八大聖人「ソクラテス」
八大聖人「ソクラテス」
●神託の謎を解き明かす
西洋哲学の祖とされるソクラテスは、紀元前469年に、彫刻家ないし石工の父と産婆の母との間に生まれたとされる。
アテナイに生まれ、スパルタと戦ったペロポネソス戦争に従軍した他は、生涯のほとんどをアテナイで暮らした。
ソクラテスは、自分自身の「魂」を大切にすることの必要を説いた。また、自分自身にとって最も大切なものは何かを問い、毎日、町の人々と哲学的対話を交わした。
それには契機となる出来事があった。彼にはすでに何人かの弟子がいたが、その1人であるカイレフォンがデルフォイの神託所に尋ねると、「ソクラテス以上の賢者はいない」というアポロンの託宣を受けたのである。この神託に直面したソクラテスは当惑した。
そして、「いったい、神は何を言おうとしておられるのか。何の謎をかけておられるのか。なぜなら、わたしは自分が知恵のある者ではないことを自覚しているのだから」と自問した。
しかし、神はけっして偽りを言うはずがない。無知なるソクラテスを「最高の賢者」と語るからには、何か深い意味が隠されているに違いない。ソクラテスは、この謎を解くことが神から自分に課せられた天職であると理解し、思い悩んだ末に、世に賢明のほまれ高い人々を歴訪することを決心した。
彼らから賢さを学ぶことによって、謎の神託の意味を解こうとしたわけだが、この対話活動こそ彼の哲学の出発点となった。また同時に、彼が死罪となる運命の第一歩だった。
●無知の知
すでに年配だったソクラテスはアテナイの町角や体操場で美しい青少年や町の有力者たちを相手に、「人を幸福にするものは何か」「善(よ)いものは何か」「勇気とは何か」などと問いただした。おれをソクラテスの「問答法(ディアレクティケー)」という。これらの問答のテーマの多くは実践に関するものであったが、最後はいつも「まだ、それはわからない」という無知の告白を問答者同士が互いに認め合うことによって終わった。
多くの青年はソクラテスの問答に魅了されて、20歳のプラトンのように彼の弟子になった。しかし、その他の青年は次のように思って憤慨した。つまり、ソクラテスは「まだ、それはわからない」と言いながらも、実は自分では知っているかのような印象を与える。これを「ソクラテスのイロニー」というが、そこで自分たちの無知を露呈された人々は、ソクラテスのやり口の陰険さを怒った。
しかし、ソクラテスの真意は、各人が自己の存在がそれによって意味づけられている究極の根拠についての無知を悟り、これを尋ねることが何よりも大切なことと知るように促すことにあった。もとよりソクラテスがこの根拠を知るということではなく、むしろ、究極の根拠についての無知を悟ることにあった。いわゆる「無知の知」である。
対話活動の結果、ソクラテスが発見したことは、賢いと思われている人々は本当は少しも賢くないということであった。すなわち、「人間の知恵など無に等しい」ということ、「ソクラテスのように自分の無知を自覚することが人間の賢さである」ということが、アポロンからのメッセージだったのである。
ソクラテスのめざすところは、「無知の知」への問いかけを通じてこの「行き詰まり(アポリア)」の内にとどまるところにあった。それがソクラテスの哲学だったのである。それは根元から問いかけられるものとしての場に自分を置くことであり、このような方法で自分が全体として根源から照らされることだった。
●ソクラテスの死
また、自らの無知を露呈された恨みだけでなく、人々はソクラテスを疑っていた。つまり、アテナイ市に対する悪意を持っているのではないか、市が被った災害の間接的な原因ではないか、トレントの凄惨な僭主政治へと続くぺロポネソス戦争を敗北に終わらせた原因ではないか、と。また、不敬の罪を犯した裏切り者のアルキビアデスや、スパルタの援助でトレント体制を確立した懐疑的なクリチアスがソクラテスの弟子の中にいたことをアテナイの人々は忘れなかったのである。
民主政治が復活したとき、3人の無名の市民によって、ソクラテスは告発された。罪状は、ソクラテスが不敬な者であり、青年を毒する者であるというものだった。そして、一種の政治的理由から起こった裁判でソクラテスは死刑宣告を受けたのである。
友人たちは自分の身を守るようにソクラテスに頼んだが、彼はこう答えた。「わたしは、今まで人間の中で一番幸せに生きてきた。神々がわたしに安楽な死を準備しておられる。これは、わたしが今までに欲することができた唯一のものなのだ」
ソクラテスは、「追放され、侮辱され、さらに法律を犯して権威の敵になった自分の姿を異国人たちにさらすことがないように」と、逃亡を拒否した。そして、妻のクサンチッペや子どもたちに別れを告げた後、ソクラテスは毒杯をあおいだ。
クサンチッペは悪妻だったとの俗説があるが、彼女は最後まで夫の無罪を信じ、逃亡を願い、最期の別れでは号泣したという。悪妻ではなかったようだ。
そして悠然と毒を飲んだソクラテスは、最期まで彼の仲間たちとおだやかに語らいながら死んでいったのである。
●哲学は死の予行演習
ソクラテスの裁判の模様、獄中および死去の場面は、弟子プラトンが書いた「対話篇」と呼ばれる哲学的戯曲の諸作品に詳しい。すなわち、『エウチュプロン』『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』である。それらに描かれた、自らの死に直面したソクラテスの平静で晴朗な態度は、生死を超越した哲学者のあり方を示すものとされた。
ソクラテスほど、わたしたちに生と死について考えさせる哲学者はいない。彼は常に人間の幸福というものを追求していた。そして、人間のための哲学をつくろうとしたソクラテスは、「人間の生を幸福にするためには何をすべきか」と自問して、次のように考えた。
ただ生きることは人間の生ではない。人間の生は人間らしい生でなければならず、それには「善(よ)く生きる」ことが大切である。これを言い換えれば、「正しく生きる」ということなのである。そして、そのためには「いかなる仕方でも、不正を犯してはならない」、さらには「たとえ不正を加えられても、不正の仕返しをしてはならない」ということが大切になるという。このように、ソクラテスは、人間を人間であらしめている根本的特徴はその倫理性にあると考えたのである。
さらに人間が幸福になるためには、哲学をすればよいとソクラテスは言う。哲学は幸福への道だというのである。そして、その幸福への道の哲学とは何かというと、「死の予行演習だ」と答えた。
哲学は死の予行演習である!それは限られた人生の中で、本当に自分の生が充実するものはどこにあるかを探してみなければならないということ。さらには、肉体という牢獄に繋がれている魂が解放されて自由になることが「死」と「哲学」に共通した営みであるということ。この死の思想こそソクラテス哲学の神髄であり、弟子のプラトンにも受け継がれた。
●魂の世話をする
ソクラテスは「本当に自分は何を求めるのか」と自問したとき、自分はこの社会の中で立身出世を求めることが悪いとは思わないし、財をなすことも悪いとは思わないと考えた。しかし、まず自分がしなければならないこと、それは「本当に人間の最も大事なものは何か」ということを探すことであると思い至った。そして、その緊急課題として「エピメレイア・テース・プシュケース」ということを考え出した。「魂の世話」という意味である。
ソクラテスは、人間にとって最も大事なことは、自分の命である魂を世話することだと喝破したのだ。そして魂を世話するということは、本質的に魂が要求するものを大事にすることである。人間の魂が本質的に要求していることとは、真理を知ることである。だから魂の世話とは、知恵を大事にすることなのである。それで、最初から自分を知者であるとは言わずに、自分は本当の知を愛し、求める者であるとソクラテスは言ったのだ。
哲学のことを「フィロソフィー」と呼ぶ。これは「フィロソフィア」という言葉から来ている。「フィリア」は「友愛」を意味するし、「ソフィア」は「知恵」だから、フィロソフィアとは「愛知」ということになる。他の賢者たちが「自分たちはソフィステース(知者)である」と言ったのに対して、ソクラテスは「自分はフィロソフォス(知恵を愛し求める人)にすぎないと言ったのである。
ソクラテス以前のギリシャの哲学者は、タレスやヘラクレイトスのように宇宙の原理を問うた。ソクラテスにおいて、初めて自己と自己の根拠への問いが哲学のテーマになったのである。彼は自然現象の統一的な原理が何であるかということよりも、人間の魂が要求するものは何かということを追求し続けた。
この意味で、ソクラテスは「魂の哲学」の祖なのである。
●西洋哲学の創始者
そして、ソクラテスは形而上学あるいは観念論哲学の祖でもあった。自己への問いは自己を根拠づけている超越的な「見えないもの」への問いであるという意味においてである。しかし、彼の哲学は理論的体系の形をなさず、むしろ否定的な実践であった。
無知なる愛知者であるソクラテスにとっては、真の「自己」や「霊魂」やその「徳」はいまだ知られておらず、また他人に教えられるものでもなかった。あくまで各人がその「気づかいの哲学」によって各自の内面に発見し、自覚すべきものだった。あるいは各自の陣痛によって美しく生み出されるべきものであり、その意味で、彼はその哲学を「産婆術」と呼んだのである。
彼の「問答法」にしても、勇気、節制、知恵、正義などの徳について、その本質を厳しく問いただす問答の連続であった。それは、相手の答えの欠陥や矛盾を指摘しながら、徳そのものの真意に肉迫していったのである。その点で、ソクラテスの問答法は、プラトン、さらには近代のヘーゲルによって発展させられた弁証法のルーツとなった。
また、ソクラテスの問答法は、個々の具体的事例から普遍的な概念規定に向かった点で、プラトンのイデア論やアリストテレスの実体論の先駆けとなった。プラトンとアリストテレスの二人から壮大な西洋哲学の歴史が刻まれていった。キケロ、セネカ、デカルト、パスカル、スピノザ、ライプニッツ、ロック、ルソー、ヴォルテール、カント、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、キルケゴール、ベルクソン、ハイデッガー、ドウルーズ、ガタリ・・・彼らは、その思想内容に関わらず、すべてはソクラテスの子孫たちである。
なぜなら、彼らはみな、「人間の幸福」について哲学したからだ。まさに、ソクラテスは西洋哲学の創始者なのである。