平成心学塾 聖人篇 人類の教師たちのメッセージ #007

八大聖人「ムハンマド」

八大聖人「ムハンマド」

 

●世界宗教イスラム教
ムハンマドは、イスラム教の開祖だ。イスラム教は、キリスト教と並ぶ世界宗教である。しかし、多くの日本人にとっては未知の宗教でもある。

「イスラム」という言葉は、『コーラン』の中に記されているように、「神への帰依」を意味する。「ムスリム」は「神に帰依する者」であり、イスラム教徒を指す。

日本人にとってイスラム教というとアラブの印象が強いが、実際のイスラム圏は、北アフリカからアジアにまで広がっており、世界人口の2割、人類の5人に1人という多くの信者たちによって、信仰されている。しばしば深刻な対立を超えて、イスラム教は、アッラーの神への厳格な一神教信仰をつらぬく統一によって発展してきた。

イスラム教が登場する以前のアラビア半島は、セム族の多神教、アラビア化したユダヤ教、ビザンティンのキリスト教が広まっていた領域である。北部と東部には重要な交易路が通っており、ヘレニズムとローマ人から深い影響を受けていた。

ムハンマドの時代には、太陽、月、金星といった古代の星辰信仰に部族の神々への祭儀がとって代っていた。部族の主神は、おそらく隕石と思われる石や木、林の形で崇拝されていた。こうした神に対しては聖所が設けられ、供物の奉献や動物の供犠が行なわれていた。時に悪霊にもなるジンと呼ばれる精霊が、イスラムが出現する前にも後にも存在していると考えられた。

神であるアッラーはアラビアの大女神たちとともに崇拝されていた。主な宗教的実践として祭り、断食、巡礼が行なわれていた。またアル=ラマハーン(慈悲深き方)信仰においては、唯一神を崇める一神教が見られた。オアシスの町矢ヤスリブのような都市の中心部には、大きな勢力を持つ有力なユダヤ人の諸部族が定住していた。ヤスリブは後にメディナと呼ばれることになる。

ムハンマドの最初の妻であるハディージャの親族に一人のキリスト教徒がいたことが知られているが、キリスト教の伝道活動は、ある程度の入信者を生み出していたようだ。有名な黒い隕石が置かれたカーバの聖所がある都市メッカは、6世紀にはすでに中央アラビアの宗教的中心地であり、重要な交易都市でもあった。ムハンマドは生涯を通じて、メッカの社会の構成、住民の粗暴さ、彼らの間の経済格差や道徳的頽廃を嘆いていたという。

●預言者ムハンマド
ムハンマドは570年頃、クライシュ族のハーシム家に生まれている。メッカの商人の家であった。ブッダやイエスの例を見てみても、世界的な宗教を開いた人物が商家の出身であったことはきわめて珍しく、かつ興味深い。ムハンマドは両親と祖父の死後、貧しい暮らしを続け、やがて交易の世界に身を投じた。25歳のとき、彼を雇っていた40歳の富裕な未亡人ハディージャと結婚した。

その後、ムハンマドはメッカ近郊の洞窟でただ一人でしばしば瞑想を行なっていたが、610年頃から瞑想の際に幻視と声による啓示を受けはじめた。伝承によれば、大天使ガブリエルが彼のところに現われ、一冊の書物を示して「読め!」と命じたという。ムハンマドは何度も読むことができないと答えたが、天使から強くうながされると、難なく読むことができた。

ムハンマドはその瞬間、神の使徒にして預言者となったのである。神は、イスラエルの預言者たちに対してそうであったようにムハンマドに対しても、神自身の比類ない偉大さと人間の卑小さを啓示した。ある期間、ムハンマドは自身に降った啓示と、預言者としての自分の使命について親しい人々にしか語らなかったが、彼を信奉する集団は

次第に大きくなり、集会もよりひんぱんに開かれるようになっていった。3年の後、ムハンマドは一神教的な教えを公に説きはじめたが、受け入れられるよりはむしろ多くの反対にあったため、同じ部族の人々から保護を受けなければならなかった。

その後の数年間にムハンマドはさらに多くの啓示を受けたが、その中には『コーラン』の神学を構成することになるものも含まれていた。ある啓示では、人気のあった土着の三女神がアッラーへのとりなしの役割を担っていたが、それは後に否定され、サタンの言葉とされた。ムハンマドが支持者を獲得するにつれて、彼の教えに対する批判はますます強くなった。嘘つきと非難する者もいれば、預言者としての資質を証明する奇蹟を行なうように求める者もいた。

奇蹟という概念はもちろんイスラム教の中にもある。イスラム教においても、神は絶対にして万能であり、呪術の付け入る隙はない。ただし、「神の子」とされたイエスはさかんに奇蹟を起こしたが、ムハンマドは生前、瀕死の病人を救ったこともないし、火の中、水の上を歩いたこともない。そこで周囲のユダヤ教徒やキリスト教徒たちはさかんに、「神の声が聞こえるというのなら、奇蹟の一つも起こしてみせよ」とムハンマドを挑発した。

これに対して、ムハンマドは「『コーラン』こそが最大の奇蹟である」と堂々と言った。大天使ガブリエルが私の前に現われ、神の言葉を伝えて下さった。これ以上の奇蹟があろうかというのである。そして彼は、「その証拠にもし、この奇跡を疑うのであれば、『コーラン』の詩句を超える作品を書いてみるがよい。その文章は神自らがお作りになったものであるから、人間ごときに真似できるわけがない」と断言したのである。後にこの挑戦に対して、アラブの詩人たちは『コーラン』以上の作品を作ろうとしたが、いずれも失敗したと伝えられている。

●メディナからメッカへ
ムハンマドの生命は常に危険に晒されていた。このため彼は活動の新たな拠点を求めていたが、それはメッカの北400キロメートルに位置し、多くのユダヤ教徒が住む町、メディナの諸部族によって提供された。ムハンマドの支持者たちがその地に移り住みはじめ、622年にはムハンマド自身が、助言者アブー・バクルとともにメディナに向かって密かに出発した。この移住は「ヒジュラ」と呼ばれ、イスラム暦の元年となっている。しかしながらイスラム暦から西暦への換算は、ヒジュラ暦に622年を加えるだけでは済まない。イスラムの宗教暦は太陰暦であり、1年は354日しかないからである。

メディナで過ごした10年の間も、ムハンマドは啓示を受け続けた。それらの啓示は書き記されて、彼の言行を伝える伝承の集成である「ハディース」とともに、ムスリムの生活規範をなしている。この間、たえずムハンマドの心を占めていたのは、信奉者たちの宗教生活の指導についてであった。一方、メディナと、特にメッカの敵対者に対する討伐もたびたび企てられ、メッカの隊商への襲撃も行なわれていた。こうした行動の結果、これら二つの都市間で戦いが起こったが、その間にメッカの人々を改宗させるための折衝も始められた。結局ムハンマドと彼の軍隊がメッカを占領した。そしてこの都市が、すべてのムスリムが礼拝する際に向かう方向である「キブラ」となり、巡礼としての「ハッジ」で訪れる場所となった。ムハンマドはイスラムを強靭な勢力に築きあげたが、短期間の病気の後、632年にメディナで突然に死んでしまった。

●平等主義者ムハンマド
ムハンマドは、男女の平等を重んじた。今日の西洋では、イスラムをもともと女嫌いの宗教として描くことが多い。しかしアッラーの宗教は元来、キリスト教と同様に女性に対して肯定的であった。イスラム以前の時代を意味する「ジャーヒリヤー」の間、アラビアでは一夫多妻制が普通で、妻たちは彼女らの父の家に留まっていた。ムハンマドの最初の妻ハディージャが商人として成功していたように、エリートの女性はかなりの力と威信を教授していた。だが、大多数の女性は奴隷に等しかった。彼女たちは政治的権利も人権も持っておらず、女の嬰児殺しは普通だった。ムハンマドの最初の改宗者の中には女性もいたし、彼は女性の解放をいつも心がけていた。

『コーラン』は女児殺しを厳しく禁じているし、女児が生まれたときにアラブ人が困惑することを叱っている。『コーラン』はまた、女性に遺産相続と離婚の権利を与えている。西洋のたいていの女性は、19世紀に至るまで、それと比べられるものは与えられていなかった。まさに当時の世界では類を見ない女性尊重の思想である。ムハンマドは女性がウンマにおいて活動的な役割を果たすように励ましていたし、彼女たちは自分の意見を率直に表明した。自分たちの言い分が聴かれることを確信していたからである。

イスラムの男女関係というと、一夫多妻ばかりが強調され、あたかも男尊女卑の典型であるかのように言われているが、これは完全な偏見だ。たしかにイスラム教は「四人妻」を認めている。『コーラン』4章3節には次のようなくだりがある。

「もしおまえたちが孤児を公正にあつかいかねることを心配するなら、気に入った女を二人なり三人なり、あるいは四人なり娶(めと)れ。もし妻を公平にあつかいかねることを心配するなら、一人だけを、あるいは自分の右手が所有するものを娶っておけ」

自分の右手が所有するものとは、女奴隷のことである。なぜ、このような規定があるのかというと、孤児の救済が目的であったとされている。というのは、625年にメディナの北にあるウフド山において、ムハンマドはメッカ軍と2度目の本格的な戦いをした。この戦争はイスラム側の敗北に終わり、大量の未亡人と孤児が生まれたのである。両親ともにいない孤児はもちろん、父親のいない母子家庭も、当時は孤児と呼ばれていた。そして、そのような孤児も未亡人も、砂漠という過酷な環境では生きていけない。

そこで、その孤児たちの生活を保護するために、『コーラン』では未亡人との結婚がすすめられたわけである。四人妻の発想は決して男性本位の制度ではないのだ。イスラム教の一夫多妻制とは、イスラム独自の社会保障システムだったことを知る必要がある。

ムハンマド自身が孤児であり、未亡人を最初の妻とした。また、女児のみで跡継ぎとなる男児を遺さなかった。ムハンマドは真に女性に優しい、女性を尊重する人物だったのみならず、「アッラーの前には、すべての人間は平等である」という思想の持ち主であった。イスラム教団が短期間にして、あれだけの急成長を遂げた背景には、こうした平等思想があったと思える。アッラーの前には貧富の差も、男女の差もないと説いたムハンマドの教えが、当時の人々にとってどれほど衝撃的で、魅力的であったかは想像に難くない。

●人類史上において特異な人物
ムハンマドは特異な宗教家である。神の啓示を授かった預言者でありながら、商業の価値を認め、実際に商売で大成功を収め、しかも戦争に滅法強かった。

同じ世界宗教の宗祖を考えたとき、ブッダやイエスが軍隊の指揮を執るなど想像さえつかないが、ムハンマドは宗教的天才であったのみならず軍事的天才でもあった。「バドルの戦い」を初戦として通算60回にもおよぶ戦役、派兵はすべて勝利に終わったのである。その結果、イスラム世界の領域を大いに拡げたのである。

かつ、女性を尊重した。そして、万人の平等を説いた。人類史上においても、まことに特異な人物である。日本人に人気の司馬遼太郎作品に出てくる登場人物でいえば、『国盗り物語』の斎藤道三と『竜馬がゆく』の坂本龍馬を合体させたようなキャラクターではないだろうか。

富裕な商家の未亡人と結婚して、商売のかたわら軍事的にも成功を収めてゆくところは道三にそっくりだ。また、蔑まれていた商売に価値を見出し、女性差別をはじめ、あらゆる差別を憎んだ平等主義者の側面は龍馬に通じる。なおかつ、浄土真宗の祖である親鸞のごとき宗教的な純粋性を持っているのだから恐れ入る。もっとも、ムハンマドは彼らの数十倍、いや数百倍のスケールを持っており、今なお人類社会に甚大な影響を及ぼし続けている。しかも、ライバルのキリスト教は世界的に信者数を減少させつつあるが、イスラム教は現在も猛烈な勢いで信者数を増やしているのである。