平成心学塾 聖人篇 人類の教師たちのメッセージ #003

八大聖人「孔子」

八大聖人「孔子」

 

●恵まれなかった孔子の生涯
儒教の開祖である孔子の生涯は、決して恵まれたものではなかった。孔子の「子」は尊称で、「孔」が姓である。名は「丘(きゅう)」、他人からの呼称である字(あざな)は「仲尼(ちゅうじ)」。紀元前552年に魯の陬邑(すうゆう)、現在の山東省に生まれたとされている。

30歳前後までの孔子は、魯の国に仕えて、倉庫番や牧場の飼育係をしながら学問に励んだ。そして36歳のとき斉の国に行き、43歳のころ再び斉から魯に戻った。この時期になって、子路(しろ)や閔子騫(びんしけん)といった弟子たちが集まってきて、孔子の名声は高まっていった。

孔子が魯の国でそれなりのポストを得たのは50歳を過ぎてからだった。52歳で中都の代官となり、54歳で司法長官となった。行政官として絶頂期を迎えたわけだが、このとき孔子は一種の行政改革を試みた。それが失敗に終わったために辞職し、56歳のときに魯の国を出る。

以後14年間というもの、孔子は曹、衛、宋、鄭、陳、蔡、楚と、諸国を流浪して、自分の政治的理想を実現してくれる君主を探し求めたのである。

●孔子の政治的理想
では、彼の政治的理想とはどのようなものだったか。それは道徳による政治、すなわち「徳治主義」であった。

徳治主義とは、法律で人民をコントロールすることによって政治を行う「法治主義」に対するものだ。魯に伝わる周の文物制度を学び、周公旦を理想の人物と敬慕した孔子は、乱世における政治を周の制度に戻すべきであると主張した。

周といえば、孔子の時代より500年も昔の紀元前11世紀の頃である。その古(いにしえ)の理想の政治を実現するために、彼は徳治主義を提唱するのである。

孔子によれば、人民を統治するのに法律と刑罰をもってすれば、人民は法律の抜け穴ばかりを探し求め、恥じらいの心というものがなくなってしまう。人民を統治するのに徳と礼をもってすると、人民は恥を知り、不正を働かなくなるという。

もっとも、『論語』の為政篇を読むと、孔子は為政者の統治についてのみ政治を考えたのではないことがわかる。家庭の日常生活において、祖先や親を大切にし、兄弟が仲良くすることも大きな意味での政治であると考えていたのである。

●礼によって君子をめざす
孔子の道徳的・政治的改革は、一般の人間をすぐれた人間としての「君子」に変える方法のことであり、一種の全体教育と呼ぶべきものであった。道にそった儀礼的行動をとることができるなら、つまりは礼を正しく行うことができるなら、誰でも君子になることができる。

しかし、こういった行動は容易に身につくものではない。それは外面的な儀礼主義ではないし、儀式を行うことで意図的に感情を高揚させることでもない。

孔子は、正しい儀礼を行うことによって、膨大なエネルギーを持った「呪術の力」、あるいは「宗教の力」が解き放たれると考えたのである。

「儒」は「呪」にも通じるのだ。宇宙や社会も、人間に働いているのと同じ呪術の力、宗教の力によって支配されており、礼にのっとって正しい行動さえすれば、それで充分であると考えたのである。個人においては、『論語』衛霊公篇で有名な舜王をとりあげ、「彼はただそこに、顔を南の方に三毛、重々しく威厳をもって立つ。ただそれだけである」と君子の儀礼的姿勢について述べている。

また宇宙および社会においては、為政篇の中で「徳による支配は、あたかも北極星になったようなものである。同じ場所にとどまったままで、他のすべての星がその周囲を忠実に巡っていく」と述べている。まさに、これこそが孔子の理想であったのだ。最もありふれたことから、最も予期せぬことまで、人生のいかなる状況においても礼儀正しくふるまえる君子。それには「仁」が必要だ。

孔子は人間を儒教の最高徳目である「仁」に導こうとしていたのである。そして、すべてのものに「理」という本来の性格をもたらし、社会に秩序と持続性を与え、人間を社会全体に結びつけるもの、それがすなわち「礼」なのである。

しかし、結果として孔子の理想を理解し、理想を実現すべく彼を採用する君主はいなかった。ときには生命の危険にもさらされる苛酷な旅を終えて、大いなる人生の敗北者である孔子が故国の魯に舞い戻ったとき、彼は69歳であった。最晩年の孔子は、政界への望みを絶ち、魯の国で子弟の教育に専念した。

実に3000人の弟子を教えたという。そして、紀元前479年、74歳で没した。

●五倫と五常
孔子が残した教えを具体的に見てみると、儒教の実践道徳として「五倫」と呼ばれるものがある。

孔子の言行録である『論語』をはじめとして、『孟子』『大学』『中庸』を儒教でもっとも重要な「四書」とするが、五倫とは『孟子』の内容に由来する。すなわち、「父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり」をさす。

ただし、『孟子』と同じく四書に数えられる『中庸』では、この五倫は「五達道」と称され、君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の順になっている。父子を第一とする『孟子』に対して、『中庸』では君臣を第一とするのだ。

家族主義的な『孟子』と国家主義的な『中庸』と対比させることもできるが、どちらも具体的な人間関係において道徳を説いている点は同じであり、まさにこれが儒教の特色であると言える。

このような具体的な人間関係における倫理規範としての「五倫」の他に、儒教には「五常」と呼ばれる徳目もある。すなわち、仁・義・礼・智・信である。もちろん「五倫」や「五常」は後世の弟子が定めたものであるが、その根本思想は儒教の開祖である孔子に基づいている。

仁義礼智に始まる数多くのコンセプトを発見し、再編集した孔子にとって、最も重要なコンセプトとは、やはり「天」である。「天」は中国の伝統的な信仰の対象だが、中国最初の賢人である孔子もまた、天が人間界を支配するという堅い信仰を持っていたのである。

●礼とは何か
孔子にとって、「天」とは「天命」の天、「天運」の天であって、畏怖すべきものに他ならなかった。そして、「礼」とは、何よりもまず「天」を祭ること。

孔子の後に儒家の経典として編まれた『王経』の中の「礼」として、天神、地祇、人鬼の三つの形態に分類された神々への信仰と祭祀が詳しく記されている。

孔子の心中には、つねに「天」があった。そして、その「天」の秩序を地上に引き下ろすテクノロジーが「礼」であったと私は思う。

「礼」はもともと古代中国の宗教から規範、および社会システムにまでおよぶ巨大な取り決めの体系である。「礼」の旧字体では「禮」と書かれるが、これは「履」の意味であり、人として履(ふ)み行うべき道を示した。

儒教は、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』にも出てくることで知られる「仁義礼智忠信孝悌」のように徳目の一つとして、「礼」を礼儀とかマナーの意に落ち着かせようとした。それも確かに「礼」の一部であり、後に日本に入って、小笠原流礼法として開花したことはよく知られている。

しかし、独自の視点で中国文化の深層を描き出すことで定評のある作家・酒見賢一氏は、「礼」の本質に迫る小説『周公旦』のエピローグにこのように書いている。

「孔子系の儒は仁を最高の徳とし、孝の実践を最高義とする。宋学は仁が徳の中心にあり、仁はすべてを含む概念であるとさえする。が、本来は義智忠信孝悌のほうが礼の中に含まれていたものである、その逆ではない。仁は孔子が自らの理想の、曰く言い難い新しいなにかを表現しようとして採用した特別な言葉である。その概念はまたもともと礼の中にあったと言えなくもない。何故後世の学者がこんな簡単なことを逆にしてきたのか、浅学の作者には非常な疑問である」

道徳倫理、各種の祭祀、先祖供養、歴史、人間の集団における序列の意味などはすべて礼の中にあったのである。礼は儒教のみならず、黄老、仙道、方術、民間宗教の母体なのだ。そして、『論語』には、「礼」「礼を履(ふ)む」「礼を聞く」「礼を学ぶ」「礼を知る」などの語がたびたび出てくるが、孔子ほど「礼」の重要性を知りつくしていた人物はいない。

母親が葬儀を営む巫女であった孔子は、何よりも葬礼を「礼」の中心に置いた。しかし彼は、礼制に詳しい単なる知識人や学者ではなく、「礼」に関わる事実の持つ意味を徹底的に考えたのである。

たとえば、古代中国の礼制に「三年の喪(そう)」というものがあった。これは、父親が亡くなったとき、子が喪に服する期間のことだ。弟子の宰我(さいが)という秀才が、3年では長すぎると意見を述べた。すると孔子は、「いや必要だ。自分は赤子、幼児として父母にたいへんお世話になったから、そのお返しをするのだ」と言っている。これは、3年という期間の意味づけをしているのである。「三年の喪」を、宰我のように事実問題として扱うのではなく、意味問題として扱って、それを主張しているのだ。これは、きわめて重要なことであると言えよう。

●親の葬儀が最も大切
孔子は、「仁」や「孝」によって人間愛の重要性も説いたが、孔子の後に登場した墨子はそれを批判した。墨子集団すなわち墨家は「兼愛」という博愛主義を主張し、儒家の愛はかたよった「別愛」であると攻撃したのである。

「別愛」とは、「愛」する相手を区「別」するということだ。

では、どのように区別するのか。儒家は、愛情は親しさの度合いに比例するという。すなわち、最も親しい人を最も愛し、その後、親しさが減ってゆくのに比例して、愛する気持ちが減ってゆくとするというのだ。しごく常識的な考えである。

そして孔子はこう考える。人間にとって最も親しい人間とは、その字の通り「親」である。だから人間は誰よりも親を愛するのが自然なのだ。よって、親から遠くなってゆく家族、あるいは親族に対して、その割合で愛情が薄くなってゆくとする。親に対するときを頂点とするこの愛情のあり方は、親しさのあり方に比例している。

すると、死の場合、実感としてその死を悼む悲しみもまた親しさに比例することとなる。はっきり言えば、見知らぬ人の死は悲しくないことを認めるわけである。

「博愛」主義者ならば、その立場からいって、見知らぬ人の死も悲しむこととなるだろう。しかし、儒家はそれを偽りだとする。最も親しい、そして最も親しいがゆえに最も愛する親の死が最も悲しいというのである。このように徹底して常識的な考え方をするのだ。

この常識の延長線上に、最も親しい親の葬儀をきちんとあげるということが人間としての最優先事という儒教的価値観がある。孟子も、親の葬儀に最高の価値を置いた。