一条真也の老福論 終活読本『ソナエ』連載 第15回

なぜ、仏壇を買わないのか

最近、「終活」をテーマにした講演の依頼がよく来る。そのときに受講者の方からよく耳にするのが、「子供や孫に負担をかけたくないので、葬式は要らない、墓も要らない。遺骨は海に撒いてくれ」といった声である。
このとき、わたしがいつも質問することは、「お子さんやお孫さんとお話をされましたか」ということだ。極端な話、本人は死んだ後のことはそれほど気にしていない。気にしているのは「子供に迷惑をかけたくない」という本人の一方的な思いだけである。
ところが、こうした親の意向に従いたくないと思うのが、じつは当人の子供たちなのだ。子は親のために「立派な葬儀を挙げてあげたい」と思っているかもしれないということである。
親の葬儀を出すのは子供としての務めだ。けっして、迷惑などと思っていないだろう。結婚式で父親が参列者にお礼の挨拶をするのと同じように、両親の葬儀に子供たちがお礼の挨拶をしたいと思っているはずだ。わたしは、婚礼と葬礼における挨拶を聞くたびに目頭が熱くなる。感謝の気持ちに満ち溢れているからである。
それなのに、「お墓も要らない」などと言われたら、子供たちにしてみれば「お墓がなければ供養できない」と思うのではないだろうか。死にゆく人は、子供の言うことに従うことも重要だと思う。迷惑などと勝手に思い込まずに、話し合ってほしい。
さらに、「お墓をつくろう」という発想になったとしても、仏壇を買おうという人は少なくなりつつある。でも、お墓に比べて、仏壇のほうがはるかに安く、メンテナンスもかからない。いつでも故人の供養ができる。
それなのに、なぜ仏壇は人気がないのか。それはライフスタイルの変容で仏壇そのものが淘汰されつつあるからではないだろうか。新しいマンションには床の間もなければ、和室もない。当然、仏間などあるわけがない。仏壇がないということは、死者はもうすでに家にいないということだ。
死者どころではない。いまの家は核家族の住まいであり、家族だけが暮らす空間である。外部の者は、生きている人でさえ家には来ない。親戚の集まりもなければ、子供の友達も家に来ない。
ファミリーレストランが家族の食事の団欒の受け皿になったように、いまや和食のファミリーレストランが日本式儀式(法要など)の担い手になっている。正月で親戚一同が集まる場所がレストランということも珍しくなくなってきた。
介護の問題にしても、個人の住宅は老人を受け入れる住環境ではない。ゆえに、介護施設や老人ホームが求められるわけだ。
仏壇が家になければ、お線香をあげたりする行為は、墓参だけになる。子供や孫に供養の作法を教えようとしても、仏壇がなければ、それは困難である。
親が「お墓をつくろう」と言えば賛成しても、「仏壇を買おう」と言えば反対する子供が多いという。これには、死者を家の中に入れたくないという心理が働いているように思えてならない。
しかし、わたしは「生者は死者とともに生きている」と考えており、生活の中には仏壇のような死者の空間が必要であると思っている。それは別に立派な仏壇でなくても構わないが、あなたの大切な故人を思い出し、その冥福を祈る「こころ」を「かたち」にする方法を真剣に考えてほしい。