八大聖人「聖徳太子」
八大聖人「聖徳太子」
●大いなる宗教編集者
日本人の宗教感覚には、神道も仏教も儒教も入り込んでいる。よく、「日本教」などとも呼ばれる。それを一種のハイブリッド宗教として見るなら、その宗祖とはブッダでも孔子もなく、やはり聖徳太子の名をあげなければならないだろう。
聖徳太子は、まさに宗教における偉大な編集者であった。儒教によって社会制度の調停をはかり、仏教によって人心の内的不安を実現する。すなわち心の部分を仏教で、社会の部分を儒教で、そして自然と人間の循環調停を神道が担う。三つの宗教がそれぞれ平和分担するという「和」の宗教国家構想を説いたのである。
この太子が行なった宗教における編集作業は日本人の精神的伝統となり、鎌倉時代に起こった武士道、江戸時代の商人思想である石門心学、そして今日にいたるまで日本人の生活習慣に根づいている冠婚葬祭といったように、さまざまな形で開花していった。
●歴史における日本の出現
日本の歴史については、実にさまざまな見方がある。戦前の歴史教育と現在の歴史教育とでは違うし、現在の歴史観に関しても意見は分かれている。しかし、いかなる歴史的立場にあっても、否定できない事実が一つある。それは日本という国が歴史の上において一つのまとまったものとして現れたのは、聖徳太子以来であるということだ。
それ以前の日本は、いくつかの有力な豪族の支配の下に分割されており、聖徳太子こそは実質的な意味において日本の建国者であると言える。太子は従前の氏族制度を根底から革新して、統一国家としての新しい日本を建設した。そして、このような革新を達成するための政治の基調として、仏教を採用した。
仏教は日本に渡来してから、わずか数十年が経過したばかりで、大陸の文明と節食していた一部の人々によって奉ぜられていたのにすぎなかったが、太子は仏教を政治の基調に置いた。それによって、諸部族の間の対立を緩和し、宥和して、民衆の生活における倫理性を高めようとしたのである。当時の仏教は、進歩した学問・芸術・技術の総体であったので、仏教を盛んにすることは、学問や芸術を振興し、技術を進展させることでもあった。
太子は自ら経典を講義するとともに、「法華経(ほけきょう)」「維摩経(ゆいまきょう)」「勝鬘経(しょうまんきょう)」という三つの経典を注解した。その結果は、『法華義疏(ほっけぎしょ)』四巻・『維摩経義疏(ゆいまきょうぎしょ)』三巻・『勝蔓経義疏(しょうまんきょうぎしょ)』一巻として今日に伝わっている。
●冠位十二階とブッキョー・インパクト
政治の面においては、冠位十二階を制定した。これは群臣を、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・大義・小義・大智・小智という12の位に秩序づけたものである。「徳」「礼」「信」「義」「智」といったコンセプト群には明らかに儒教の強い影響を見ることができる。
太子が冠位十二階を定めたのは7世紀初頭だが、儒教が日本に伝来したのは6世紀初頭であるとされている。応神天皇の時代、百済(くだら)王が阿直岐(あちき)を使節として良馬を献じた。この阿直岐は学問に通じた人物で、天皇は皇子の稚郎子(わさいらつこ)を学ばせた。翌年、さらに阿直岐の勧めにより百済の博士である王仁(わに)を招き、王仁は『論語』10巻、『千字文』1巻を持参し、稚郎子の侍講になったという。
儒教に次いで仏教も日本に入ってきた。その年代については538年、552年など諸説あるが、6世紀の中頃であることはおおむね間違いない。『日本書紀』によれば、欽明天皇の時代、百済の聖明王から金銅(こんどう)の釈迦像一体と経綸・仏具などがもたらされた。贈った側の使者が、「この法は、周公・孔子も知り給わなかった」と重々しく述べ、「福徳果報を生ず」とも言った。それ以上に当時の日本人を驚かせたのは、彫刻だった。6世紀といえば、古墳におさめるための埴輪がしきりに生産されている時代である。
その程度の技術しか持たなかったこの時代に、まるで生きているような人体彫刻が、釈迦像の形をとってもたらされたのである。しかも、鋳銅に金メッキがほどこされていた。日本人が金メッキを見たのもこのときが初めてであり、欽明天皇は非常に驚いたそうである。
ブッダの頃のインド仏教には仏像はなく、金銅仏を含めた仏像は2世紀頃にガンダーラで初めてつくられたとされている。つまり、400年もかかって、仏像は日本にやってきたのだ。
儒教も仏教も伝来する以前、長いあいだ自然をもって神々としてきた日本人が信仰の拠り所にしていたのは神道だった。もともと神道は社殿を必要としない。神社は、はるかな後世に仏教が伝わってきたとき、その寺院を見習ってできたものなのだ。つまり、仏教が伝来したときは、従来の神々が淡白すぎて迫力に欠けると思わざるをえなかったのだ。
この「ブッキョー・インパクト」に朝廷は大きな衝撃を受けた。さまざまな神を崇拝し、素朴な「ひもろぎ」の信仰を持つ日本人に、七宝荘厳の仏像や、その礼拝形式はいかに驚きを与えたことか。神ながら「言挙げせぬ」、無口な日本人にとって、表現もゆたかに想像と論理の大仕掛けな経綸の説明はどんなに感動を与えたことか。
●宗教対立を超えて憲法十七条へ
この仏教の受け入れをめぐって、豪族の間に激しい対立・抗争が引き起こされた。物部(もののべ)氏は、古来の神々の怒りを買うことを恐れ、仏教打倒、すなわち廃仏を主張した。
一方、帰化人の系統で異質な氏族もいた蘇我氏は仏教を必要とし、自らの館を寺として仏像を安置した。この両者が衝突したのである。この対立・抗争は、やがて蘇我馬子が物部守屋を討伐して終わった。ここに大勢は仏教容認と決められ、たちまち仏教は日本中に普及してゆくのである。
仏教が日本に根をおろすことができたのは、何と言っても聖徳太子の功績である。太子は574年、用命天皇と、その異母妹である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の間に生まれた。名を厩戸皇子(うまやとのみこ)あるいは豊聡耳命(とよとみみのみこ)という。用命天皇は欽明天皇を父とし、蘇我稲目(そがのいなめ)の子の堅塩媛(きたしひめ)を母とする。そして間人皇女の父も欽明天皇であり、母は堅塩媛の妹の小姉君(おあねぎみ)であった。つまり、太子は欽明天皇と蘇我稲目の血を二重に受けているのだ。
欽明天皇以上に、蘇我稲目は仏教を熱烈に崇拝した。太子の中に流れる崇仏の血は、蘇我氏の血である。また、幼い頃からの父母の影響で、仏教崇拝の心が太子の中で強くなっていった。仏教に懐疑的だった敏達天皇が亡くなったため、太子の父である用明天皇が即位した。しかし、その用明天皇も亡くなり、崇仏派の蘇我氏、廃仏派の物部氏の間に戦争が起こったのである。
このとき、まだ14歳だった太子は、仏教の守護神である四天王像を木でつくり、戦勝を祈願した。戦争は蘇我氏すなわち崇仏派の勝利に終わったため、崇峻(すしゅん)天皇が即位した。このとき、日本が仏教国になったことを宣言するべく「法興(ほうこう)」という年号が制定された。やがて崇峻天皇は蘇我馬子と対立して、馬子に殺されることになる。
次に即位したのは敏達天皇の皇后の推古天皇だった。推古天皇は用明天皇の同母妹であり、太子の叔母にあたる。推古天皇が即位すると、太子は摂政となり、馬子とともに国政を司った。
推古天皇は即位後まもなく、三宝興隆の詔(みことのり)を発した。その前年には有名な難波の四天王寺が落成している。多くの群臣たちは、詔に応じて、上は天皇のため、下は各自の父母の恩に報いるため、競って寺を建立した。この勢いに乗じて朝鮮半島からも僧侶が次々に布教に訪れ、わが国最初の大寺といわれる法興寺(ほうこうじ)も落成した。
そのとき、604年に聖徳太子によって憲法十七条が発布されたのである。
604年に儒教精神に基づく冠位十二階を制定した翌年のことであり、この憲法十七条こそは太子の政治における基本原理を述べたものとなっている。
普遍的人倫としての「和をもって貴(たっと)しとなし」を説いた第一条以下、その多くは儒教思想に基づくが、三宝(仏法僧)を敬うことを説く第二条などは仏教思想である。
さらには法家思想などの影響も見られ、非常に融和的で特定のイデオロギーにとらわれるところがない。これが日本最初の憲法だったのである。
●神仏儒習合思想のファウンダー
このような聖徳太子に対して、宗教哲学者の鎌田東二氏は「神儒仏習合思想のファウンダー」という呼び名を与えている。ファウンダーとは、企業などでよく使われるが、創始者のことである。
晩年の親鸞が「皇太子聖徳奉讃」をはじめ、三種類の聖徳太子和讃をつくっていたことはよく知られている。まさに親鸞は、太子を「和国の教主」として、日本仏教のファウンダーの位置にまで高めた。
また、父母のごとき慈悲を持つ救世(くぜ)観音の示現としてたたえているのである。同時代の明恵も、叡尊も、やはり「太子和讃」で聖徳太子の功績をたたえている。彼らは、いずれも聖徳太子を救世観音菩薩の化身・示現として尊崇していた。
とりわけ、親鸞の聖徳太子に対するリスペクト(尊敬)の深さはただごとではない。親鸞は、叡山仏教の腐敗に腹を立て、どう生きるべきかに悩んでいた。そして、京都の六角堂にこもった末、二度までも六角堂の本尊である救世観音のお告げを聞いたという。
さて、聖徳太子によって開かれたといってよい神仏習合思想は、「本地垂迹(ほんちすいじゃく)説」や「反本地垂迹説」という新しい習合思想を生み出した。「本地垂迹説」とは、仏が本体で、民衆を教化し救済する仮の姿となって現われてきたのが神であるという思想だ。仏が本で神が従であるとの説ゆえに「仏本神従説」とも呼ぶ。
●神道は根、儒教は枝葉、仏教は果実
この「本地垂迹説」に対抗するようにして登場したのが、「反本地垂迹説」である。それは日本の神が本で、インドに現われた仏は仮の姿であるという。
「反本地垂迹説」を強く主張したのは、応仁の乱の頃に登場した吉田兼倶(かねとも)である。京都の神楽岡にある吉田神社を拠点として、唯一宗源神道(吉田神道)を提唱した。兼倶には『唯一神道法名集』という著者があるが、その中で「根本枝葉花実説」という興味深い思想を展開している。
根本すなわち根っこが日本の「神道」で、枝葉すなわち枝や葉っぱが中国の「儒教」で、花実すなわち木の実がインドの「仏教」であるとの説だ。
「神道」の根から生え、生い茂った「儒教」の葉から実った花実として熟したものが「仏教」であるとする。それがやがて大地に落ち、もう一度、元の根源である「神道」の大地に戻る。これが「仏法東漸(ぶっぽうとうぜん)」の因縁のメカニズムであると説明するのである。
そして注目すべきは、この「根本枝葉花実説」の本当の考案者が聖徳太子とされていることである。また、それが秘密の奏上として位置づけられていることである。つまりここでは、神仏習合の隠された意味が説き明かされるという仕組みになっているのだ。
かくして、聖徳太子が仏教を受容したことの隠された意味や真意が説かれ、そこでの太子像は「和国の教主」ではなく、神道を枢軸とした神仏儒習合思想の主唱者として、そのファウンダーの位置を獲得するのである。
聖徳太子は、神道、仏教、儒教の三教というアジア的思想の調停者であり、統合者となったのである。それはいわば、霊の領域を神道に、心の領域を仏教に、そして体の領域を儒教に任せることだった。聖徳太子は、このような宗教的分業システム、あるいは相互補完システムを確立したと言えるだろう。
●聖徳太子はいなかった?
しかし、聖徳太子の「実像」は謎である。なにしろ「正史」の筆頭に置かれた『日本書紀』の聖徳太子伝承ですら、はなはだしい神話化・神格化がほどこされているのだから。
ここ数年、聖徳太子が実在の人物ではないという学説がいくつも発表されて、大論争に発展している。すでに戦前から歴史家の久米邦武や津田左右吉などが、聖徳太子について書かれた史料はどれも信憑性に乏しく、史実としての聖徳太子の実在に疑問を呈していた。
戦後になって滝川政次郎や坂本太郎らの歴史家が積極的に実在説を唱え、実在説が定着した時代がしばらく続いた。ところが1999年、日本古代政治史学者の大山誠一氏が、『〈聖徳太子〉の誕生』を発表し、聖徳太子虚構論を唱えたのである。これを契機に、聖徳太子実在論は大きく揺らぎ出す。
大山説のポイントは、推古朝に厩戸皇子という人物は存在したが、政治を主導したような存在ではなく、有力な皇子の一人に過ぎず、彼の生存中に「聖徳太子」と呼ばれた事実もなかった。そして、聖徳太子とは『日本書紀』の作者が創作したフィクションだというものだ。
さらには、書誌学者の谷沢永一氏が著書『聖徳太子はいなかった』において、「聖徳太子はいなかった。聖徳太子は幻である。聖徳太子は夢であった。聖徳太子は蜃気楼である」と断言し、古代日本における憧れの心情に基づいた理想の人間像を文字上に結晶させたものが聖徳太子の本質であるとしている。
鎌田氏は、単に太子の「実像」を明らかにするのではなく、かえって太子の「虚像」ないし神話の奥にあって、そうした「像」を生み出し、かつ支える歴史的構想力や神話的思考こそが必要だろうと主張する。まったく同感である。聖徳太子は、実像だの虚像だのを完全に超えた存在なのである。