続編が存在します。一九一八年に発表された『いいなずけ』という作品で、日本では『チルチルの青春』(あすなろ書房)というタイトルで中村麻美氏による翻案が出ています。
青い鳥を探す旅に出てから7年後、チルチルは16歳になりました。ある晩のこと、なつかしい妖婆があらわれ、チルチルが幸福な結婚をするために、その相手を見つけてあげようといいます。候補者は、チルチルの六人のガールフレンドです。「森」をはじめ、「先祖の国」とか「子孫の国」とか、さまざまな場所を訪れた末に、チルチルが見つけた結婚相手は意外な人物でした。
その相手は6人のガールフレンドではなく、なんと7年前にチルチルが青い鳥をあげた病気の女の子だったのです。美しい娘に成長した彼女は、あれ以来、ずっとチルチルのことを想いつづけていたのです。
おもしろいのは、彼女を選んだのが「子孫の国」にいたチルチルの未来の子どもたちだったことです。彼らは、未来の自分たちの母親に抱きついたのでした。ここにも、子どもは親を選んで生まれてくるという思想が見られます。
いずれにしても、幸せの青い鳥と同じく、理想の結婚相手は遠くではなく近くにいるのだというメッセージは、とてもわかりやすいといえます。あまり高望みをしていてはダメだということですね。
なお、今の自分は本当の自分ではないと信じて、いつまでも定職につかずに夢を追いつづけて転職を繰り返す人のことを「青い鳥症候群」というそうです。
メーテルリンクと神秘思想
さて、『青い鳥』は神秘学でいう「聖杯探求」のモチーフを戯曲化することに成功した作品とされています。しかし、そのメインテーマは「死」と「生命」でした。
メーテルリンクは、機械文明下における不可知なものへの新しいアプローチをめざし、神秘思想に重大な関心を示していました。そして、世界のどこかには最高の叡智の秘密が隠されているにちがいないと信じていたそうです。彼自身には秘密が伝授されていないけれども、古代インド、エジプト、ペルシャ、カルデア、ヘブライ、ギリシャ、さらには北欧から中国、アメリカまでにもそういう秘密が伝わったはずだと断言しています。メーテルリンクによれば、そのような秘密の教えの一部分がバラバラになって不完全に知られているが、その完全な形はちゃんと存在し、特別な資格のある者だけにひそかに伝えられて今日に及んでいるというのです。
メーテルリンクは、その完全な秘密について知るべく、プラトン、プロティノス、ヤーコブ・ベーメ、コールリッジ、そしてとりわけノヴァーリスの思想を深く研究し、それに傾倒していきました。
『青い花』と並んで、ノヴァーリスの代表作として知られる『ザイスの学徒』は、メーテルリンクの最大の愛読書となりました。1895年に『ザイスの学徒』をフランス語訳で出版したことは、彼の長年にわたる神秘主義研究の輝かしい記念碑であるとされています。では、それほどメーテルリンクに影響を与えた『ザイスの学徒』とはいかなる作品なのでしょうか。
それは、自然の神秘を解き明かす道の探求物語です。人間は自然の至るところに不思議なしるしを見て、その意味を予感します。しかし、意味を知るための鍵は失われてしまいました。ザイスの学徒である「私」は、「真の言葉は語ることが喜びだから語るのであり、それを理解できないのは理解しようとしないからだ」という声を聞きます。また、「真に語る人は生命に満ち、この人の書物は秘密を明かす」との言葉を聞くのです。
人間は、長い時間をかけて経験や事物を区別して名づけることを学びました。しかし、かつての人間は、いったん区別したものをふたたび結びつける方法を心得ていました。そして彼らは、秘密の鍵を探求し、宇宙の起源を詩やメルヘンに記したのです。
いろいろと考えこんでいたザイスの学徒のところに、遊び友だちが元気よくやって来ます。彼は、「愛が新しいことを教えてくれるのだ」といい、「ヒヤシンスと薔薇」のメルヘンを物語ります。愛によって自然の神秘が解かれることを示した美しいメルヘンです。
メルヘンを語ったあと、学徒と友人は抱き合い、立ち去ります。人がいなくなると、自然たちがみずから語りだします。彼らは、人間と自然とが理解し合っていたかつての黄金時代を思い出して、その絆がなくなってしまった現状を嘆きます。そして、人間がふたたび自然を感じる心を取り戻してくれるように、自然は願うのです。
以上が未完の神秘小説「ザイスの学徒」のあらすじです。作中に含まれたメルヘン「ヒヤシンスと薔薇」は花の寓話であり、『青い花』をも連想させます。このようにノヴァーリスは「花」のシンボリズムを好んだわけですが、作家の荒俣宏氏は『世界幻想作家事典』(国書刊行会)の「ノヴァーリス」の項に次のように書いています。
「ノヴァーリスの考え方は、ちょうど花びらや双葉が同時期に同じ行動をとることによって『開花』あるいは『萌芽』を達成するように、あらゆる物質とあらゆる精神がおのおのの関わりを同時期に果たすことにより『宇宙』が成立するという視点から出発している。したがって、死は『宇宙』を成立させる重要な営みであり、鉱物はまた『宇宙』全体のより『死』に近い物質的な器官のひとつとなる。ノヴァーリスは自らの思想を『魔術的観念論』と呼んで、鉱物と植物の感性を、擬人化などという浅薄な方法とは無縁なかたちで文学に導きいれることに、成功した」
生者と死者の関係性
ノヴァーリスは「メルヘン」を至上の文学形式と断言しました。同様にメルヘンに大きな価値を置いていたのが、第一章でも紹介したルドルフ・シュタイナーです。彼はメーテルリンクの一歳年上で、1861年に現在のユーゴスラヴィアで生まれています。亡くなったのはシュタイナーのほうが24年早かったのですが、メーテルリンクと完全に同時代人といってよいでしょう。二人とも、当時の世界の神秘思想研究に大きな足跡を残したことでも共通しています。
そのシュタイナーは、一貫して死者と生者との結びつきについて考えた人でした。彼は人智学という学問の創始者として知られていますが、よく「人智学を学ぶ意味は、死者との結びつきをもつためだ」と語ったそうです。
死者と生者との関係は密接であり、それをいいかげんにするということは、わたしたちがこの世に生きることの意味をも否定することになりかねないというのです。
わたしたちは、あまりにもこの世の現実にかかわりすぎているので、死者に意識を向ける余裕がほとんどありません。それどころか、この世に生きている者同士のあいだでも、他人のことを考える余裕がないくらいの生活をしています。けれども、そうかといって、それでは自分自身とならしっかり向き合えているかというと、そうでもありません。
ほとんどの人は、完全に内に向いているわけでもなく、外の社会に適応しようとしているにもかかわらず、他者に対する関係も中途半端なままに生活している状態でしょう。死者と自分との関係がほとんど意識できなくなってしまった時代状況の中で、シュタイナーは、人智学を発表しなければならないと感じました。それによって、この世の人間があの世の人間とふたたび結びつきをもてるようになれば、そのとき初めて、現代文化の改革さえ可能になると考えたようです。
死者と結びつくための方法
それでは、どうしたら、この世の人間は死者との結びつきをもてるのでしょうか。そういうことを考える前に、まずいえるのは、死者が現実に存在していると考えないかぎり、その問題は解決しないということです。
つまり、死者など存在しないということになってしまえば、いまいったことはすべて意味がなくなってしまいます。ところが、仏教の僧侶でさえ、死者というのは、わたしたちの心の中にしか存在していないという人が多いのです。そういう僧侶は、人が亡くなって仏壇の前でお経をあげるのは、この世に残された人間の心のために供養しているのだというのです。もし、そういう意味でお経をあげているのなら、死者と結びつきをもとうと思っても、当人が死者などいないと思っているわけですから、結びつきのもちようがありません。死んでも、人間は死者として生きています。しかし、その死者と自分とのあいだには、まだはっきりした関係ができていないと考えることがまず前提にならなければならないのです。
シュタイナーは多くの著書や講演で、「あの世で死者は生きている」ことを繰り返し主張しました。彼は、こう言いました。「今のわたしたちの人生の中で、死者たちからの霊的な恩恵を受けないで生活している場合はむしろ少ないくらいです。ただそのことを、この世に生きている人間の多くは知りません。そして、自分だけの力でこの人生を送っているように思っています」シュタイナーによれば、わたしたちが死者からの霊的恩恵を受けて、あの世で生きている死者たちに自分のほうから何ができるのかを考えることが、人生の大事な務めになるのです。
その場合、二つのことが問題になります。第一の問題は、たとえば7、8歳で亡くなった子どもも、人生経験を十分に経て亡くなった人も、死者たちは同じようにあの世にいて、この世に非常に大きな関心をもっているということです。しかし、死者たちは、この世に残してきた家族とか友人とか、そういう身近な人々のことをどんなに深く思いを寄せているとしても、この世にいる生者がその死者たちに向かって語りかけをしないかぎり、この世の生活を体験することはできないのです。
その理由は、まず死者は物質的な世界の情報は一切受け取れないからです。それから死んだ直後は別ですが、この世の言葉も、イメージや感情がそれにともなわなければ、死者には通じないからです。すなわち、この世の言葉は物質空間の中でのみ響いているのです。
それでは、この世からあの世の人々に何を送ることができるのかというと、それはイメージだけなのです。だから、もし生者が死者たちのことを具体的にイメージすることができれば、死者はそのイメージを通して、この世の人間がどこにいるかを感じることができます。そうでない場合には、さまざまなイメージが自分の周囲に現われたり消えたりはしていても、そのイメージが自分の親しいこの世の人々が来たものかどうかは、区別がつかないのです。
わたしたちが、霊的な内容について考えたり、感じたり、読んだり、語ったり、聞いたりするとします。そのとき、自分のかたわらに死者をイメージして、その死者がともにそれを体験しているように感じることができれば、死者はその場所で、その体験を生者とともにすることができるといいます。
死者からのメッセージ
シュタイナーは、イメージすることを、とくに死者をイメージすることを非常に大切にしていました。そのような場合、たとえば後ろ姿をイメージすることが大事なのだそうです。親が道を歩いているときに見たその後ろ姿の肩の感じとか、少し前かがみになって歩いている姿とかが記憶に残っているとするとしますね。そういうところをできるだけ、ありありと思い浮かべると、死者は生者からの呼びかけを感じることができるのです。それから、なんでもないような、一緒に食事をしたり、話し合ったりしたときの情景、何かしてくれたときの様子などが自分の中にはっきり思い出として残っている場合、それをイメージすると、やはり死者はそれによって生者からのメッセージを受け取ることができます。
それから死者に対する生者からの働きかけは、眠っているときにも生じます。夜眠ると、生者の魂は死者と同じ世界に入ります。毎晩、眠っているときのわたしたちは、じつは死者たちと一緒に暮らしているのです。だから眠りの中に、死者に対する供養になるようなイメージを持ち込むことができるのです。
また、自分の親しかった死者に対して、何か問いかけをしながら眠るとします。亡くなった父親に向かって、自分はいま、こういう問題をどう考えてよいかわからない、どうしたらよいだろうか、こういう道とこういう道があるけれども、その中のどれを選ぶべきなのかということを問いかけながら眠ります。すると、その問いは死者に働きかけて、死者はそれによって生者にメッセージを送ることができるのです。
シュタイナーによれば、その答えは翌日、思いがけないかたちで出てくるそうです。たとえば自分の心の奥底から、まるで自分が考えたとは思えないすばらしい思いつきが生じたとすれば、それは死者からのメッセージだというのです。死者が外から声に出して語るというのではなくて、自分の存在のもっとも核心の部分から聞こえてくるものが死者の声だというのです。
さらに、眠るときに死者に対する愛情をもって眠ると、死者はそれをまるで美しい音楽のように聞き取ることができるそうです。なつかしい思い出が感謝や思いやりとともに死者に届けられるのです。そういう気分の中で眠ることができれば、死者にとっても最大の供養になり、自分にとっても大きな心の支えになるのです。そういう「あの世」と「この世」との結びつきを可能にすることが、神秘学のもっとも大きな意味であるとシュタイナーは強調しました。
チルチルとミチルが訪れた「思い出の国」
死者のことを思うことが、死者との結びつきを強める。これは、『青い鳥』の「思い出の国」のくだりと完全に重なります。幸せの青い鳥を求めて、チルチルとミチルが訪れた「思い出の国」は、濃い霧の向こう側にありました。そこは、乳色の鈍い光が一面にただよう死者の国です。この「思い出の国」で、チルチルとミチルの二人は亡くなった祖父と祖母に再会します。
【おばあさん】
わたしたちはいつでもここにいて、生きてる人たちがちょっとでも会いにきてくれるのを待ってるんだよ。でも、みんなほんのたまにしかきてくれないからね。お前たちが最後にきたのは、あれはいつだったかね? ああ、あれは万聖節(ルビ・ばんせいせつ)のときだったね。あのときはお寺の鐘がなって……。
【チルチル】
万聖節のとき? ぼくたちあの日は出かけなかったよ。だって、ひどい風邪で寝てたんだもの。
【おばあさん】
でも、お前たちあの日わたしたちのこと思い出したろう?
【チルチル】
ええ。
【おばあさん】
それごらん。わたしたちのことを思い出してくれるだけでいいのだよ。そうすれば、いつでもわたしたちは目がさめて、お前たちに会うことができるのだよ。
【チルチル】
なあんだ。それだけでいいのか。
【おばあさん】
でも、お前、それぐらいのこと知っておいでだろう?
【チルチル】
ううん、ぼく知らなかったよ。
【おばあさん】
(おじいさんに)まあ、驚きましたね。あちらではまだ知らないなんて。きっと、みんななにも知らないんですねえ。
【おじいさん】
わしたちのころと変りはないのさ。生きてる人たちというものはほかの世界のこととなると、全くばかげたことをいうからなあ。
【チルチル】
おじいさんたちいつでも眠ってるの?
【おじいさん】
そうだよ。随分よく眠るよ。そして生きてる人たちが思い出してくれて、目がさめるのを待ってるんだよ。生涯をおえて眠るということはよいことだよ。だが、ときどき目がさめるのもなかなか楽しみなものだがね。
【チルチル】
じゃ、おじいさんたち本当に死んでるんじゃないんだね?
【おじいさん】
(びっくりして)なんだって? 今なんていったね? どうもお前たちは、わしたちの知らない言葉を使うねえ。それは新しい言葉かね? 新しく発明されたのかね?
【ミチル」
「死ぬ」っていうこと?
【おじいさん】
それそれ、その言葉だよ。どういう意味なんだね?
【チルチル】
ねえ、人がもう生きてないということなんだよ。
【おじいさん】
あちらの人たちはばかだねえ。
【チルチル】
ここはいいところなの?
【おじいさん】
ああ、悪くないよ。そしてみんながお祈りしてくれるとなおいいのだがね。
【チルチル】
でも、とうさんがもうお祈りするなといったよ。
【おじいさん】
それはちがう。それはちがう。お祈りすることは思い出すことだがねえ。
(堀口大學訳)
自身が偉大な神秘主義者であったメーテルリンクも、死者を思い出すことによって、生者は死者と会えると主張しているのです。
「死」という問題にとりつかれたメーテルリンク
メーテルリンクの時代は、世界的に「スピリチュアリズム」と呼ばれる心霊主義が流行していた時期でした。あちらこちらで死者の霊と会話をするという交霊会が開催されましたが、彼は霊媒や催眠術まで詳しく検証しています。さらには、現代のホスピスにおけるターミナルケアまで予見していました。
「死」に強い関心を抱きつづけたメーテルリンクは、ノーベル文学賞を受賞した2年後の1913年に『死後の存続』を刊行しました。これは死後の意識について論じた本であり、カトリックの禁書目録に入れられたいわくつきの問題作です。この本で、メーテルリンクは次のように書いています。
「この生と世界において、重要な出来事はただ一つ、死しかないのである。どれほど警戒しようと、その隙をかいくぐって死は力を結集し、一挙に幸福に襲いかかってくる。逃れようとあがけばあがくほど、その虜(ルビ・とりこ)になる。脅えれば脅えるほど、恐怖は増す。死は人間の恐怖を糧とするからだ。死を忘れようとする者は、死の思いに捕われ、死から逃れようとする者も、逃れる先には常に死が待ち構えている。死は一切をその暗い影で覆う。人はたえず死のことを考えていても、それは無意識に、さもなければ明確な認識ができずに、そうしているにすぎない。正面から見据えず、背を向けるものに、いやでも人は捕われる。また探求する意欲を他に逸らし、死に立ち向かう力をことごとく使い果してしまう。同時に、死を暗い本能の手にゆだね、明晰に考えることもない」(山崎剛訳)
これほど「死」について正面から真剣に論じた文章を、わたしはほかに知りません。まさに、メーテルリンクは「死」の問題にとりつかれた人物といってもよいでしょう。
『死後の存続』が刊行された1913年という年にも意味があったと思います。その前年である1912年には、かのタイタニック号が沈没して1500人以上の犠牲者を出しました。当時、「史上最悪の海運事故」と騒がれ、世界中に「死」のイメージを撒き散らした出来事として知られています。日本の宮沢賢治にも強い影響を与え、『銀河鉄道の夜』にはタイタニック号の犠牲者とおぼしき乗客が登場します。
それから『死後の存続』が刊行された翌年である1914年には、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が銃撃されるサラエヴォ事件により、第一次世界大戦が勃発しました。世界中が戦争に巻き込まれ、大量の人々が死亡するという「死の時代」が本格的に幕を開けたのです。そんな時代背景をメーテルリンクは敏感に察知していたように思います。
メーテルリンクの臨死体験
さらに、彼がここまで「死」に深い関心を抱いたのには理由がありました。じつは、彼は少年時代に臨死体験をしていたのです。彼の最晩年の回想記である『青い泡沫』には「水死」という断章があります。それによれば、メーテルリンクが子ども時代を過ごした家の庭は家屋と海岸の運河のあいだに細長く伸びていました。この運河で彼は溺れかけたことがあるのです。幸い、建築中だった塔の上から父親に発見され、彼は一命をとりとめました。気がつくと自分のベッドに横になっていましたが、水をしこたま飲んでそれを吐き出したために少し気分が悪かったそうです。このときの経験を彼は次のように書いています。
「この意識のない間、私は死のごく近くまで行った。もし実際に死の世界に到達していたら、ほかのことは覚えていなかっただろう。私は気づかずに大いなる扉を越えるには越えた。一瞬だが、ある種の驚くべき光を体験したからである。そこには苦しみ一つ、不安一つなかった。目が閉じ、腕がしきりに動き、そしてもう私はいなかった」(山崎剛訳)
これはあきらかに臨死体験の報告にほかなりません。メーテルリンクはまた、こうも述べています。
「死にかけたことのない人はいないだろう。私に関して言えば、死の間近までいき、それを垣間見てきたのだと思う。そしてあの時と同じように、穏やかで、すばやく、甘美な死を再び体験できることを今は心待ちにしている」(山崎剛訳)
このような少年の日の臨死体験こそが、メーテルリンクに「死」の問題を考えさせ、ファンタジーの名作『青い鳥』を書かせたのではないかと、わたしは思います。「思い出の国」の描写にあきらかなように、『青い鳥』はあきらかに死者の世界を描いています。しかし、完全な霊界の物語ではなく、それはあくまで臨死体験の物語です。なぜなら、チルチルとミチルは完全に「あの世」に行ってしまったわけではなく、最後には「この世」に戻ってくるからです。
童話の世界に「死」というテーマを持ち込んだのは、アンデルセンでした。でも、「死後」というテーマを持ち込んだのはメーテルリンクです。
先にメーテルリンクは最高の叡智が世界のどこかに隠されていると述べました。その最大の候補地として、ギリシャのアテネ郊外にある古代のエレウシス神殿が挙げられます。今ではひっそりとした遺跡にすぎませんが、かつてはデメテルとペルセポネの神話を崇拝する聖地であり、古代における神秘主義の中心地でした。
そこには、プラトン、アリストテレス、ソフォクレスなどの有名人をはじめ、おびただしい数の巡礼者が訪れて、叡智を得るために、神殿の奥の院で秘儀を経験したといいます。
しかし、厳しい守秘義務が課せられており、それを破った者には死、あるいは流刑が待っていたために、だれも多くを語りませんでした。
それでも、おおまかな話だけは伝わってきています。それによれば、エレウシスでの秘儀に参加した人々は、死の恐怖がまったくなくなり、死後の世界に対する心の準備ができるようになったとか。
すなわち、最高の叡智とは「死」と「死後」の秘密であったわけです。おそらくは、エレウシス以外の世界の古代神殿における秘儀も同じ役割を果たすものだったのでしょう。
まさに古代の叡智を求めつづけたメーテルリンクが書いた『青い鳥』とは、秘儀を経験しなくとも、自然に「死」と「死後」の秘密を悟ることができる物語としてのハートフル・ファンタジーだった。わたしは、そのように確信しています。
『青い鳥』は、世界ではじめて臨死体験を描いた童話でした。その『青い鳥』および『死後の存続』を愛読した日本人の兄妹がいました。もともとは妹がメーテルリンクを愛読し、兄にも勧めたようですが、彼女は若くして亡くなります。その死を心から悲しんだ兄は『青い鳥』のような臨死体験の物語を書き上げます。彼の名は宮沢賢治といい、彼が書いた物語は『銀河鉄道の夜』といいます。