平成心学塾 童話篇 涙は世界で一番小さな海 #001

開講にあたって

わたしがファンタジーを愛読する理由

わたしは、ファンタジー作品を愛読しています。中でも、アンデルセン、メーテルリンク、宮沢賢治、サン=テグジュペリの4人の作品には、非常に普遍性の高いメッセージがあふれていると考えています。いわば、「人類の普遍思想」のようなものが彼らのファンタジー作品には流れているように思うのです。

戦争や環境破壊といった難問を解決するヒントさえ、彼らの作品には隠されています。とくに、アンデルセンの『人魚姫』『マッチ売りの少女』、メーテルリンクの『青い鳥』、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』、サン=テグジュペリの『星の王子さま』の4作品は、そのヒントをふんだんにもっており、さらには深い人生の真理さえ秘めています。

明治時代から日本では、「四大聖人」という言葉が使われました。ブッダ、孔子、イエス、ソクラテスの4人の偉大な人類の教師たちのことです。彼らはいずれもみずから本を書き残してはいませんが、その弟子たちが人類全体に大きな影響を与えた本を生み出しました。

つまり、仏典であり、『論語』であり、『新約聖書』であり、『ソクラテスの弁明』をはじめとする一連のプラトンの哲学書ですね。

それらの書物を読んでみると、ブッダも孔子もイエスもソクラテスも、いずれもが「たとえ話」の天才であったことがよくわかります。むずかしいテーマをそのまま語らず、一般の人々にもわかりやすく説く技術に長けていたのです。中でも、ブッダとイエスの2人にその才能を強く感じます。だからこそ、仏教もキリスト教も多くの人々の心をとらえ、世界宗教となることができたのでしょう。

そして、さらにその「わかりやすく説く」という才能は後の世で宗教説話というかたちでとぎすまされていき、最終的には童話というスタイルで完成したように思います。

なにしろ、童話ほどわかりやすいものはありません。『聖書』も『論語』も読んだことのない人々など世界には無数にいるでしょうが、アンデルセン童話をまったく読んだことがない人というのは、ちょっと想像がつきません。これは、かなりすごいことではないでしょうか。童話作家とは、表現力のチャンピオンであり、人の心の奥底にメッセージを届かせ、その人生に影響を与えることにおいて無敵なのです。

メルヘンとファンタジーのちがい
かつて、グリム童話などを中心として、童話のもつ残酷性を取り上げ、それを強調するような本がブームになったことがありました。

たしかに、各民族が長年受け継いできた民話や伝説にもとづく「メルヘン」にはそのような側面があることは事実です。しかし、童話作家たちが心あるメッセージを込めようとして創作した「ハートフル・ファンタジー」はちがいます。ここでは、むしろ倫理的な意味が読み取れることが多いといえます。

メルヘンというものが人々の心に与える影響に注目し、その真の意味を求めたのは、グリム兄弟と同じドイツの神秘哲学者であるルドルフ・シュタイナーでした。

シュタイナーは、著書『メルヘン論』(書肆風の薔薇)で次のように述べています。

「私たちの一生を通じて魂が体験する最奥の深みが、メルヘンの中に現れています。そのような体験とその体験の基礎をなすものを、自由に、往々にして軽やかに、イメージ豊かに表現しているのがメルヘンなのです」(高橋弘子訳)

シュタイナーによれば、真のメルヘンとはファンタジーとはちがうそうです。メルヘンを民族のファンタジーが生み出した創作と見てはならないといいます。メルヘンはけっして創作ではなく、その発生の源を太古の時代にもっているというのです。

では、太古の時代とはどういう時代か。それは人間たちに高度の霊視ができた時代です。

古くから霊視能力があった人々には、眠りと目覚めのあいだの中間状態があったといいます。そのような中間状態の中で、実際に霊界を体験した人々がいるというのです。しかも、その霊界はきわめてさまざまな様相をした世界でした。シュタイナーは、いいます。

「今日の人々が自分のファンタジーから童話(ルビ・メルヘン)を作り出せると信じているとすれば、それは通俗的なものの見方です。宇宙の古い霊的な神秘の表現である昔のメルヘンは、そのメルヘンをつくった人々が、霊的神秘を物語ることのできる人たちのもとで耳を澄まし、傾聴することによって生じました。ですから、その組み合わせや構成は、霊的神秘に即したものです。私たちは次のように言うことができます。メルヘンの中には、全人類の、小宇宙そして大宇宙の霊が生きていると」

なんと、メルヘンを読めば、大宇宙の霊からのメッセージが受け取れるというのです。子どもの読み物と思われていたメルヘンに、ここまで深い意味があったとは! おどろかれた方も多いと思います。

心を理解する重要な資料

メルヘンに先立つ物語のスタイルとして、人類は神話や伝説をもちました。神話、伝説、メルヘンは、古代の人々や、ネイティブ・アメリカン、ニュージーランドのマオリ、オーストラリアのアボリジニなど、現代においても古代人のように生きている人々の心を理解するための重要な資料となっています。

わたしたちが今日身のまわりの出来事において科学的説明を求めるように、古代人や古代人のような現代人たちは具体的で感覚的な説明を必要としました。それは現在のわたしたちからすれば象徴的に見えますが、彼らにとってはもっと現実的だったのです。

彼らは、世界や人間について独自の解釈をもっており、その解釈では人間と同じ生活や感情をもつ神々や諸霊の行為が重要な働きをしていました。それが神話です。

神話は人間生活のあらゆる面に行きわたっていますから、死や死後の世界にも当然ふれています。それどころか、死や死後の世界というのは世界中の神話におけるメイン・テーマの一つだといえるでしょう。

神話のほかに伝説もあります。これは特定の種族なり、英雄なり、または町、河、山などにちなむ昔話であり、死についての理解に役立ちます。伝説は日本語でいう「昔話」や「おとぎ話」に通じるものです。日本人なら、「桃太郎」とか「金太郎」「浦島太郎」などが思い浮かびますね。これらは、いずれも伝説にもとづいています。

さて、神話、伝説につづく物語のスタイルとしてのメルヘンは、一般に「童話」と訳されます。大正時代に日本に入ってきた「メルヘン」というドイツ語が「童話、またはおとぎ話」と訳されたためです。

しかし、いくら童話と訳されても、本来のメルヘンはけっして子どものための物語ではありませんでした。太古の時代にまでさかのぼる超感覚的なことがらを具体的に表現したものがメルヘンの奥底には潜んでいます。そこでは、象徴と現実、この世とあの世とが混ざり合っていて、不可能なことが可能になります。まさに、メルヘンとは死のイメージの宝庫なのです。

ただし、死のイメージの宝庫であるだけではありません。そこには霊的真実がたくさん隠されているのです。シュタイナーは、メルヘンを人間の魂の根源から湧き出てくるものとして非常に重要視しました。彼は教育思想家としても大きな足跡を残しましたが、子どもの心を荒廃させないためにはメルヘンを毎日読んで聞かせてあげることが大切だと考えていました。今でも、シュタイナー思想にもとづいた教育を行なう幼稚園では、メルヘンをお話しする時間が必ずあります。

メルヘンはいつも、「昔々あるところに……」という言葉ではじまります。シュタイナーは、それこそ「真のメルヘン」の出だしなのだといいます。一つのメルヘンの中には、土地や民族、あるいは時代を超えて存在する、ある共通の真理が含まれているからというのが、その理由です。

シュタイナーは「メルヘン」というものを、民族の想像力が生み出した「民話」や、大人が子どものために書き下ろした「ファンタジー」と厳密に区別して考えていました。メルヘンは、「人間存在そのもの」について何か根源的なものを表わしているというのです。

イソップと、グリムと、アンデルセン

ところで、「世界の三大童話」といえば、なんといってもイソップ・グリム・アンデルセンです。世界中の子どもたちが、これらの童話を両親から寝る前に読んでもらったり、また字をおぼえるやいなや自分で読んできました。日本でも、児童書といえば必ずこの3つの童話の名前があがります。

このように、童話の歴史において、イソップ、グリムの次に来る存在は、だれがなんといおうがアンデルセン童話なのです。しかし、古代ギリシャの寓話であるイソップは置いておくとして、同じ童話として扱われるグリム童話集とアンデルセン童話集は根本において性格がちがいます。

グリム童話はあくまで民族のあいだで語り継がれてきたものであり、アンデルセン童話とは一人のファンタジー作家の創作だからです。シュタイナーにいわせれば、グリムこそはメルヘンであり、アンデルセンは単なるファンタジーであるというでしょう。そして、きっとグリム童話がアンデルセン童話よりもずっと価値あるものだと決めつけるでしょう。

しかし、わたしはそうは思いません。たしかに最近の児童文学やヒロイック・ファンタジーに見られるような陳腐な作品は、メルヘンの足もとにも及びません。それはグリム童話だけでなく、わが国の昔話や柳田國男の『遠野物語』や松谷みよ子が集めた民話などにもいえることです。

しかし、アンデルセンは別です。彼の創作した童話には、シュタイナーのいうメルヘンの要素があると思います。メーテルリンク、宮沢賢治、サン=テグジュペリの作品についても同じことがいえます。すなわち、彼らのファンタジー作品には、メルヘンのように「全人類の、小宇宙そして大宇宙の霊が生きている」のです。

ユングはすべての人類の心の底には、共通の「集合的無意識」が流れていると主張しましたが、彼ら四人の魂はおそらく人類の集合的無意識とアクセスしていたのだと思います。

ドイツ語の「メルヘン」の語源には「小さな海」という意味があるそうです。大海原から取り出された一滴でありながら、それ自体が小さな海を内包しているのです。このイメージこそは、メルヘンは人類にとって普遍的であるとするシュタイナーの思想そのものです。

人類の歴史は四大文明からはじまりました。その4つの巨大文明は、いずれも大河から生まれました。そして、大事なことは河は必ず海に流れ込むということです。さらに大事なことは、地球上の海は最終的にすべてつながっているということ。

チグリス・ユーフラテス河も、ナイル河も、インダス河も、黄河も、いずれは大海に流れ出ます。人類も、宗教や民族や国家によって、その心を分断されていても、いつかは河の流れとなって大海で合流するのではないでしょうか。人類には、心の大西洋や、心の太平洋があるのではないでしょうか。

そして、その大西洋や太平洋の水も究極はつながっているように、人類の心もその奥底でつながっているのではないでしょうか。それがユングのいう「集合的無意識」の本質ではないかと、わたしは考えます。

そして、「小さな海」という言葉から、わたしはアンデルセンの有名な言葉を連想しました。それは、「涙は人間がつくるいちばん小さな海」というものです。これこそは、アンデルセンによる「メルヘンからファンタジーへ」の宣言ではないかと、わたしは思います。

というのは、メルヘンはたしかに人類にとっての普遍的なメッセージを秘めています。しかし、それはあくまで太古の神々、あるいは宇宙から与えられたものであり、人間がみずから生み出したものではありません。涙は人間が流すものです。そして、どんなときに人間は涙を流すのか。それは、悲しいとき、寂しいとき、つらいときです。それだけではありません。他人の不幸に共感して同情したとき、感動したとき、そして心の底から幸せを感じたときではないでしょうか。

つまり、人間の心はその働きによって、普遍の「小さな海」である涙を生み出すことができるのです。人間の心の力で、人類をつなぐことのできる「小さな海」をつくることができるのです。

これは、人類の歴史における大いなる「心の革命」であったと思います。ブッダ、孔子、ソクラテス、イエスといった偉大な聖人たちが誕生し、それぞれの教えを説いたときもそうでしたが、アンデルセンがみずから創作童話としてのファンタジーを書きはじめたときも、同じように人類の心は救われたような気がしてなりません。

こころの世界遺産

本書を読み終わったあなたは、アンデルセン、メーテルリンク、宮沢賢治、サン=テグジュペリの4人がもうひとつの「四大聖人」であることに気づかれることでしょう。

実際、『人魚姫』『マッチ売りの少女』『青い鳥』『銀河鉄道の夜』『星の王子さま』といった童話には、宇宙の秘密、いのちの神秘、そして人間として歩むべき道などが、やさしく語られています。これらの童話は、人類すべてにとっての大切な「こころの世界遺産」であると、わたしは確信しています。

そして、そのキーワードは2つあります。「幸福」と「死」です。「死」といえば、わたしは、若いころからずっと「死」について考えてきました。そんなことをいうと、なんだか不吉な死神のような人間だと思われるかもしれませんね。実家が冠婚葬祭業を営んでいたことも関係があったように思います。

もちろん、「死」よりももっと関心のあるテーマはありました。それは「幸福」です。

物心ついたときから、わたしは人間の「幸福」というものに強い関心がありました。学生のときには、いわゆる幸福論のたぐいを読みあさりました。それこそ、本のタイトルや内容に少しでも「幸福」の文字を見つければ、どんな本でもむさぼるように読みました。

そして、わたしは、こう考えました。政治、経済、法律、道徳、哲学、芸術、宗教、教育、医学、自然科学……人類が生み、育んできた営みはたくさんある。では、そういった偉大な営みが何のために存在するのかというと、その目的は「人間を幸福にするため」という一点に集約される。さらには、その人間の幸福について考えて、考えて、考え抜いた結果、その根底には「死」というものが厳然として在ることを思い知りました。

そこで、わたしが、どうしても気になったことがありました。それは、日本では、人が亡くなったときに「不幸があった」と人々が言うことでした。わたしたちは、みな、必ず死にます。死なない人間はいません。いわば、わたしたちは「死」を未来として生きているわけです。その未来が「不幸」であるということは、必ず敗北が待っている負け戦に出ていくようなものです。

わたしたちの人生とは、最初から負け戦なのでしょうか。どんなすばらしい生き方をしても、どんなに幸福感を感じながら生きても、最後には不幸になるのでしょうか。亡くなった人はすべて「負け組」で、生き残った人たちは「勝ち組」なのでしょうか。

そんな馬鹿な話はないと思いませんか!

わたしは、「死」を「不幸」とは絶対に呼びたくありません。なぜなら、そう呼んだ瞬間に将来必ず不幸になるからです。

死はけっして不幸な出来事ではありません。

そのことは、多くのメルヘンでも繰り返し語られてきました。シュタイナーは、子どもたちにメルヘンを聞かせる重要性を説きました。

子どもたちとは、この世にやって来る前、あの世、すなわち天上界と呼ばれる世界に住んでいた存在です。生まれたばかりの子どもは、以前の故郷での生活を記憶しているとされます。その記憶はなんと七歳までつづくそうです。日本でも「七歳までは神の内」という言葉がありました。7歳未満の子どもはまだ人間界には属していないというのです。そのため、明治時代くらいまでは七つより小さい子どもの葬儀は出さない習慣がありました。

メルヘンとは、そんな別の世界からこの世へとやって来た旅人である彼らへのメッセージなのです。シュタイナー教育の代表者として知られるドイツのヨハネス・W・シュナイダーは、著書『メルヘンの世界観』(水声社)において次のように述べています。

「子どもにメルヘンを語ってきかせる真の目的は、子どもたちに、天上界での生活を過去のものとし、地上における未来に向かって信頼の念を抱いて生きていくための力を与えることなのです」(高橋明男訳)

「幸福」というものの正体

これから紹介するアンデルセン、メーテルリンク、宮沢賢治、サン=テグジュペリのハートフル・ファンタジーは、ある意味で現代のメルヘンです。これらの作品は、やさしく「死」や「死後」について語ってくれるばかりか、この地上で生きる道も親切に教えてくれます。さらには、「幸福」というものの正体さえ垣間見せてくれます。

ある意味で、メルヘンが子どもへのメッセージならば、ハートフル・ファンタジーとは老人へのメッセージかもしれません。天上界を忘れて地上で生きていくための物語がメルヘンならば、これからもう一度、天上界へと戻っていく人々のための物語がハートフル・ファンタジーではないでしょうか。

「死」の本質を説き、本当の「幸福」について考えさせてくれるハートフル・ファンタジー。それは、読む者すべてに「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を自然に与えてくれます。

わたしたちは、どこから来て、どこに行くのでしょうか。そして、この世で、わたしたちは何をなし、どう生きるべきなのでしょうか。そのようなもっとも大切なことを教えてくれる物語がハートフル・ファンタジーなのです。

これまで数え切れないほど多くの宗教家や哲学者が「死」について考え、芸術家たちは死後の世界を表現してきました。医学や生理学を中心とする科学者たちも「死」の正体をつきとめようとして努力してきました。

それでも、今でも人間は死につづけています。死の正体もよくわかっていません。実際に死を体験することは一度しかできないわけですから、人間にとって死が永遠の謎であることは当然だといえるでしょう。

まさに死こそは、人類最大のミステリーであり、全人類にとって共通の大問題なのです。

その謎を説明できるのはハートフル・ファンタジーしかないと思います。

少し前に、「私のお墓の前で泣かないでください」という歌詞ではじまる「千の風になって」が大ヒットしました。現実の葬儀の場面でも、この不思議な歌を流してほしいというリクエストが現在も絶えません。喪失の悲しみを癒す物語をこの歌が与えてくれることに多くの人々が気づき、求めたわけです。

なぜ、自分の愛する者が突如としてこの世界から消えるのか、そしてこの自分さえ消えなければならないのか。これほど不条理で受け容れがたい話はありません。その不条理を受け容れて、心のバランスを保つためには、物語の力ほど効果があるものはないのです。

どんなに理路整然とした論理よりも、物語のほうが人の心に残るものです。そして、もっとも人の心の奥底にまで残る物語とはハートフル・ファンタジーにほかなりません。それは、人類最大のミステリーである「死」や「死後」についての説明をし、さらには人間の心に深い癒しを与えてくれるのです。

さあ、これから、もっとも大切なことを知るために、わたしと一緒にハートフル・ファンタジーをめぐる心の旅に出かけませんか?

旅を終えられたあなたの心には、もはや「死」の不安はないことでしょう。そして、あなたは本当の「幸福」について知ることでしょう。では、出発です!