一条真也の老福論 終活読本『ソナエ』連載 第2回

読書で死を乗り越える

「読書の秋」には、たくさん本を読まれただろうか。わたしは、これまでに多くの本を読んできた。
わが読書の最大のキーワードは2つある。「幸福」と「死」だ。まず、わたしは「幸福」について述べたあらゆる本を読み漁った。そして、次のように考えた。
政治、経済、法律、道徳、哲学、芸術、宗教、教育、医学、自然科学…、人類が生み、育んできた営みはたくさんある。では、そういった偉大な営みが何のために存在するのかというと、その目的は「人間を幸福にするため」という一点に集約される。
さらには、その人間の幸福について考えて、考えて、考え抜いた結果、その根底には「死」というものが厳然として在ることを思い知った。
そこで、わたしが、どうしても気になったことがあった。それは、日本では、人が亡くなったときに「不幸があった」と人々が言うことだった。わたしたちは。みな、必ず死ぬ。死なない人間はいない。いわば、わたしたちは「死」を未来として生きているわけである。その未来が「不幸」ならば、必ず敗北が待っている負け戦に出ていくようなものだ。
わたしたちの人生とは、最初から負け戦なのだろうか。どんなすばらしい生き方をしても、どんなに幸福感を感じながら生きても、最後には不幸になるのだろうか。亡くなった人はすべて「負け組」で、生き残った人たちは「勝ち組」なのだろうか。そんな馬鹿な話はない。わたしは、「死」を「不幸」とは絶対に呼ばないようにしている。そう呼んだ瞬間、わたしは将来必ず不幸になるからである。
死はけっして不幸な出来事ではない。そして、そのことを知るための方法の一つが読書であると思う。拙著に、『死が怖くなくなる読書』(現代書林)という本がある。
あなた自身が死ぬことの「おそれ」と、あなたの愛する人が亡くなったときの「悲しみ」が少しずつ溶けて、最後には消えてゆくような本を選んだブックガイドである。
死別の悲しみを癒す行為を「グリーフケア」というが、もともと読書という行為そのものにグリーフケアの機能がある。
たとえば、わが子を失う悲しみについて、教育思想家の森信三は「地上における最大最深の悲痛事と言ってよいであろう」と述べている。じつは、彼自身も愛する子供を失った経験があるのだが、その深い悲しみの底から読書によって立ち直ったそうである。
本を読めば、この地上には、わが子に先立たれた親がいかに多いかを知る。自分が一人の子供を亡くしたのであれば、世間には何人もの子供を失った人がいることも知る。これまでは自分こそこの世における最大の悲劇の主人公だと考えていても、読書によってそれが誤りであったことを悟るのだ。
長い人類の歴史の中で死ななかった人間はいない。愛する人を亡くした人間も無数に存在する。その歴然とした事実を教えてくれる本というものがある。それは宗教書かもしれないし、童話かもしれない。いずれにせよ、その本を読めば、「おそれ」も「悲しみ」も消えてゆくだろう。
「終活」にもさまざまな形があるが、究極の「終活」は、死の不安を乗り越えることではないだろうか。読書によって、おだやかな「死ぬ覚悟」を自然に身につける人は幸福な人であると思う。